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頑張れ!石岡君
石岡君、元横綱と試合をする 2 「石岡君、元横綱と試合をする」2 優木麥 石岡君、元横綱と試合をする 2

   
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 あと30秒で私の試合になるのか。いや、違う。“私の試合”なんてない。この世のどこにも存在しないのだ。
「石岡先生、現実的な結論を出さなければならない局面が訪れたようです」
 若宮がメガネを直しながら私と向き合った。こういう表情を私は何度か見たことがある。締め切りを延ばせないと編集者が伝えるとき、彼らはいつもこんな目をしていた。
「とにかく最悪の事態は避けなければなりません」
「今この場所にぼくがいることが、すでに最悪の事態ですよ」
「まだワーストではありません。むしろ石岡先生がいることが救いです」
 若宮の言い方に私は引っかかる。私がいることが救いになどなる場所も、時間も、人もあろうはずがない。
「最終ラウンド終了。判定に入ります」
 モニター前のスタッフが大声で伝える。私達の周囲がにわかに慌しくなった。
「すみません。ミステリーマスク選手、入場の準備をよろしくお願いします」
 私達のところにスタッフが飛んでくる。しかし、私は現実を受け入れる気には到底なれなかった。あえて、そのまま若宮との会話を続ける。
「じゃあ、なんですか、最悪の事態って?」
「言うまでもないでしょう。ミステリーマスクが試合に出られないこと」
「それを避けるって?」
 答えをなかば予想していたが、やはり確かめずにはいられない。
「ミステリーマスクが試合に出る、ということです。たとえ、中身が誰だったとしてもね」
 若宮は私から視線を外してからそう言った。後半のセリフは、一段と声のトーンを下げている。私の背筋を冷たいものが貫いた。たとえるなら、サメがいると知りながらインストラクターと一緒に海に入り、こわごわ泳いでいたら、案の定、サメの背びれが見えたという感じか。サメの存在は知っていたが、いざ目の前に現れると、やはりその前とは比べ物にならない恐怖が襲ってくる。
「わ、若宮さん、おっしゃってる意味がよくわか……」
「2万人の観衆、いえテレビの視聴者を入れれば何千万人という人の目の前で戦うのです。これ以上の誉れがありますか」
 私の胸の内に溜め込まれた恐怖と不安が最大限に膨れ上がった。瞬間的に大声で叫び、逃げ出そうと本気で考える。もうその後がどうなろうと知ったことではない。私は自分自身ができる範囲以上のことをこなしたつもりだ。
「オブ選手の試合、判定はドロー。延長ラウンドに入ります」
 自暴自棄になりかけた私の耳にスタッフの声が響く。無茶な行動に出る気持ちに機先を制せられた。延長ラウンドで、オブの試合がまだ少し続く。ミステリーマスクの試合まで猶予ができたのだ。
「よかったですね石岡先生。これで、まだ……」
「辞退します。おかしいですよね。明らかに間違ってる」
 彼女のペースに乗ったら駄目だ。私が選手入場口で出番を控えていること自体が、すでにミスマッチでしかないのだ。これでは、まるで陸上競技会場にピザを届けに来た配達員が、そのままスタートラインに並ばされたようなものである。
「リングで試合をすることを当たり前みたいに言わないでください!」
 少し声が大きかったかもしれない。技術スタッフや、神輿を担ぐためのアルバイトスタッフの何人かがこちらに目を向ける。
「気づかれたら一巻の終わりですよ」 若宮が小声でたしなめる。
「わかってますよ。だから、今まであなたたちの言う通りにぼくは……」
「Where there is a will, there is a way.」
 私の言葉を遮って、若宮は早口に英語を話した。
「な、何なんです」
「意思あるところに道は開ける。と言いました。石岡先生あるところに道は開けますよ」
「開けませんよ!」
 ついに私は当たりかまわず大声を出す。再び周囲のスタッフが心配そうにこちらを伺った。先ほど入場の段取りを伝えに来たスタッフが、私達の顔を見ながら言う。「問題ありません。開きますよ」
「えっ…?」
「入場ゲートはテーマ曲が鳴ったら迫力を出して開きます。堅そうに見えるゲートですけど自動で動かします。安心してください」
「ああ、それはどうも」
 とりあえずスタッフの説明に私は礼を述べる。しかし彼の誤解が、激発しそうだった私の感情を少し冷ましてくれた。
「あそこにいる半被を着た覆面の集団。あの人たちはね。ミステリーマスク選手のためにテレビで募集した有志の協力者よ」
 若宮が真剣な表情で語りかけてきた。さっきまでとは違う雰囲気だ。
「みんなミステリーマスク選手の神輿を担いで入場したいって志願してきたの。そのひとりひとりに面接してみたら……」
「何が言いたいんです、若宮さん」
「その面接で彼らは異口同音にこう言ったわ。『ミステリーマスク選手から勇気をもらいたいから、神輿を担ぎたい』って」
 若宮の目が潤んでいた。
「あんなに大きな、あんなに強い元横綱の暴君竜と、たった一人で戦う。小くて、無名の格闘家ミステリーマスク。自分もその勇気が欲しいって、みんなが言ったのよ」
 みるみる溢れた涙が、幾筋も若宮の頬を伝う。私は静かに耳を傾けていた。
「神輿を担ぐ人たちだけじゃないわ。この会場のファン、テレビの向こうにいるファン。一体、どれだけの人が暴君竜と戦う、小さなミステリーマスクに勇気をもらおうと待ってると思う? それなのに、それなのに……」
 若宮はハンケチで涙をぬぐった。
「暴君竜と戦いもせずに、ミステリーマスクは試合に出ません、なんて。言えない。私は言えないのよ石岡先生!!」
 私の胸に火がともった。ともし火ぐらいの大きさだが、たしかに点火した。
「延長ラウンド終了。判定に入ります」
 スタッフの声が響く。私は若宮に背を向けて壁を見つめた。複雑な思いが胸の中で渦巻いている。それはさっきまでのネガティブな感情ではない何かだった。
「ああ、すみません。ずっと解説が忙しくて」
 いつのまにかプロデューサーの溜来が私の傍に立っていた。この冬の最中に流れ出る汗をタオルで拭いている。彼もまたこのイベントに賭けたオトコなのだ。
「それで石岡先生、試合のことなんですけど……」
「はい…」
 私の口から即座に否定の言葉が出なくなっていた。そのとき、入場ゲートがにわかに騒がしくなる。
「オブ、お疲れ様」
 スタッフから口々に声が飛ぶ。試合を終えたオブが戻ってきたのだ。ついにセミファイナルは完全に終了したらしい。
「オー、ミステリーマスク」
 私を見つけたオブが駆け寄ってきた。試合コスチュームにバスタオルを肩にかけた彼の顔は唇が切れ、右目の端が腫れていた。
「グッドマッチだったよ、オブ」
 私は右手の親指を突き出す。正直言って試合自体は、よく見ていないが、延長ラウンドまで粘ってもらった時点で、私には十分以上にグッドマッチである。オブは首を横に振りながら、私の右手を両手で包む。
「ゴメンなさい、ミステリーマスク」
 通訳の女性がオブの言葉を訳す。
「判定で負けてしまいました。お客を楽しませながら、勝負で勝つ試合をするのは難しいネ、と言っています」
 こらえ切れずに私はオブの手を握り返す。試合前に私の控え室を訪れた彼に『ただ相手を倒すだけでは真のプロフェッショナル格闘家ではありません。じっくり、お客さんを楽しませて戦って欲しい』と伝えた。それは、本当はプロうんぬんの話ではなく、単に大塚到着までの時間稼ぎのつもりで口にしてしまったのだ。だが、オブはその言葉どおりにできるだけ派手な攻防を心がけたり、早いラウンドに勝負をかけなかったのだろう。その結果、レフェリーからは消極的な姿勢ともとられ、判定ではポイント差で負けたに違いない。
「オブ、オブ、許して欲しい。アイムソーリー」
 私はオブに頭を下げた。格闘家の勝負に対して、軽い気持ちで影響を与えてしまった。
「ノー、ミステリーマスクが気に懸けることじゃないネ。私が未熟だっただけ。そんなことよりも……」
 通訳はここで私に向き直る。
「メインイベント、頑張ってください。暴君竜なんてやっつけてやれ、と言っています」
 その言葉を受けた私は、オブの目を見てうなずいた。
「イエス!!」
 オブが「グッドラック」と親指を突き出す。一度ひしと抱き合うと、オブが立ち去る。私は溜来に向き直る。
「そこをどいてください。溜来さん」
「はっ、えっ……どうして」
 溜来は戸惑っている。私は微笑んだ。マスク越しだから、彼には見えないが、それでも自嘲気味に笑わずにはいられない。
「入場の準備がありますから」
「にゅ、入場するんですか? なんのために?」
 溜来の質問は、他人から見れば間の抜けたものに聞こえただろう。選手が入場するのは、何のためかなど幼稚園児でもわかる話だ。しかし、この二日間、溜来と私との間では答えが出ず、延々と話し合われてきた深遠なテーマなのだ。そして、今この瞬間にようやく答えが出た。私は大きく息を吸うとひと息に言う。
「試合をするためですよ。暴君竜と!」
 リングに立つことが、ただそれだけで誰かの気持ちに伝わるのなら、やってみるしかない。数え切れないほどの不安があったが、自分でもビックリするほど気持ちが落ち着いていた。手の震えも止まっている。
 石岡和己、ついに大晦日のリングに上がる。次回、いよいよ試合スタート。

つづく つづく
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