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頑張れ!石岡君
石岡君、焼き肉屋に行く 4 「石岡君、焼き肉屋に行く」4 優木麥 石岡君、焼き肉屋に行く 4

   
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 最悪のタイミングである。着信を見ると、私がエッセイを頼まれた月刊誌の編集者だ。一瞬、無視しようかとも考えたが、ケータイの着信音を目の前にいる京子も耳にしている。それなのに私が電話に出ない態度を見せれば、彼女にしてみれば不快の念は拭えないだろう。ビジネスに対して一家言を持っている京子に、不誠実な姿勢は見せないほうがいい。渋々、箸を下ろすと私は通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、石岡先生。『月刊 風来坊』の畠山です。お世話になります」
「こちらこそ」
 私は畠山の電話の用件が見当が付かなかった。締切までは、まだ余裕があるはずだ。というより、つい先週、次号分の原稿を送ったばかりである。
「すみません。次号の原稿の件で確認のためご連絡差し上げたんですが……」
「はい」
 耳はケータイに当てたままだが、私の目と意識は、網の上に置かれていくカルビやロースに釘付けである。サッと炙る感じで火を通した肉が、次々に京子の口の中に放り込まれていく。肉汁が滴り、香ばしい匂いが私を刺激する。
「あのFAXはご覧になっていただけたでしょうか?」
「FAXとおっしゃいますと」
 私は京子の箸の動きから目を離せない。まるで手馴れた職人の作業のようであり、滑らかな動きながら、ストップすることがない。肉の山から一枚、また一枚と新たな肉片が移動していく。
「先日の石岡先生の原稿を清書させていただいたFAXのことですが…?」
「えっ…?」
 私には心当たりがない。ただ清書の意味は何となく付いた。今回の「月刊 風来坊」の原稿を私は手書きしたのだ。ちょうど、その原稿を執筆中にパソコンの調子が悪くなってしまい、修理に出している間に仕方なく手書きで執筆して、編集部にFAXしたのである。その後、畠山が何も言ってこないので、彼がうまく処理してくれたのだろうと思い、その件は忘れてしまった。しかし、今、畠山は「清書したFAX」と言っている。
「もしかして、ぼくの手書きの原稿を打ち直して、自宅にFAXしてくれたんですか?」
「そうです。おっしゃる通りです」
 畠山はやっと話が通じたと喜びの様子だ。だが、事態は悪いほうに向かっている。実は私は何日か前にFAX用紙が切れていたが、そのまま放って置いてしまった。私のファクシミリは、紙がない場合は、データとして受信し、蓄積文書としてファクシミリ内に置いておかれる。用紙を補充すればすぐにプリントアウトされるはずだが、私は畠山がFAXを送信してきたことも知らなかった。
「すみません。実は…」
 私は畠山に事情を説明した。長い話になりそうなので、すでにテーブルを離れている。いや、むしろあまりにハイペースで肉を食べつづける京子を見ているのが辛かったからかもしれない。目の前にまで現れて、いまだに一口も口にすることのできない苦しみは、想像を絶する。
「先生、今夜がデッドラインの締め切りなんですよ」
 畠山は泣きそうな声だった。腕時計を見ると、すでに10時を回っている。私自身も泣きたい気持ちは一緒だ。
「それで、打ち直しをした原稿に何箇所か判読できない文字もありまして、どうしてもその確認をさせていただきたく思っているのですが…」
「えっ、ええ……」
「ちなみに先生はいまどちらにいらっしゃるのですか?」
「荻窪です」
 答えてから、しまったと思った。畠山の声のトーンが一オクターブも上がったからだ。
「先生は、東京にいらっしゃるんですか?」
「は、はい…」
「では、こちらにいらして、原稿の確認だけお願いできないでしょうか。もちろん、編集部までタクシーをお使いいただいて、帰りも同様にタクシーで…」
「あ、は、畠山さん」
「ハイ」
「今、少し手が離せない、その…打ち合わせの最中でして…ね」
 私の胸は確かに痛んでいる。だが、百パーセントのウソではない。打ち合わせの最中であることには変わりないのだ。仕事は大事である。原稿も大事である。しかし、人生にはもっと大事なことがある……はずだ。あれだけの代償を払った以上、今の私が焼き肉を食べられないのなら、神も仏もあるものか。
「何とか電話で口頭で確認するわけにはいきませんか」
 私の提案を畠山は快く受け入れてくれた。彼が電話口で読み上げる原稿を、私が確認していく。読みにくい文字も、すぐになんと書いたか思い出した。短い原稿だったから可能なやり方だった。とはいえ、正味で20分以上は時間がかかる。ようやく、その作業を終えて私が京子のテーブルに戻ると、彼女はナタ・デ・ココをつついていた。
「どうもすみませんでした。長く中座してしまって…」
「大丈夫ですか。お忙しそうですね」
「いえいえ」
 私は手を振りながらも、テーブルの上を見回して唖然とする。肉の皿がないのだ。そして、京子はすでにデザートに取りかかっている。非常に嫌な予感が私の背中を貫く。
「あの……コースのほうは?」
「ええ、とりあえず片付けてしまいました」
 京子は笑顔で私に答えた。つまり、彼女が一人で全部食べてしまったということだろうか。カルビ、ロース、タン、モモ、ハツ、レバー、ミノ、ハチノス、センマイ、ハラミ…を全部、一枚も残さずに平らげたのか。
「石岡先生のお帰りをお待ちしようと思ったんですが、私は、勢いがつくと止められない性質なんです。特に食べ物関係はその傾向が強くて…」
「あは…」
「申し訳ありません」
「あ、いえいえ…」
 うつろな笑いしか湧いてこない。ついに私の夢が敗れてしまった。あんなに食べたかった焼き肉をとうとう口にする事が出来なかったのだ。今までの疲れがドッとまとめて襲いかかってきた気分だ。
「それで、お願いするコンテンツの監修の件なんですけど…」
 京子に言われるまで、私はその話を忘れていた。確かに今日、彼女と会っている理由は、私がミステリー作品を題材にしたネットゲームの監修をするという話だった。
「実は、クライアントの企業から、自社のホームページで殺人事件を題材にしたゲームを展開するのは差し控えたいという連絡がありまして、誠に心苦しいのですが、石岡先生には話を白紙にしていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。それはもう…」
 元々、気乗りのしなかった話である。それにしても、今すべてが失われたような虚脱感にとらわれていた。
「では、私はこれで失礼致します。また機会がありましたら、その折には是非、よろしくお願いします」
 京子が立ち去るのを私は精気のない目で見つめていた。荻窪から横浜まで帰るのには、とてつもなくエネルギーが必要な気もする。そのとき、携帯電話が鳴った。相手は里美だった。
「もしもし、石岡先生」
「あ、君か」
「何だか元気ないなあ。今日は東京に来るって言ってたから、私もいま帰りなのよ。時間が合うなら、一緒に帰れるかなあと思って…」
「いいよ」
 どちらにせよ、家には帰らなければならないのだ。
「実はね、私お腹空いてるの。ラーメンぐらいつきあってくれない?」
 里美の言葉に私の目が輝いた。
「それなら、焼き肉を食べに行こうよ」
「えっ、だって、石岡先生はいま焼き肉を食べたばかりじゃないの? 昨日から焼き肉を食べるってずっと言ってたじゃない」
 里美の疑問はもっともである。しかし、信じられないかもしれないが、私はまだ一切れの焼き肉も口にしていない。
「いいからいいから。今のぼくにはこの世で二種類の食べ物しか目に入らないんだ」
「何なの?」
「焼き肉と、それ以外」
 だから、今日は〃それ以外〃を食べる気にはどうしてもならないのである。
つづく おしまい
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