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頑張れ!石岡君
石岡君、市民マラソンに出る 3 「石岡君、市民マラソンに出る」3 優木麥 石岡君、市民マラソンに出る 3

   
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「上位入賞なんてありえない!」
 思わず私は声を荒げてしまう。いま「スタートしてくれるだけで……」と殊勝な言葉を口にしていたくせに、勇治は何を考えているのだろう。もしフルマラソンで私に上位入賞の可能性があるとしたら、対戦相手が全員、カタツムリかゾウガメの場合だけだ。
「失礼ですが、あなたは石岡先生の……?」
 インタビュー中にでしゃばってきた勇治に対して、ケーブルテレビのリポーターが怪訝そうにマイクを向ける。
「私は石岡和己選手のトレーナー兼ペースメーカーを務める蓮見勇治です」
「おおー、さすが石岡先生ともなると市民マラソンに出場するのに万全を期すのですね」
 話が予想外の方向に膨らんでいる。
「もちろんです。あんたらマスコミは、キッチリと石岡先生をマークしてないと恥をかいちゃいますよ」
 勇治は言いたい放題である。隣にいる私はスタート前から走り出して消えたい気分だ。
「頼もしいスタッフの方のバックアップを受けて心強いですね石岡先生」
「えっ、まあ……ええ…」
「ただ今回がフルマラソンへの出場は初と伺いましたが、何か秘策はあるのでしょうか」
「ひ、秘策?」
「当然ありますよ。S市の北口から徒歩10分の位置にある『蓮の湯』に浸かったんですよ」
 ここぞとばかりに宣伝を始める勇治の舌は止まらない。
「そうなんですか石岡先生?」
「は、ハイ。その銭湯に行ったことは……あります」
「毎月1日と15日は薬湯風呂。40歳以上半額デーや、レディース半額デーもあるんです」
「わかりました。では、健闘をお祈りします」
 公共の電波が思わしくない目的で使われていると判断したのか、リポーターは強引にインタビューを打ち切った。私はレース前から流れてきた冷や汗をタオルで拭う。
「お、あれ。テレビの人はどうしたい?」
 勇治の父である次郎がキョロキョロ見回す。
「インタビューは終わっちゃったよ」
「惜しかったなあ。毎日、先着5名様までの特製タオルプレゼントも告知したかったのに…」
「大丈夫だよ。タオルは身につけて走っていいんだから、石岡先生にお願いしよう」
「そうじゃな。先生、できればこのタオルをカメラに向けて広げてくださいな」
 次郎から手渡されたタオルには「週に1度は蓮の湯でハッスル!」と文字が書かれていた。私は肉体的な理由以上に、精神的な理由で棄権したくなってきた。


「本日は好天に恵まれ、マラソンをやるための1日と言えます」
 S市の市長が開会式で挨拶をしている。老若男女の出場選手がズラリと並んだ姿は壮観である。主催者は3000人と発表していた。通常のマラソン大会なら、たとえ同時にスタートしても、20歳代や30代、40代以上など年齢別のクラスに分けて順位を表彰することが多い。しかし、このS市総合マラソン大会は、言うならば無差別級。一切のクラス分けはない。
「人生はマラソンのようなものとよくたとえられます。ですが、私は逆だと思います。マラソンが人生に似ているのです」
 市長の長い話を聞きながら、各選手は手足をブラブラさせたり、アキレス腱を伸ばしたりとウォーミングアップに余念がない。
「人生なら誰でも参加できなければおかしい。そこで、このマラソン大会は競技の期間を最大限に延長いたしました。本日9時にスタートして、折り返し地点を回ってこの河川敷に再び戻ってくるのは、12時間後までOKです。つまり、夜の9時までにゴールインすれば正式記録とします」
 確かに42.195キロのフルマラソンとはいえ、前代未聞の競技時間である。長いといわれているレースでも7時間ぐらいが相場だ。また12時間もあれば途中でかなりの距離を歩いてもゴールインできるかもしれない。
「そして、皆さんと共に走る招待選手を紹介しましょう。日本陸上界のホープである、須原疾風(すはら・はやて)さんです」
 市長の言葉に促されて壇上に姿を見せたのは、陸上のアジア大会で入賞経験もある選手だ。疾風はマイクを手にして話し出した。
「皆さん、おはようございます。今日は感動を受けたことがありまして、それをご報告します。作家の石岡和己先生、いらっしゃいますか」
 突然、壇上からマイクで呼びかけられて、私は仰天した。言うまでもなく、疾風とは全く面識がない。
「石岡先生、もしいらっしゃったら手を挙げていただけませんか」
 疾風は手を額に当てて選手団を見回す。一体、彼は私に何の用があるのだろうか。こんな衆人環視の中で、疾風からアドバイスをしようというのか。いや、もしかしたら「興味本位で初出場などマラソンを舐めるな」とばかりに叱咤されるかもしれない。いずれにせよ、このままうやむやにプログラムが進行してくれることを祈る。
「先生、ご指名ですよ」
 隣の勇治が私の脇腹を突いた。仕方なく、私はおずおずと右手を挙げた。
「おおー、石岡先生。そちらにいらっしゃいましたか。どうぞ、壇上にお上がりください」
 ますます私は戸惑う。だが、駄々をこねることは許されないようだ。周囲は、拍手で私に疾風の指示に従うように後押ししている。
「チャンスですよ。『週に1度は蓮の湯でハッスル!』だとPRしてください」
 緊張しながら前に出る私は、勇治のどさくさまぎれの言葉など耳に入らない。
「さあ、どうぞ石岡先生。実は是非、あなたに言いたいことがあるんです」
 壇上に上がった私の膝はガチガチと震えている。疾風にマイクを向けられて「何でしょうか」と答えるのがやっとだ。
「実は、先ほど石岡先生がテレビのインタビューに答えているのを拝見しました」
「すみません。あの……ビギナーなのに差し出た真似をしまして……」
「いえいえ、とんでもない。あのときにおっしゃっていた言葉に僕は感銘を受けたんです」
 疾風の笑顔を見ながら、私の顔は青ざめた。確か、あのインタビューのときに、目標を聞かれて、勇治が「上位入賞」などと宣言したからだ。
「す、すみません。ぼく自身は上位入賞なんて大それた……」
「違いますよ石岡先生。僕が心を打たれた言葉は『自分のためではなく、誰かのために走る』。あのひと言です」
「あ、ああ……」
 私はホッと胸を撫で下ろした。
「ご存知のように最近の公式大会での僕の成績は思わしくありません。でも今朝、石岡先生の言葉を聞いてハッと気が付いたんです。自分のことばかり考えていたんじゃないかって。初心を忘れていた気がします。42.195キロを走れるってことは、自分ひとりでは無理なんですね。サポートしてくれるスタッフや、応援してくれる方々。皆さんの力で成り立っているんだと、あらためて教えられました。あなたのおかげです」
 疾風が私の手を力強く握ってきた。彼の目からは涙が流れている。
「い、いえ……恐縮です」
「僕は今日、力の限り走りますよ。誰かのために」
 疾風は、まだ私の手を離さなかった。会場からは大きな拍手が湧き起こっていた。壇上の光景を目にした選手の間からは、あちこちですすり泣きも聞こえる。
「いやー、運動選手って本当に気持ちがいいね。今日は最高の大会だ。市長として誇りに思います」
 市長も目を真っ赤にしながら、手を叩いていた。私だけが突如として生まれた湿っぽいムードの中で居心地の悪い思いをしている。
「せっかくだから石岡先生に開会式を締めてもらいますか」
「それはいいアイデアですね」
 市長と疾風の提案に、会場中からひときわ大きな拍手が起こった。マイクスタンドの前に促された私の頭は真っ白である。
「さあ石岡先生、元気よくお願いしますよ。ひと言どうぞ」
 マイクの前で私は一息に叫ぶ。
「週に1度は蓮の湯でハッスル!」


 午前9時前。スタートラインに並びながら、私はまだ落ち込んでいた。開会式のコメントは、会場中に大爆笑を巻き起こし、感傷的な雰囲気を台無しにした。壇上にいた市長と疾風は唖然とした顔だった。ご機嫌だったのは、蓮見次郎と勇治の親子だけだろう。
「石岡先生のおかげで何千万円に値する宣伝効果ですな」
 それなら、ここで私はお役御免にしてほしい。
「あとは、テレビを通じて1秒でも長く、蓮の湯の名前を売りましょう」
「もう十分のような気もしますが……」
「まだまだです。イケるときは、ガンガン攻めないと」
 内心では私はあきれながらも、スタートラインに立つ。3000人が並んでいる。どの顔もスタート直前の緊張で強張っていた。
 時計の針は9時を指した。 「スタート!!」
つづく つづく
…
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