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頑張れ!石岡君
石岡君、市民マラソンに出る 1 「石岡君、市民マラソンに出る」2 優木麥 石岡君、市民マラソンに出る 1

   
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「順位は本当に関係ないんですね」
 私は念を押す。フルマラソンに出場するだけで相当な負担なのに、結果まで求められてはたまらない。
「もちろんです。石岡先生は出場してくだされば十分です」
 次郎と勇治は同時に言った。私はホッと胸を撫で下ろしかけるが、すぐに現実的な問題に直面する。何といってもフルマラソンである。42.195キロなのだ。考えてみれば、この10年間で1キロ以上を疾走した覚えはない。そんな人間が過酷なマラソンに出場するなんて、とても正気の沙汰ではない。
「あの……これは申しげにくいんですけど……」
 意を決して口にするしかない。
「正直に申し上げて完走する自信はありません。たぶん……高確率で……いや、確実に途中でリタイアする可能性がありますが、それでも……よろしいですか」
 譲れない一線である。完走を義務にされることは、私に死ねと言うに等しい。
「言うまでもありません」
 勇治は真剣な顔で首を縦に振る。
「無理を承知でお願いしているのに、そのうえ無理な条件は課せられません。これが限界だと思われた時点で随意にリタイアください」
 私が安心しようとしたとき、次郎が言葉を続けた。
「ただ、できればのお願いはございます」
「な、何でしょうか」
「レース中継は、折り返し地点で最も長く選手を映します。なるべく折り返し地点までは頑張っていただければ幸いです」
「お、折り返しって……半分じゃないですか」
「そうです。半分だけは頑張ってください」
「は、半分って……」
 42.195キロの半分の距離は、21キロ以上である。働いている平均的な成人男子の1日の歩数は7000歩とか。私は会社勤めをしていないので、外出するのは買い物程度。そうなると、1日の歩数は平均より下の数値の5000歩ぐらいか。歩幅は目算で80センチ程度なので、80センチの5000歩分は、40万センチ。100センチが1メートルなので、4000メートル。つまり、私は合計で毎日4キロ程度しか歩いていないのだ。
 歩いている距離である。走る体力の問題もある。いま蓮見親子から課せられている21キロ以上を走れという条件は、私にとっては毎日歩いている距離の5倍以上の距離を走れと突きつけられているのだ。成立するはずがない。
「お約束はできません。折り返し地点まで行けるかどうかは、とてもお約束は……」
「わかりました。私たちも体を張りましょう」
 突然、勇治が叫んだ。浴場に大音声が響く。
「石岡先生にペースメーカーをおつけします」
「ペースメーカー?」
 勇治の奇妙な申し出に対して私は戸惑う。
「急激に走って、私の心臓にトラブルが起きた場合の措置ですか?」
「いいえ、違います」
 ひとしきり笑うと勇治は説明する。
「ペースメーカーとは、簡単に言えば石岡先生と伴走して、一定のペースを保つ役目のランナーのことです」
「は、はあ……」
「よく賞金レースや、オリンピッククラスのアスリートに付くんですけどね」
「その伴走するランナーは……」
「私です」
 勇治が自分の胸を叩いた。素っ裸なので、どことなくユーモラスである。
「えっ、君が…」
「これでも市民マラソンの常連でして。優勝経験はありませんが、上位入賞は何度か果たしております」
「じゃあ、君が普通に出場すれば宣伝効果があるんじゃないの」
「今度の大会は強豪も多く、本気で取り組んでも上位入賞は難しいでしょう。それに、下位でもテレビに映れるのは、石岡先生のような有名人ランナーだけですから」
 全てに納得したわけではない。蓮見親子の言い分にはツッコみたい点がいくつかある。自分の体力には自信のかけらもない。しかし、それでも私は1週間後にS市総合マラソン大会に出場することを承知した。他に選択肢がなかったからだ。


「くれぐれも無理は禁物です」
 ジョギングウエアに身を包んだ勇治はストレッチをしながら何度もそうくり返した。
「ジョギングでもにわかランナーが心臓麻痺を起こしてしまうのは、体の変調を無視して自分の体力を過信した結果が多い。石岡先生は、定期的な運動を行なってこなかったのですから、とくにその点はお含み置きください」
 勇治の言葉は正論だが、そんな体力のない人間にフルマラソンに出場しろと強要したのは彼らである。
「今日の走りの様子で、無理そうだったら出場辞退もありえるよね」
「ないでしょう」
 あまりにキッパリとそう言われて、私は返す言葉がない。
「男には戦わなければならないときがあります。たとえ、無残な結果が待っていたとしても、勝負に挑まなければならない場合がある。それが、今回だとはお考えになりませんか」
「まったく思えないんだけど、気のせいかな」
「アッハハハ。石岡先生は冗談がお好きですね。さあ、では張り切って、足慣らしに走りましょう」
 勇治は私の意思には頓着がないようだ。
「まずは5キロから始めましょう」
 私達はS市の運動公園に来ている。日曜日に迫った市民マラソン大会に備えて特訓と言うわけだが、日ごろほとんど運動していない私が今さらトレーニングしたところで変化があるとは思えない。だが、全く運動せずに本番を迎えるのは最悪である。
「明日は、さらに5キロ増やして10キロ。次は15キロと段々増やしていけば、日曜日までには30キロぐらい走れるようになってますよ」
「えっ、ええ…!」
 私は声を失う。顔面蒼白になっている。勇治の計画は、無茶どころか、殺人的なスケジュールである。
「行きますよ、石岡先生」
 笑顔だけはさわやかな彼は、すでに走り出していた。


「満足なトレーニングができなくて、すみませんでした」
 日曜日の朝、勇治は申し訳なさそうに頭を下げた。私は「いや気にすることはないよ」と言うが、内心は心臓が止まりそうなほど不安である。結果から言うと、私のために立ててくれた勇治の計画は初日から破綻した。最初の5キロが走れなかったのだ。我ながら情けない話だが、肉体は正直である。もうその時点でフルマラソン出場など夢のまた夢だと、天が教えてくれていた気がする。5キロを走れない者が、42.195キロを走れるわけがない。それは自然の摂理に反しているのだ。  しかし、私はS市総合マラソン大会の会場にいた。スタート地点であり、ゴールでもあるこの河川敷には、すでにランニング姿の老若男女ランナーが集まっていた。いくつも設置されたテントではスタッフが慌しく動き回っている。
「筋肉痛は治りましたか?」
「えっ、ええ……」
 5キロの途中で走れなくなってしまった私は、翌日から足の筋肉痛に襲われ、2、3日はほとんど寝て過ごしたほどだ。
「やっぱり……辞退ですよね」
 勇治がうつむきながら言った。まったくトレーニングをしていないのである。答えの代わりに私は静かにコートを脱いだ。勇治と次郎が目を丸くする。私がランニング姿を披露したからだ。
「完走のお約束はできませんよ」  私は笑う。次郎は涙を浮かべて何度も頭を下げた。
「ありがとうございます石岡先生。スタートしてくださるだけで、もう私は……」
 もちろん辞退も考えた。いや、この5日間、そればかりを考えていたと言っていい。だが、出場を選んだ。私にしては珍しく、できる限りやってみようと思った。
「石岡先生ですか。レース前の意気込みをインタビューしたいのですが……」
 ケーブルテレビのスタッフがマイクを構えて立っていた。いつもなら、目立つことを極力避けたいのが私の信条だ。しかし、今回は違う。できるだけ「蓮の湯」をPRしなければならない。
「構いません。お願いします」
 私が承諾すると、すぐに目の前にマイクが向けられた。 「石岡先生とマラソンではイメージがつながらないのですが、出場を決められたきっかけは?」 「自分のためではなく、誰かのために走るということです」
「どれぐらいの成績を目標にしていますか?」
「そうですね……」
 少々、口ごもってしまう。まさか5キロ走破が目標とは言えない。その間隙をついて、横から勇治が口を出した。
「もちろん上位入賞です」
つづく つづく
…
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