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頑張れ!石岡君
石岡君、市民マラソンに出る 1 「石岡君、市民マラソンに出る」1 優木麥 石岡君、市民マラソンに出る 1

   
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「石岡先生はウチの秘密兵器です」
 蓮見次郎は私の手を取って何度もそう言った。まともに彼を見るのが恥かしくて、私は視線を移す。富士山が見えた。日本一の霊峰からいま朝日が昇ろうとしている。それはタイルに描かれた絵である。いまの私は素っ裸だった。銭湯に入っているのだ。
「お父さん、お風呂なんだから大概にしないと、石岡先生も困ってるでしょう」
 次郎の息子である勇治が髪を洗っている。泡だらけの頭をこすりながら、私に頭を下げた。私が何年ぶりかで銭湯に入ったのは、勇治の誘いを受けたからだ。
 そのてん末はこうである。蓮見勇治の勤める出版社の文芸誌に短編を収めるため、私は神奈川県S市まで足を伸ばした。最近ではメール1本で原稿送付というパターンも多いのだが、S市には有名なラーメン店があり、私はついでにそこで塩ラーメンを食べようと考えていたのだ。
「ご足労いただいて、本当に恐縮です」
 出版社の近くの喫茶店で会うと勇治はひたすら済まなそうだった。
「たまには外出しないと、ぼくもしなびちゃうからね」
 ひと仕事終わり、これから人気店のラーメンを食べられると思うと私の舌は滑らかになる。
「このままでは、私の気が済みません」
「いや、気にしなくていいよ」
「そうだ。石岡先生、お風呂に行きませんか?」
「え、お風呂?」
「近くにいい銭湯があるのでひと風呂浴びましょう」
 最近ではラドンセンターや、都心のテーマパーク型の温泉施設に人気が集まっているらしい。お風呂に行くという提案自体は悪くないように思えた。まだ午後1時を回った時間帯なので、ラーメン店は混雑しているだろう。ひと風呂浴びてから、夕方の早い時間に行くほうが行列も少ないはずだ。
「でも、まだお昼過ぎだよ」
 一応そう言ったが、私の内心は楽しみが増えたことにワクワクしていた。
「それがいいんじゃないですか。江戸っ子ですよ」
 神奈川県民である勇治はわけのわからない理由で、私をこの「蓮の湯」に引っ張ってきたのだが、実はこの銭湯が彼の実家だと知らされる。
「おお、あなたが石岡先生ですか」
 番台に座っていた老人が素っ頓狂な声を挙げると、私の手を取った。
「お父さん、落ち着いてよ」
「これが冷静でいられるか。ウチの店を救ってくれる救世主のお出ましなんじゃぞ」
「あ、あの……」
 話の方向がまったく理解不能だ。私はただ誘われるままに汗を流そうとついてきただけである。 「まあまあ、とにかくウチの自慢の大浴槽にお入りください」
 それが目的だったので否やはない。浴場には誰一人いなかった。
「うわー、気持ちいいね」
 しばらく温泉宿に行っていない。やはり広い浴場は、身も心も開放してくれる。
「もちろんです。石岡先生のために開けましたから」
「えっ、どういうこと?」
「この時間は、先生の貸切ですよ」
 勇治はタオルを片手に堂々と入ってきた。服を着ているときはわからなかったが、彼は均整の取れた肉体をしていた。不規則な編集者としての生活の中でも、できる限り節制をしているのだろう。
「蓮見君の実家が銭湯だとは知らなかったよ」
 私は木の椅子に座ると、洗面器にお湯を溜める。
「不景気なんですよ。オヤジが一人で頑張ってるんですけど……」
 そこまで勇治が話したとき、浴場の引き戸がガラガラと開けられる。
「石岡先生、お背中を流しますぞ」
 先ほどまで番台に座っていた次郎が入ってくる。
「で、でも……番台のほうは……」
「ご心配なく。今の時間は石岡先生の貸切ですからな」
 事も無げにそう言うと、次郎は私の後ろに回る。
「蓮見次郎、精魂込めてお背中をお流しいたしますぞ」
「け、結構です。ぼくはその……」
「遠慮なさるな。これでも、力士の背中を流したことがございます。あの広い背中を太平洋とするなら、石岡先生の背中は琵琶湖ほどです」
 私は本心から人に背中を流してほしくはなかった。他人に自分の体を洗ってもらうなどということには抵抗感を抱いてしまう。
「本当に結構ですから……」
「まあまあ、私たちの誠意ですよ。42.195キロも走っていただくのに、こちらができることなど微々たるものですから」
「はっ…?」
 私は自分の耳を疑った。42.195キロ? 走る? 何かの比喩だろうか。
「ウチの息子が本当にお世話になっております。ご迷惑をおかけしてないですか」
 私の疑問などお構いなく、次郎は石鹸をつけたタオルで背中を擦り出した。
「あ、いえ……勇治君にはぼくのほうこそ迷惑をかけているぐらいです」
「石岡先生、親子ともどもお世話になります。もはや、おすがりするしかありません」
 感極まったのか、次郎は目を真っ赤にしている。私は事態を正しく把握する必要があった。
「あの……すみません」
 私は次郎に向き直る。
「どういうことなのか、ちゃんと説明してください。救世主とか、42.195キロとか、走るとか。一体、何なんでしょうか」
 次郎と勇治は観念したように二人で並んで座った。



「市民マラソンに出場する? ぼくがですか?」
 私の叫びは、大浴場に響いた。
「一週間後にS市総合マラソン大会があります。これに出場してください」
 次郎と勇治の頼みは無謀を通り越して非現実的だ。
「無理ですよ。どなたかと勘違いしている」
「いいえ、石岡先生でないとダメなんです」
「すみません。できるわけがない」
「とにかく話を聞いてください」
 勇治に熱心にそう言われれば、さすがにすげなくはできない。話だけでも聞くことにした。
「実は、ウチの『蓮の湯』は毎晩、閑古鳥が鳴いている状態で、正直に言って、このままではあと3か月ももちません」
「それは……」
「現在、銭湯ブームはあるんです。大きな浴場に入りたいという需要はある。ウチは見た通りの普通の銭湯。電気風呂だとかサウナ、ジェットバスなんて代物はない。でも、そういう昔ながらの銭湯が逆に新鮮だと言う人たちもいるはずです。そのお客さんは近所じゃなくても入りに来てくれるんですよ」
「そ、そのことと、ぼくがマラソンに出る話に何の関係が……」
「ゼッケンにウチの屋号をつけて出場していただきたい」
「つまり、広告塔というか…」
「そうです」
「でも、ぼくはマラソンになんか出たって、どん尻かリタイヤか……」
「順位は関係ありません。レースの模様はS市のケーブルテレビで放映されます。そのときに、有名人が出場していれば定期的にカメラには映るはずです。それで、十分に宣伝効果が生まれます」
 次郎と勇治はそう言うと、二人並んで膝を着いて頭を下げた。
「この通りです。石岡先生、よろしくお願い致します」
「わ、わかりました。頭を上げてください」
 弾みでそう口にしてしまったが、2秒後には後悔していた。
つづく つづく
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