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頑張れ!石岡君
石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす 5 「石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす」5 優木麥 石岡君、歌舞伎町で朝まで過ごす 5

   
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 私の財布がそこにある。
 全速力で追いかけ、取り逃がした犯人が目の前にいた。大ガードをくぐって西口に出た辺りで、私はこの女の子の姿を見失った。もう見つからないと観念して東口まで戻ってきたのだが、再び彼女に遭遇した。日頃の行いがいいからか、いや、それなら最初から財布を取られたりはしないだろう。
「どうしたのイッシー」
 携帯電話の向こうでアマミが怒鳴る。私は立ち上がった。今度こそ捕まえて財布を返してもらう。盗まれて、まだ三十分も経っていない。入手時のまま財布を保持している可能性は高い。
「あとで連絡する」
 私はアマミとの通話を切った。慎重に行動する必要がある。いきなり声をかければ、先ほどと同様、走り去られるのがオチだ。私は女の子の五メートルほど後ろを歩き出した。区役所通りを職安通りに向かって歩いている。
「どうですか。1時間3000円で飲み放題。いい子つけますよ」
 赤い半被を着た男や、黒服姿の男が私を店に誘う。しかし、今の私の懐は寒いどころか氷河期である。キャッシュカードからクレジットカードまで含めてゼロなのだ。
 もっとも、手持ちの資金があれば店に入ったかといえば、また別の話だ。よくホステスが同じソファに座って、水割りを作ってくれる風景をドラマで目にするが、私には縁がない場所だと思っている。
 理由は大きく三つだ。
 まず私は貧乏性で、分不相応なお金の使い方ができない。聞けば、ああいうお店ではビールが一本1000円だったり、から揚げが3000円だったりするらしい。私が行く店の何倍もの値段だ。その段階で、私の足は遠のく。
 さらにお酒自体がそんなに好きではない。そして、私はタバコも吸わない。そんな私が足を踏み入れても、他にすることがなく、時間だけがむなしく過ぎるだろう。
 最後に、女の人と話しても、相手を退屈させるだけだと思う。なにしろ私は話題に乏しいし、気の効いた冗談もいえない。和やかで楽しい雰囲気を作れそうにないどころか、緊張してろくに口をきけない可能性すらある。だから、私は飲食費が1000円以上かかるお店には、滅多に入ることがないのだ。
 前を行く女の子は、目的地に向かって進んでいる様子ではない。あてもなく、ブラブラしている印象を受けた。あとを追いながら、これからどうするか考えていた。不意打ちで、前に立ちふさがり、腕を掴んで「財布を返しなさい」と言うか。すぐに軽はずみな行動はできないと考え直す。腕力や胆力に自信があるわけでもないのに、そんな大胆な振る舞いをして、ナイフで刺されたらたまらない。
 左側にバッティングセンターが見えてきた。視線を前方の女の子に戻すと、いつのまにか誰かと会話している。相手はラメ入りのスーツ姿の若者だった。私も立ち止まろうかと思ったが、何の会話をしているのか、通り過ぎながら確認しようと決めた。
「ほのかチャン、結構ご無沙汰じゃん」
 若者が馴れ馴れしい様子で話しかけている。私の財布を盗んだ相手の名は“ほのか”というらしい。
「飲みに来てよ。オレ、さびしいよ」
 男はほのかの茶色い髪をかきあげようとするが、彼女はすげなく拒否した。
「どうしたのよ」
「アンタの店には行かない。もうホストクラブには行かないって決めたんだ」
 ほのかが視線をそらしながら言った。私は初めて彼女の声を聞いたことになる。今の若者特有の語尾を伸ばしたり、イントネーションを上げる話し方ではなく、強い意志を込めて、言葉を選んで使っている。自分の財布を盗られたにもかかわらず、私はほのかの話し方に好感を抱いた。
「冷たいじゃん」
 ホストは少しムッとした表情だ。
「とにかく売り上げが欲しいなら、他の子を当たって」
 ほのかの態度は取り付く島がない。その凛とした表情には、清々しさを覚える。しかし、ホストはあきらめない。これぐらいで引き下がっていては、商売あがったりなのだろう。揺るがないほのかの態度を見て、今度は攻め方を変えてきた。
「違うんだよ。客としてとかじゃなくて、ほのかチャンと会いたいんだよ。せっかく会ったんだし、ちょっとお茶でもしようよ」
 露骨な懐柔策に出たホストだが、ほのかは相手にしていなかった。もう返事もせずに、ホストの脇を素通りして歩き出す。
「待てよ。ちょっと待てって……」
 慌てたホストはほのかの左腕を掴む。実力行使というわけだ。商売熱心なのも、場合によっては迷惑だ。とくに今のほのかにとっては、うっとおしい以外の存在ではないだろう。
「放して」
「ダメだよ。君は、オレのことを誤解してる。30分でいいから時間をくれよ。落ち着いて話をすればわかるんだって」
 ホストはここでひと呼吸置いて、次の言葉の効果を演出した。
「君に会いたかったんだよ。ほのかチャン」
 いわゆる殺し文句なのだろう。このひと言で、何人もの女性が陥落したのか知れない。相手の目を見つめて、身体を右斜め前に傾け、自分が一番カッコいいと自信満々な姿勢で返事を待っていた。ところが、ほのかには通じないらしい。
「ゴメンだって言ってるでしょう。しつこいわよ」
 イライラした感情がこちらまで伝わってくる口調だった。手練手管を尽くしたホストは、あくまでも頑なな彼女の態度に、ついに営業用の仮面を脱ぎ捨てた。
「なんだよ、気取りやがって。どうせお金がなくなったんだろ。こっちが下手に出てるからって調子に乗ってんじゃねーよ」
 自分のプライドを傷つけられた怒りからか、さっきまでとは打って変わって、ホストの口から次々と悪口雑言が飛び出る。その言葉をまともに受けながら、ほのかはジッと男の顔を見つめていた。
 意地を張っているのではない。強がっているのでもない。その瞳には強靭な意志を宿している。二人のやりとりを見守るうちに、私はこのほのかという女性に肩入れしていた。そして、往来で耳をふさぎたくなる中傷を始めたホストに対して、言い知れぬ憤りを覚えた。自分でも信じられない行動だが、二人に向かって歩み始めていた。
「それくらいにしたらどうです」
 声を出してから失敗した、と知覚する。なぜこんな険悪な場面にしゃしゃり出て行ったのか。自分でも理由は明確ではない。
「なんだよ、おっさんには関係ないだろ」
 ホストの凶悪な視線が私に向けられる。普段の私なら「すみません」とうつむいて立ち去っていたかもしれない。
「通りすがりのおっさんがおせっかい焼いてんじゃねーよ」
「関係なくはない」
 私がそう言うと、ほのかが訝しげに目を細める。
「ぼくとほのかさんは、これから食事するんだ」
 もはや頭と口が別々に働いている気がした。どうして口出ししたのかの後悔と、今にも殴りかかってきそうな若者を相手にしている緊張感が頭の中で渦巻いている間に、口先からは思いもよらない言葉が次々と飛び出してくる。
「いい加減なこと抜かしてんじゃねーぞ、こら」
「う、うそじゃない」
 威圧されると、私は弱い。その場にへたり込みたい。だが、かろうじて一本の理性の糸が私を立たせていた。
「本当だよ」
 ほのかの声だった。私に掴みかかろうとしていたホストは、ギラついた目を彼女に向ける。ほのかは全く動じなかった。一瞬、怯んだホストだったが、今さら引っ込めない気分なのか最後の抵抗を仕掛けてくる。
「よーし、じゃあオマエは、このオッサンの名前を知ってて当然だよな。メシ食う相手の名前を知らないなんてありえないからな」
 ホストは私に向かって何かを突きつける。自分の名刺だった。
「オッサン、この名刺の裏に、自分の名前を書けや。それで、その名前をほのかが言うんだ。もし、名前が一致しなかったら、タダじゃおかねーからな」
 抜き差しならない事態になってしまった。私は言われるままに名刺の裏に『石岡』と書く。ひったくるように名刺を取ると、ホストはほのかに向き直る。
「さあ言ってみろ。このオッサンの名前は……」
「石岡さんよ!」
 ほのかは即答した。ホストは絶句する。いや私も目を丸くしていた。
「さあ、もうわかったでしょ。とっとと消えてよ」
 畳み掛けるようにほのかに言われて、ホストは私をひとにらみしてから立ち去った。あとに、私とほのかが残される。
「あ、あの君は……」
「ありがとね石岡さん」
 ほのかが笑顔を見せた。
「ご飯を食べに行くんでしょ? 石岡さんの奢りで」
 ほのかがコートのポケットから出したのは、私の財布だ。ようやく合点がいく。私から財布を盗んだ彼女は中身をあらためたときに、カードや会員証から私の名前を知ったのだろう。

つづく つづく
…
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