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頑張れ!石岡君
石岡君、限定販売にハマる! 1 「石岡君、限定販売にハマる!」1 優木麥 石岡君、限定販売にハマる! 1

   
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 午前4時36分、横浜発。
 その時間に起きている朝なんて、ここ数年間でそうはないはずだ。睡眠第一主義の私からすれば不本意である。厳寒の朝だというのに、ホームで電車を待つ。まだ出勤する人々もまばらだ。いや、夜通し働いていた人や、飲み歩き、帰宅する人々さえ見受けられる。私はこの場にそぐわない。自由業である作家を選んだ理由のひとつに、朝早起きをしなくてもいいことが含まれていた。では、なぜ私は主義を曲げてまで早朝の横浜駅にいるのか。地方出張の午前中の用事のために午前6時東京駅発の新幹線のぞみに乗るわけでも、ハイキングに行くわけでも、ブラックバスの朝釣りに行くわけでもない。
 理由は……チョコレートのオマケを買うためである。では、どうしてこんなに早い時間でなければならないのか。限定発売だからだそうだ。まるで他人事のような説明だが、この期に及んでもまだ、私自身、今の状況に至ったことの心の整理がついていない。思い起こせば、5日前のことだった。

 私は月刊文芸誌にコラムを連載しているのだが、毎回のテーマに合ったイラストもつけてもらっている。出版社で打ち合わせを終えたとき、ちょうどそのイラストレーター稲田と出会ったため、昼食を共にすることになった。
「石岡先生の名文には毎回、ホレボレしています」
 稲田は20代半ばの新進気鋭のイラストレーターで、金髪に皮ジャンの青年である。
「ううん。ぼくこそ、いつも素敵なイラストをつけていただいてますよ」
 お互いにホメながら話を進めるうち、趣味の話題になった。
「僕は小物を集めるのが好きなんです」
「へえ、じゃあ結構なコレクションを持ってるんだ」
 青島ビールを飲みながらの会話で、いつしか打ち解けた口調になっている。
「ええ、数えたことないけど2000個以上は確実にあるでしょうね。コレクション専用の部屋を近所に借りてますから」
「そんなに持ってたら、どこに何があるかわからないんじゃない?」
「大丈夫です。キッチリとパソコンにデータ入力して管理してますから」
「凝ってるんだねえ。ぼくはコレクター気質がないから羨ましいよ」
 私のひと言は別に他意はなかった。むしろ、物に対して執着が余りなく、管理もずさんな自分と比べて本当に羨ましいと思ったのだ。
「フィギュアって、すっごく心が和みますよ先生」
 気がつくと、稲田の顔は真っ赤だった。アルコールの力も手伝ってか、段々と興奮してくる。
「ああ、そうだろね。きっと」
「いっぱいお金を持ってるけど、心が豊かに感じられない人って多いじゃないですか。でも、フィギュアは眺めてるだけで気持ちが安らぐんですよ。お姉さん、ビール2本追加」
「えっ、いや、もう飲めないよ」
 私は腰を浮かせたい気分だ。ランチタイムに中華料理屋で放言している稲田の姿は、あちこちのテーブルから注視されている。
「石岡先生は、たぶん高尚な趣味をお持ちかもしれません。でも、僕のフィギュアだって大切な宝物なんですよ」
「もちろんそうさ。かけがえのない宝だと思うよ」
「石岡先生がコレクションするとしたら高級時計や、有名画家の絵なのかもしれないけど……」
「まさか、とんでもない。とてもとても……」
 私は3000円以上する買い物をするときは1時間悩む人間である。高級時計や有名画家の絵なんて、買うかどうか迷うだけで一生が過ぎるだろう。
「僕にとってはオマケなんです」
「オマケ……」
 私には即座には稲田の言葉の意味がわからなかった。
「先生は食玩ってご存知ですか」
「なんか聞いたことはある。お菓子に付いてるオマケのことだろ」
「ピンポーン、それです。僕が集めてるのはその食玩なんです」
 テレビの特集で取り上げられていたのを何度か目にしたことがある。昔のお菓子のオマケも人気があったが、やはり子供の玩具の範ちゅうだった。しかし、いまの“食玩”は、精巧でリアル、しかもマンガのキャラクターや、動物など集めていて楽しい造形になっているという。そのため、大人も買い求めていると紹介していた。稲田もその食玩に魅せられた一人なんだろう。
「そうなんだ」
「あ、いま笑いましたね。石岡先生、笑ったでしょ」
「笑ってないよ」
 私は懸命に否定する。本当に笑ったつもりはない。他人の趣味にケチをつける精神は持ち合わせていないし、フィギュアを集めることは楽しそうに思える。しかし、稲田はその気持ちを認めず、私が笑ったと強硬に主張した。
「石岡先生のようなおエライ方にはわからないんです。ささやかな楽しみの中にこそ、最大に豊かな世界が広がっていることをね」
「いや、理解できると思うよ。ぼくもどっちかというと、そういう考えの人間だし……」
「じゃあ、証拠を見せてください」
「証拠…?」
 強烈に不吉な予感がしてきた。
「今週の日曜日、新しい食玩の先行発売があります。それにつきあってください」
「ま、まあ……」
 この流れで誘われては断りにくい。せっかく話がまとまりかけているのに、ここで行かないなどと言ったら、また食玩を馬鹿にしてるのかと怒られるだけだ。
「わかった。つきあうよ」
「では、日曜の零時に渋谷の……」
「ちょ、ちょっと待って」
 あわてて私は稲田を遮った。急に彼はとんでもないことを口走っている。
「どうして午前零時なの? そんな時間に発売するの」
「発売自体は開店と同時ですから午前10時からです」
「じゃあ、10時前に行けば……」
「そこが馬鹿にしてるというんです」
 稲田はテーブルを叩かんばかりに怒鳴った。すでにいつ店を追い出されても文句は言えない状態である。
「先行発売にプラスして、その日だけの限定発売もあるんです。10時前には売り切れてますよ」
「えっ、どういうこと。なんで10時から売り出すのに、その前に売り切れるの」
「前日の夜から長蛇の列ができます。そこに朝一番で整理券が配られるんですよ。今回限定1000個ですから、開店前にその整理券は1000番以上いくことは必至なんです」
「そ、そんなにすごいの!」
 私は目を丸くしていた。とはいえ、彼の話からすれば、深夜から開店まで10時間以上並んでいることになる。とても無理な相談だ。冬の野外にそんなに長時間されされていたら、下手をすれば命に関わる。私はあらんかぎりの力と誠意で稲田に説明した。そして、最後の覚悟をもって、深夜から並ぶのなら私は行かないとまで宣言した。ようやく、稲田は折れてくれた。
「わかりました。では、石岡先生は始発で来て下さい。僕だけ先に並んでいます」
「え、ああ……」
 考えてみれば始発で渋谷に行くなどということも、かなりキツい試練である。しかし、もはやそれさえ拒否するのは難しい雰囲気だ。どうも、うまく稲田にのせられてしまった気もしないでもない。


 そして当日の日曜日。私は早朝に横浜駅にいるというわけだ。携帯電話が鳴り響いた。ビックリした私はすぐに出る。
「おはようございます石岡先生」
「稲田君、おはよう……」
「限定発売の数量が追加されたみたいです」
「ああ、そうなんだ」
 すでに私に熱はない。とにかく義務と約束だけを果たす気分だ。
「先生も『空家の冒険』バージョンは欲しいでしょう」
「えっ、何が…?」
「今日買うシャーロック・ホームズのフィギュアの『空家の冒険』バージョンですよ。モリアーティ教授と滝壷に落ちた後の話で……」
「待って。何だって!」
 私の胸の中に一気に火がついた。
つづく つづく
…
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