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頑張れ!石岡君
石岡くん披露宴騒動記 1 石岡君の「フルコースで対談を!」2 優木麥 石岡くん披露宴騒動記 1

     
…

 ワイングラスに並々と注がれた濃い緑色の液体の中には、いくつかの小さな塊が沈殿している。
「当店のスペシャリティーである#Z霧のロンドンです。滅多にお出しすることはないのですが、石岡先生がアペリチフと意味ありげに合図されたので、こちらをご所望なのだなと私、ピンとまいりました」
「梅酒ベースかね」  
 越前が重々しく尋ねている。
「いえ、年代物のペルノー(蒸留酒に香草の香りを加えたリキュール)に、当店自慢のプラム漬けを入れました」
  得意げに説明するギャルソンだが、私の目にはどうしても摩周湖に沈んでいるマリモが連想されてならない。しかし、不本意ながらも自分で注文したのだから、飲むしかない。
「では越前先生、乾杯の音頭、お願いいたします!」
 編集者に促され、越前はグラスを手に胸を張った。
「この新しい出会いに乾杯!」
 出陣を告げる武将のような胴間声だった。私は身をすくめるようにして越前とグラスを合わせ、そのまま飲もうとしたが、グラスに口をつけた途端、あまりに薬臭い強烈な匂いにむせてしまった。
「君、大丈夫かね」
 越前が言った。
「ええ。すみません。飲みなれていないもので…」
「なんだって。あんたが特別にオーダーしたのだろう」
 越前の指摘は正論である。しかし、体は正直だ。
「すみません」
 私は部屋を出かかっていたギャルソンを呼んだ。
「ゴホッ、チェ…チェイサーをください」
 むせながら私はギャルソンに注文する。里美が授けてくれたアドバイスの二番目である。 お酒が強かったときには、チェイサーを頼む。ところが、ギャルソンは怪訝そうな顔で私に問い直した。
「えっ、何の、でございましょうか?」
 チェイサーは水以外にもあるのだろうか。早くこの苦しみから逃れて喉を潤したかったので、私は少々苛立った。
「すぐに持ってこれれば何でもいいから、ゴホッ至急お願いします」
「かしこまりました」
 慇懃に一礼して、ギャルソンが去った。ハンケチで口を覆いながら咳き込んでいると、 再びギャルソンの声がする。
「お待たせいたしました」
 ゴクゴク存分に水を飲んで落ち着けると思い、私はテーブルの上を見た。すると、溢れんばかりの水がたたえられたグラスの代わりに、視界に入ったのは料理の載った皿だった。
「えっ、ゴホゴホ、こ、ゴホゴホ、これは何ですか?」
 ギャルソンはうやうやしく説明する。
「子羊のチェリソー(腸詰め)でございます」
 私の頭は眼前の状況を認識することができない。
「子羊はお気に召しませんでしょうか。至急ということでしたので…」
「い、いえ、そんなことはありません」
 ショックで咳は止まっていた。皿の上に並べられた五本もの極太ソーセージに私はため息が出るのを必死でこらえる。私が咳き込みながら注文したので「チェイサー」が「チェリソー」と聞こえたのであろうか。そのうえギャルソンを急かしたため、彼は取るものもとりあえず、腸詰を用意したのだろう。
「いやあ石岡さんは本当に大食漢らしい。見かけはとてもそうは見えんのになあ」
 越前が感心したように言った。
「とんでもない。越前先生もご一緒に…」
 イレギュラーに頼んだこんな分量を、一人で食べられるわけがない。
「なにをくだらん遠慮をしておられる!」
 突然越前が、額に皺を寄せてどら声を出したので、私は縮みあがった。
「男が大メシを食らうのは見ていて気持ちがいい。僕のことなど気にせずに、好きなだけがっついてもらって結構。石岡さん、今日は大いに飲み、食べ、語ろうや!」
 ご機嫌でキールのグラスを空ける越前。私は絶望で目の前のチェリソーの皿と、スペシャル・アペリチフのグラスがかすんだ。これだけでほとんど腹八分目まで達しそうだ。しかもこれらは、交響曲で言えばまだ序章に過ぎない。私の胃袋は食べる前から悲鳴をあげている。だが、越前は食事を残すことを病的なまでに嫌う男だ。食べるしかあるまい。
 それから私がグラスと皿を空にするまでに何分かかったのか、あるいは何十分かかったのか記憶にない。その時私の考えていたことは、小学生時代にみんなが外に遊びに行って しまったのに、食べるのが遅い私だけが給食を食べつづけていたあの昼休みのことだ。
 ようやく注文した前菜の南瓜のスープが来た。と同時に、ギャルソンがワインを持ってきた。地獄の責め苦のようなチェリソーを平らげているときに試飲したが、味をよく覚えていない。あんなに無我夢中で物を食べたのははじめてだ。
「いいワインだな、おい」
 越前が唸った。
「ハイ、この逸品は先代が若いときから当店のワインセラーに眠っておりました。いわば当店の守護神のようなワインです」
 私はギクッとする。値段がわからなかったので、メニューの一番上に載っていた名前を適当に頼んだだけなのだ。なんだか分不相応な上物に感じる。ワイングラスに注がれたワインを見ながら、思わず尋ねてしまった。
「あの、これ、いくらぐらいするものなんでしょうか?」
 ギャルソンはちょっと首を傾げてから答えた。
「70万円ほどになるかと思います」
「ヒッ…!」
 私はあやうく口から噴きそうになった。しかしそのひと噴きが何千円である。ほんの1滴も何十円であろう。私の何か月分の食費になるのか。それが一本のワインの値段なのである。生来小心者の私は、それを考えただけで生きた心地がしない。こんなワインをとってしまった私を、編集者はどう思っているのであろうか。やはり、このまま黙っているわけにはいくまい。
「ウーン。ふくよかで、舌にさざなみが起きるようだ」
 越前が言った。
「すみません」
 私は頭を下げた。さっきちょっと口に含んだが、私にはカビ臭くて飲めたものではない。 この飲み物が70万円なんて世の中間違っている。でも、それを注文したのは私自身だ。
「どうしました。石岡さん」
「こんな物、僕にはとても飲めません」
 吐き出すように私が言ったとき、まるで越前やギャルソンの目から、火花を伴った電流が放電されたようだった。しかし、後悔の気持ちで一杯の私には、緊張をはらんだ空気など読めるはずもない。
「どういうことかな。これではあなたの口には合わないと、こう言われるのか」
 越前が、低いドスのきいた声で言った。
「はいそうです。全然ふさわしくありません」
 私は本心からそう思って言った。1本千円のワインでも、私には味の違いなどわかりはしないのだ。
「よっしゃ。その言葉、この越前武彦に対する挑戦と受け取った!」
 激昂した越前はテーブルを叩き、私は言葉を失った。
「おいギャルソン。ワインリストを持ってこい!」
 怒鳴る越前に対して 「せ、先生、落ち着いてください」
 と編集者が、必死の声で割って入った。私は恐怖でぶるぶる震えていた。
「これが冷静になどなれるか。デビュー作から30年、食道楽の看板でメシを食ってるんだ。 その僕が美味いと認めたワインを飲めたものではないだと、よくもぬかしてくれた!」
 獅子舞の獅子のような憤怒の形相で迫られ、私は震え上がって椅子ごと後ろに倒れそうになった。明らかに越前は私の言葉を曲解してしまっている。でもいくら言葉で説明したところで、興奮している今の彼の耳には入らないだろう。次の瞬間、修羅場となりそうな室内に響いたのは妻の声だった。
「いい加減になさい。みっともないわよ」
 驚くほど静かな声であった。
「だけどよ」
「しつこいわよ、あなた。子供みたいに勝った負けたと騒ぐんじゃないの」
 まだ不満そうな越前だったが、悦子の切れ長の目に射すくめられると、渋々と席に戻る。
「ごめんなさいね石岡先生。今の失礼をお詫びしますから、対談を続けていただけるかしら」
 悦子が私の前に来て頭を下げた。私は手を振って、
「とんでもない、こちらこそ誤解を招くような言い方をして申し訳ありません」
 と私は頭を下げて謝った。ギャルソンが、フォアグラのソテーのトリュフ風味を持ってきた。私のお腹はいい感じで膨れてきているが、食べつづけなければまたどんな怒りを買うかしれたものではない。
「石岡先生は、フランス料理で何がお好きなのですか?」
 空気を解きほぐそうと、編集者が話題を振ってくれた。読者のみなさんは、ここでまた私がまごついたと予想されるであろうが、実はこの質問は、私にとっては願ってもないものだったのである。里美メモの第三のキーワードがここで生きるからだ。
「フリット(油で揚げたもの)ですかね」
 そう答えながら私は、里美の言葉を思い出していた。「先生はエビフライ定食が好きでしょう。フランス料理ではフライのことを<tリットっていうのよね」
「あ、そうですか。でも今日は召し上がらないのですか」
 私はギクッとする。これ以上料理の追加などしたら、自分で食べ切る責任をもてそうにない。だが、ムスッとしている越前の手前、一応尋ねてみようと決めた。揚げ物は急に頼んでも準備ができないだろうと期待したのだ。
「フリットの用意はありますか?」
 この質問を受けたギャルソンは、幽霊でも見る目で私を凝視した。しばらくそのままでいた後、強張らせた顔を振る。
「ないです」
 よかった。私にとっては最高の答えだ。
「石岡先生はいつもどんな御本をお読みになるのですか?」
 相変わらず無言の越前に代わって、編集者が私と会話を続ける。こんなことで対談になっているのであろうか。
「月刊誌で定期的に買うのは<Aントレですね」
 私は自己啓発物が好きでよく読む。そしてこの「アントレ」という雑誌はアントレプレナー(起業家)に向けたもので、独立して成功した人やその方法などが載っていて心踊るものがあるのだ。
「ほう、日本ではオードブルの雑誌があるのかね」
 越前がクリームソースで汚れた口をナプキンで拭いながら言う。気を取り直し、対談を続けるつもりになったのか、笑顔を浮かべている。ま、それはともかく、オードブルの雑誌…?
「僕はそれ、読んだことないがわかるよ。フランス語のオードブルという意味の<Aント レから取ったんだろ? あんたはその雑誌で日夜、食の勉強をしてるというわけだ」
 ちょっと違うのだが、下手に逆らうとまた爆発しかねない。
「まあ、形而上的な面から見れば、そういえるかもしれませんです。ただ、僕は食に関してはまったく不勉強です」
 私が言うと、越前はニヤリと笑った。
「ごまかさなくてもいい。今日対談すると聞いてあんたの著書を見ていたら、僕は食べ物 に関して書いている作品を見つけたよ」
 はて、何の本だろう。

つづく つづく
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