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頑張れ!石岡君
石岡君、ファミレス店長になる 1 「石岡君、ファミレス店長になる」1 優木麥 石岡君、ファミレス店長になる 1

   
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 この暑さは不意打ちだ。私は夏を司る何者かを恨みたくなった。涼しいというより、冷えると呼ぶほうがふさわしい目覚めが幾朝も続き、すっかり今年の夏は過ぎたと思っていた。太陽より雨雲を拝む日が増えたばかりか、自己主張の強い台風が矢継ぎ早に列島に訪れ、近年まれに見る暴風の爪痕を残した。夏本番の実感が湧かないままに暦は8月から9月に変わり、このまま秋へと移行すると感じていたら、連日の暑熱ぶりである。
「石岡先生、暑さ寒さも彼岸までですよ」
 行きつけの魚屋の大将がそう言って秋刀魚を一本オマケしてくれた。今年は秋刀魚が豊漁で、値崩れしそうなほどだという。ちなみにお彼岸とは、春なら3月17〜23日であり、秋なら9月20〜26日までだとか。古人の言い習わしの通りなら、この暑さが一段落するのには、まだ10日以上かかることになる。
 私は散歩が好きだが、炎天下をあてもなく歩くのは、ときとして苦痛だ。なにしろ、吹き出る汗は止まるところを知らず、私の肉体の不快指数を上昇させる。かといって、家に閉じこもってばかりもいられない。食材や日用品の買出しが必要だし、第一、自分の周囲の場所を変えることは大きな気分転換になる。パソコンのモニターに向かって執筆する合間にTVを見たり、本を読んだり、音楽を聴いても目にする風景が変化しないと、どうも精神的にリフレッシュされないようだ。
 そんな9月のある日。私は現在、抱えている作品において調べたい問題があり、資料の本を探しに少し大きな本屋まで足を伸ばすことにした。問題とは、大したことではないのだが、髪の毛一本の強度はどれぐらいかである。ネットで検索すればいいという意見もあるだろうが、まあ外に出る口実が欲しかったのかもしれない。あとから考えれば自分の髪の毛で実際に試すのが一番早かっただろう。その髪の毛の強度が何の作品で、どう関係するのかはまだ秘密にしておきたい。
 日が強く照りつけているときは、目に優しいはずの緑の風景さえ、あまり美しいと思えなくなる。とくにアスファルトからの照り返しは、空気が揺らぐのが見えるほどだ。街路樹の葉はそよいでいない。風がないのだ。暑い上に、汗にも悩まされている。いくらハンケチで拭っても、滴り落ちる汗を止められない。よく殺人的に暑いなどの表現があるが、少なくても今日の暑さは私の命を奪うのに十分な温度であろう。
 発汗によって人は体温の上昇を防いでいるという。それでも私の体内は精神的には限界に近い熱の上がりようだ。18世紀にイギリス人が百度以上の部屋に入って、汗が上手く機能すれば相当の気温にまで耐えられることを証明したそうだが、きっと私の体内機能はそのはるか手前でブレーカーが落ちてしまう。
「どこかで涼もう」
 そう決めた。自宅に戻るには、まだ徒歩で20分間はかかるだろう。しかし、もう1分間とて、この灼熱地獄に身を置いておきたくない。周囲を見回すが、郊外地域のその辺りには、喫茶店もファーストフードも見当たらなかった。一瞬、タクシーに乗って帰宅しようかという分不相応な考えが頭をかすめる。
「アングリーワイフ」
 駐車場と一体となった大きな建物が目に入ったのはそのときだ。「アングリーワイフ」の看板がグルグルと回り、ログハウス調の建物は、間違いなくファミリーレストランである。看板に大きく描かれているのは、頭から角を出したエプロン姿の主婦らしき女性が、箒を持って怒鳴っているイラストだ。あまりファミリーが楽しむ店のイメージとしてそぐわない気がするが、ジョークなのかもしれない。またチェーン店の名としても初めて聞くが、私には砂漠をさまよってようやく見つかったオアシス以外の何物でもない。すぐに足を向けて、自動ドアをくぐった。

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「いらっしゃいませ。係の者がご案内しますので、しばらくお待ちください」
 ファミレスではおなじみの注意書きが目に飛び込んできた。実は私は、これを目にして待つ間が、少々緊張の時間である。自由業の特権によって、昼間好きに行動している私は、当然ながら食事もひとりで取ることが多い。そうすると、飲食店ではひとり客として扱われる。つまり、店員に案内されれば、カウンターに案内されるケースがほとんどだ。食事を楽しみ、その後のティータイムまで含めて、気分だけはゆったりと過ごしたい私としては、カウンター席に座らされて、隣の人を気にしながら箸を動かすのは、どうも落ち着かない。だから、できるだけランチタイムを外した時間に外食しようと心がけているのだが、腕時計を見ると、現在12時55分。ランチタイムのど真ん中ではないが、店側としてはまだまだひとり客にテーブル席を提供するほど優遇できないだろう。しかし、背に腹は代えられない。外でジリジリとオムレツの気分を味わうよりは、エアコンの利いた部屋でひと息入れる方を選ぶ。
 そんなことを考えている間、まったくの無音の状態だった。店員が「いらっしゃいませー」とメニューを片手に走ってくる店が多いのに、ここは違う。よく見てみると、店員に限らず店内には人がいなかった。まるで開店前か、閉店後の店内のように閑散としている。この時間帯にここまでお客がいないのは、ファミレスとしては問題だろう。致命的と言ってもいいかもしれない。いや、私にすぐ近い席にひとりだけ客がいた。
 20代後半に見える彼は、スポーツ新聞を眺めながら一心にカレーライスを食べていた。私は安心した。ランチタイムに無人であるなどという非日常的な光景を目にして、少々自分の正気を疑っていたからだ。暑さで頭をやられて、ファミレスの幻覚を見ているのかとさえ思った。しかし、たった一人とはいえ、客がいて食事をしているのだから、店員もいるはずだ。
 店員を呼ぼうと思った。ファミレスで「すみません」と声をかけるのは、気が引けるがこの際、体裁ばかり気にしていられない。喉の渇きは頂点に達しそうだし、このままここに立っているのもおかしな話だからだ。目の前の客は黙々とスプーンを口に運んでいる。この暑いのに、よくカレーなど食べられるものだと私は見つめていた。スポーツ新聞をめくりながら男はつぶやく。
「ちくしょう。2歳馬はまだ気質が落ち着いてないからレースが荒れるよなあ」
 男は顔を上げた。私と目が合う。
「あっ……!」
 男は私以上に驚きの表情を見せた。即座にスプーンを投げ出すと、ナプキンで口を拭う。ソファに置いてあったエプロンを身につけ、シルバートレイを手に立ち上がった。表情は先ほどの苦虫を噛み潰した顔とは別人のような笑顔だ。
「いらっしゃいませ」
 今度は私が目を丸くする番だ。なんとたった一人しかいない客と思っていた人物が、店員だったのである。ランチタイムに堂々と店員が客席でスポーツ新聞片手に食事ができるなんて、考えられない話だろう。閑古鳥が鳴いているというより、もはや営業していることが間違っているとも言える。
「外食天国アングリーワイフ。美味しすぎて奥様のお仕事がなくなると怒り出すからアングリーワイフへ、ようこそ」
「あっ…どうも」
 どんな表情で、何と答えたらいいかわからない。基本的に私はこの手の芝居がかった接客が苦手である。以前、里美とあるテーマパークに行ったとき、宇宙船を模したアトラクションに乗ろうと、近くにいたスタッフに「これはいつ乗れるんですか?」と尋ねたことがある。そのとき、彼はニコリともせずに「乗船を希望するのか?」と返し、私は思わず「は…はい…」と固まってしまった。隣で里美が笑い転げていたが、即興で劇中の人物を演じるなんて、私にはできないのである。
「お一人様ですか?」
「はい」
「おタバコをお吸いになりますか?」
「いいえ」
「では、こちらへどうぞ」
 私は窓際の禁煙席に案内される。四人がけのテーブル席だ。私はささやかな幸せを感じた。念願のテーブル席に案内されたのである。無論、客が一人もいない状態でカウンターを示されれば、さすがの私もムッとしたかもしれない。とにかく紆余曲折あったが、これで何とか涼みと、冷たい一杯にありつけそうだ。
「ご注文は?」
「アイスティーをください」
「かしこまりました。お客様、お飲み物の付け合わせで、当店自慢のエスニックカレーはいかがでしょうか?」
「えっ…?」
 オシボリで顔を拭いていた私は思わず手を止める。よくファーストフード店で、飲み物の付け合わせにフライドポテトなどを勧められることはあるが、ファミレスでお茶一杯オーダーしただけの、明らかに喫茶目的の客に料理を勧めるのは意表を突かれた。しかも、私は出かける前に素麺で早めの昼食を摂っているし、炎天下を歩き回った体はとてもカレーを受け付ける状態ではない。
「いえ、アイスティーだけで結構です」
「実は現在、当店ではエスニックカレーのフェアをしておりまして、この期間はどのカレーも全品200円引きのお値段でございます」
「飲み物を求めて来ましたので…」
「カレーをお頼みいただければプラス100円でラッシーもお付けできます」
「今は結構、満腹の状態なものですから…」
「ハーフサイズもございますよ」
 店員は異様に粘った。なぜそこまで私にカレーを勧めるのだろうか。困ったことになったと思う。私は、相手に腰を据えて懇願されると、断りきれない弱さがあるのだ。すでにカレーを食べてもいいかなという気持ちが芽生え始めている。
つづく つづく
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