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頑張れ!石岡君
石岡君、バレンタインにチョコを贈る 2 「石岡君、バレンタインにチョコを贈る」 2 優木麥 石岡君、バレンタインにチョコを贈る 2

   
…
 「セコンドって……選手の汗を拭いたり、うがい用の水を差し出したりする人だよね」
 私は動揺しながら、真吾に確認する。彼は苦笑した。
「まあ、そういうこともしますけど、もっと大事なことは、戦っている選手に的確なアドバイスを送ってくれることです」
「とても、無理だよ」
 私は両手を前に出して激しく振った。ボクシングの試合をしている真吾に対して、私が何か声をかけるとしたら「頑張れ、頑張れ」以外にはない。そんな声援を送るだけの人間がセコンドにいても仕方がないと思う。むしろ観客席で十分である。
「もちろん、技術的なアドバイスはジムの会長やトレーナーがいるのでバッチリです。そういうことよりも、オレには石岡先生が後ろで見守っていてくれるという安心感が必要なんです」
「安心感って……」
「ワシからもお願いします」
 店内の奥からスキンヘッドにジャージ姿の初老の男が現れた。ジャージには「好雲ジム」とロゴが入っている。
「初めまして。ワシは好雲ジムの会長をしている好井と申します。この真吾とはヤツが18歳で入門してきたときからのつきあいです」
「こちらこそ。ぼくは石岡和己と申します」
 好井はずいずいと近づいてきて、真吾に握られていない片方の手を両手で握る。私の両手はそれぞれ真吾と好井に掴まれてしまった。
「石岡先生、この通りです」
 好井はテカテカと光る頭を深々と下げた。
「ボクシングは孤独なスポーツです。リングに上がった選手にしてやれることは、ただ少しでも精神的に安定した状態を整えてやること。そのためには石岡先生の存在が必要なんです。2年前に真吾が『試合が怖い。ボクシングを辞めたい』と言い出したとき、ワシらは必死で説得しました。でも、どうしてもこいつは言うことを聞こうとしなかった」
 私の手を握る好井の手に力が入る。
「そんなある日、ジムに晴れ晴れとした表情でやってきたんです。なんでも石岡先生というエラい作家の方に感動的なアドバイスをいただいたんだと、吹っ切れていた。そして、先生もご存知のように真吾は試合に勝ち進んだんです」
「は、はあ…」
 さすがに今さら私は覚えていないとか、そちらの勘違いだとは口に出せる雰囲気ではない。単に執筆中に補給する糖分のためにケーキを買いに店に入ったら、信じられないなりゆきになっている。
「技術のアドバイスはワシらに任せてください。でも、試合中の真吾の心に届く言葉をひとつでもふたつでも投げてやってください」
「い、いや、その……」
 私の背中をツーと冷や汗が流れた。自分が誰かの役に立つのであれば、喜んで協力したい。ましてや、この須藤真吾というボクサーには初対面ながら好感を抱き始めている私としては、彼の力になれるなら微力を尽くしたい。しかし、2年前、誌面の相談コーナーで彼に相談を受けた記憶もないし、よって私が回答した「アドバイス」など想像もできない。とはいえ、ここまで純粋に依頼してくる師弟につれない態度を取るのは心苦しい。
「もうひとつ、石岡先生にセコンドについていただくメリットがあります」
 ようやく私の手を放してくれた好井は、先ほどの真吾の世界戦決定を報じる新聞の切抜きを示した。
「スポーツ新聞でさえ、この程度のスペースしか割いてくれません。せっかくの真吾の晴れ舞台なのに、世間で話題になっていない。花形の階級の世界タイトルなら一面トップで扱ってくれるのに…」
 好井は悔しそうにカベに貼ってある切抜きを叩いた。私は思わず疑問を口にする。
「どうして話題にならないんですか?」
「ライトヘビー級というのは、ヘビー級とクルーザー級の下のクラスなんですが、日本では中量級から下の階級に人気があって、重いクラスは選手層も薄く、注目を集めないんですよ。日本人ボクサーには、どうせ重いクラスのベルトは獲れないだろうという偏見もありますし。でも、今回の世界タイトルに辿り着くまでに、真吾は20歳のデビューから7年間かかっているんです」
 好井は真吾の肩に手をやる。
「日本には同じ階級の選手が少ないので、どうしても試合の数をこなさせるのに時間がかかってしまった。それでも、真吾はついてきてくれたんです。そんなコイツにできるだけ華やかな舞台を用意してやりたい。だから、石岡先生」
「はい…」
「先生がセコンドに付いてくだされば、それが話題になります。世間の注目も集められる。ワシのお願いは、勝手なわがままだとは承知していますが……」
「いえいえ、そんなことはありません」
 私には愛弟子の真吾のことを思う好井の親心が痛いほどわかった。麗しい師弟愛に心を打たれた。できるだけのことをしてやろう。私の腹は決まった。
「私でよければ、セコンドをやらせてもらいます」

                               ●

「ハイ、ラスト一分!」
 ストップウォッチを手にしている真吾の姿がぼやけていた。視界が狭まってひとつのものしか見られない。サウナではなく、ボイラー室に入っているような汗の出方だった。自分の体がこんなに熱を出せるとは知らなかった。一生知らなくてもよかった。
「スピードは関係ないです。正確に跳んでください」
 真吾が温かい声をかけてくれる。私は好雲ジムの中でなわとびをしていた。何十年ぶりにやるのか思い出せない。とめどなく流れ出る汗が私の体をシャワーのように洗っている気分だ。3分間、なわとびを跳びつづけることがこんなに苦しいとは初めて知った。
「ラスト30秒!」
 真吾の言葉は、私にとってまだあと30秒もあるのかという絶望的な宣言に聞こえる。ひたすらなわとびを回す。無心に足を動かす。なぜこんなことになったのだろう。いや、自分から志願したはずだ。あの日、真吾や好井会長と会い、世界タイトルマッチのセコンドに付くことを安請け合いしてしまった。でも、どうせ当日の私は大したことができそうにない。それなら真吾のためにできることは何だろうと考えてみた。その結果、帰宅した私は「週刊ハッピー毎日」の編集部に電話したのだ。編集者の曽田は、私が「ハッピー体験でボクシングを体験したい」と申し出たとき、言葉を失っていた。自分でも驚いている。しかし、これこそが私がわずかでも真吾の力になれることだと思う。注目度が低い世界タイトルマッチのことを少しでも、メディアに露出させるには週刊誌の力は大きい。私が道化役でも何でもやって、面白い誌面にしてもらえばいい。
「終了です」
 真吾はゴングを鳴らしてくれた。ようやく解放された私はその場に倒れ込もうとした。その肩を真吾が掴んで止める。
「ダメです。石岡先生」
「えっ…?」
 私は汗まみれの顔を真吾に向ける。彼は少し怖い表情をしていた。
「ボクサーは、リングの上に膝を着いてはいけません。その一点に関してはプロもアマチュアも関係ないです。リングはボクサーが立って戦う神聖な場所です。膝を着くってことは負けること。今日の石岡先生は絶対に膝を着かないでください」
「わ、わかりました」
 すでに膝がガクガクしている私には厳しい要求だったが、真吾の言葉はもっともである。
「では次は、ミット打ちをしましょうか」
「えっ、もうですか。まだなわとびが終わったばかりで…」
 そんなに早く次の練習に移られたら、心臓が爆発してしまうかもしれない。
「先生、すべての練習は試合の1ラウンドと同じ3分間で行います。だから、インターバルも試合同様に1分間なんです」
「は、はい……」
 たぶん今日は最後のメニューまでいかずに倒れてしまうだろう。リングの外から写真を撮っているカメラマンと、編集者の曽田が心配そうにこちらを見ている。ミット打ちとは、リングの中で受け手が構えた両手のミットにパンチを打ち込んでいく練習である。ミットをはめて相手をしてくれたのは、真吾だ。
「では、よろしくお願いします」
 ゴングが鳴った。私はほとんど酔っ払いの千鳥足でリングを右往左往している。今日の練習の最初に好井から教わったジャブとフック……まがいのパンチを繰り出す。ふらつきながら手を前に出しているだけという感じだが、真吾がミットで私の拳を受け止めてくれた。
「その調子です。ほら、またいい音がした。石岡先生、筋がいいですよ」
 真吾に褒められながら、ミットのパスッパスッという音を聞いていると、自分でも気分がよくなってくる。リズムにのってパンチを出しつづけていると、突然、目の前が真っ暗になって天地がわからなくなった。
「石岡先生、石岡先生」
 みんなが私を呼ぶ声が聞こえるが、どうしても返事は出来なかった。

                              ●

 私が目覚めたとき、和室に布団を敷いて寝かされていた。目を開けると、心配そうな好井が見える。
「よかった。石岡先生。気がつきましたか」
「すみません。ぼくはどうなったんですか?」
「急激な運動で、軽い貧血を起こしたそうです。こちらこそ、どうもキツいペースで進めてしまって申し訳ございません」
 手を突いて詫びる好井の姿に、私は慌てて体を起こした。
「とんでもないです。不摂生と運動不足が祟ってしまって…」
 結局、ハッピー体験はメニューの途中で終了してしまった。カメラマンと曽田は私の容体が心配ないことを知ると、あとは好井達に任せて帰ったという。多少、薄情な気もするが、週刊誌でつねに締め切りを抱えている身なので仕方ないかもしれない。
「あ、石岡先生。大丈夫なんですか」
 部屋に首にタオルを巻いた真吾が入ってきた。
つづく つづく
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