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頑張れ!石岡君
石岡君、バレンタインにチョコを贈る 1 「石岡君、バレンタインにチョコを贈る」 1 優木麥 石岡君、バレンタインにチョコを贈る 1

   
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 脳に送られるエネルギー源は糖分だけだと聞いたことがある。だから、運動選手がインターバルの時に、バナナやチョコレートを口にするのは体力回復の目的よりも、脳にエネルギー源を送ることで集中力を切らさないためだとか。私はその話を耳にして以来、執筆中に集中力が切れてきたと感じると、糖分を補給することにしている。だから、その日の午後も作品の仕上げがはかどらなかったため、糖分の買出しに出かけようとしていた。あくまで脳へのエネルギー補給のためであり、断じて執筆に詰まって現実逃避をしたかったわけではない。ちょうど玄関を出ようとすると電話が鳴った。受話器を取ると健康をテーマにした週刊誌の「ハッピー毎日」の編集者、曽田だった。
「いやあ石岡先生、ごぶさたしてしまってすみません」
 彼の挨拶の常套句なので慣れたが、実際は一昨日も電話で話している。曽田とのつきあいは、まだ二年ほどだ。最初の出会いは、現在の出版社ではない。当時の彼はマルチにスポーツを扱うという「体育会系第3惑星」という雑誌の編集者だった。そのスポーツ雑誌で一体、私が何をしていたかというと、なんと人生相談のコーナーを担当していたのだ。自分でも信じられないが、新感覚のスポーツ雑誌ということで、読者のアスリート達の悩みに対して「文科系の識者」が相談に答えるという主旨だった。作家やイラストレーターなど何人かの識者の一人で私も名を連ねていた。複数だったため、私が担当したのは毎号一人の相談者だけだったが、一途に身体を動かしている人たちの悩みに有益な回答をすることができたのか今でも疑問である。ところが、当の「体育会系第3惑星」自体が4号で休刊になってしまった。その原因としてスポーツの種目を絞らずに幅広く扱いすぎた結果、どの情報も薄くなり、固定読者がつかなかったと分析されている。いずれにせよ、関係者には申し訳ないが私は肩の荷が下りた気分であった。そして、当時の担当編集者の曽田とは、彼が現在の「ハッピー毎日」の出版社に転職した今でも付き合いが続いているわけだ。
「石岡先生、ハッピー体験シリーズに登場してもらえませんか」
 曽田からの電話の用件は毎度、同じだった。ハッピー体験シリーズとは「ハッピー毎日」の人気コーナーで毎回、著名人が何かにチャレンジして汗を流し、それを自らレポートするという企画である。各人の趣向で乗馬であり、ビリヤードであり、草サッカーの試合に出たりと、バラエティに富んでいて私も楽しみにしている。だが、そこに自分自身が登場することはまるで別の話だ。
「曽田君、ありがたいけど、その話は勘弁して欲しい。ぼくは毎回見ているよ。皆さん初めてとは思えないくらい見事に種目をこなしていて、とてもそんな自信はないし」
「いえいえ、うまくやろうなんてお考えにならずに、気楽に遊んでくだされば結構ですよ。種目も石岡先生が興味のあるジャンルで結構ですし。例えば、スカイダイビングなんていかがですか?」
「例えばって。飛行機からパラシュートつけて飛び降りるヤツでしょう? 絶対に無理だよ。地面に着く前に空中で失神しちゃうから」
「アハハ。相変わらず、石岡先生はジョークが冴えてますね」
 私は本気だったのだが、曽田には通じていない。
「わかりました。でも、性懲りもなく、またお誘いしますから、着信拒否なさらないでくださいね。石岡先生に出ていただきたいという読者の要望が強いんですから」
 そういう要望を抱かれる読者の方には、心苦しいがゴメンなさいとしか言いようがない。曽田の電話は切れた。ようやく私は初期の目的を達成するために外出できる。いつもなら、近所のコンビニでホワイトチョコレートか、アイスクリームを買うのだが、今日は少し変わったルートを散歩してみようと考えた。いま取りかかっている作品の仕上げで悩んでいるのだが、何かヒラメキを誘発するキーワードが欲しいのだ。

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 普段と違う道を歩いてみると発見があるものだと実感した。いつも入らない路地に足を踏み入れると「好雲堂」という洋菓子屋の看板が見える。小奇麗で、それでいて歴史を感じさせる木の看板である。私は迷うことなく、中に入った。ショーケースの中には色とりどりのケーキやお菓子が並んでいる。
「いらっしゃいませー」
 自動ドアを抜けると、威勢のいい声が飛んできた。私はショーケースの中を覗いて驚いた。それぞれのケーキに付けられた値札には名前と値段の他に、そのケーキの名前の由来が添えられている。例えば「エクレア」なら、「フランス語で稲妻・閃光を意味する。稲妻のようにサッと食べないと、中のクリームがこぼれてしまうから」と書いてある。あるいは「シュークリーム」には「正式なフランス語ではシュー ア ラ クレーム。クリームのようなキャベツという意味」とある。私のような物書きを生業としている人間には、このようなマメ知識は大きな役に立つため、メモ帳を取り出して目に止まった薀蓄を書きとめていった。
「あの…すみません」
 ショーケースの向こう側から店員が声をかけてきた。私は咄嗟にマズイと感じる。職業柄、反射的にメモを取ってしまったが、初めて入った店で注文もせずにそんな真似をするのは店側としては心証が悪いだろう。
「ゴメンなさい。勉強になると思ったものですから、つい…。他意はないんです」
「いえ、そうではなくて……」
「あ、注文ですよね。ちゃんとケーキを買いますから」
 私は慌てて買うケーキを選ぼうとした。ところが、店員はこちらに回ってショーケースの向こう側から出てきた。思わず私は後ずさる。その若い店員は洋菓子職人にはふさわしくない肉体の持ち主だった。鍛えぬかれ、研ぎ澄まされた筋肉に覆われているのが白とピンクのストライプの制服越しにわかる。
「すみません。気に障ったんでしたら……」
「石岡先生ですよね?」
「えっ…」
 唐突に店員から自分の名前を呼ばれた私は戸惑う。彼は笑顔で私に近づいてきた。
「真吾です。2年前、石岡先生にお世話になった真吾ですよ」
「は、はい……」
 真吾と名乗った若者は、人懐っこそうな笑みを浮かべているが、私は彼の顔も名前も心当たりがない。
「ゴメンなさい。ぼくはその……物忘れが激しい人間なので…」
「いえ、こちらこそです。オレが興奮しちゃって、先生とお会いするのは初めてですからね」
 真吾は丁寧に頭を下げた。
「須藤真吾と申します。2年前に『体育会系第3惑星』という雑誌で、石岡先生に誌面で相談を受けていただいたことがあります」
「ああ…」
 ようやく私も真吾との接点が理解できた。しかし、すぐに当時のやりとりを思い出すはずが、頭に靄がかかったようでぼやけている。毎号1人の相談しか受けずに、4号で休刊なのだから、私は延べ4人の相談者としかつきあっていない。その中に真吾らしき人物がいた気がしないのだ。
「2年前、石岡先生にあの言葉をかけて励ましていただけなかったら、オレは試合にも勝てなかったし、きっとボクシングをあきらめてました」
 真吾は私が当時のことを完全に思い出したと勘違いして、話を進めている。しかし、いま彼の口から「ボクシング」と言われて、ますます私は首を捻らなければならない。確か、件の雑誌で相談を受けた相手の競技はスケート、バスケット、テニス、短距離走だったはずだ。物覚えの悪い私だが毎回、相談者に最適の回答を考えるために三日間、頭を悩ませていたのだから間違いない。
「嬉しいなあ。こんな偶然に石岡先生とお会いできるなんて。いつかお礼を言いたいとずっと思っていたんです。あ、もしかして……先生はオレの世界タイトルマッチのことを知って……それで、わざわざ…」
 真吾の目から涙があふれ出てきた。私の手を両手でガッシリと掴むと、強く握り締めたまま、唇をぶるぶる震わせている。
「言うまでもないですよね。そうでなきゃ偶然、先生が店に現れるなんてありえないし。ありがとうございます」
「あ、いや、その……」
 私は何と答えたらいいのか言葉に詰まる。
「オレがカベにぶつかると、いつも石岡先生は導いてくれるんですね。なんか、すげえ自信が出てきました」
 真吾はまだ私の手を握り締めていた。額をその手に押し付けるように何度も頭を下げる。彼だけが急激にテンションが上がってしまい、納得しているようだが、私には彼の十分の一も事情が飲み込めていない。
「見てください、石岡先生。オレ、何とかここまで上ってきました」
 真吾が店内の壁に貼ってある新聞の切抜きを指差した。そこには「世界ライトヘビー級タイトルマッチ (チャンピオン)ジャグラー・バレンタイン対(挑戦者)スウィートハニー真吾」と見出しがある。試合は三週間後の2月14日に横浜文化体育館で行なわれるようだ。ボクシングの世界は、プロとはいえチャンピオンクラスでなければ、試合だけで生活は成り立たないらしいが、真吾も同様なのだろう。この洋菓子店で働きながら、ボクシングのリングに上がりつづけ、ついには世界戦のチャンスを掴んだ。そんな若者を相手に私は彼の自信を揺るがせるようなことを口にすべきではない。記憶の中には雑誌での相談を受けた覚えはないが、瑣末な話である。どちらの記憶違いにせよ、この場は真吾の話に合わせようと決めた。
「ぼくも嬉しいよ。あのときの君が、こんなに大きな舞台に立つなんて。試合は頑張ってね。応援してるから」
「石岡先生、当日はオレのセコンドに付いてもらえますか」
 真吾の言葉に私は仰天した。
つづく つづく
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