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頑張れ!石岡君
石岡君、喫茶店マスターになる 4 「石岡君、喫茶店マスターになる」4 優木麥 石岡君、喫茶店マスターになる 4

   
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「いつになったらアイスコーヒーが飲めるのかと思ってたら…」
 恵司があきれたように言った。私が逆の立場でもそうだろう。ガマン大会をやりたいという私の提案に対して、木島夫妻と篠山教授の示した態度はそれぞれ異なった。
「…という次第で、本日がガマン大会の開催日なので…どうか、みなさん。ふるってご参加ください」
 私は消え入りそうな声で説明する。いや、正確には参加を懇願した。私以外に何人かの参加者がいなければ、大会などとは呼べない。個室にいる宮古への体裁のためだが、せめて二人は参加者を確保したい。それにしても、ここまで特殊な事態になると、宮古に提供しているのが、変わらない日常であるかどうか確信が持てない。
「それは優勝商品はあるんですか?」
 当然の質問だった。沢井は、去年の商品は「1万円相当の食事券」だったという。ただし、使用できるのは「眩暈」限定である。
「私はやります」
 洋子が手を挙げて一番に参加意思を表明してくれた。だが、たぶん彼女は誤解している。私が彼女たち木島夫妻の離婚協議を長引かせる作戦の一環として、この催しを提案したと考えているのだろう。その意味もゼロではない。しかし、今の私にはハッキリ言って誰のためにガマン大会の臨時マスターをしているのか答えられなかった。個室の宮古のため? 心臓発作を起こした沢井のため? もっと得体の知れない大きな流れに押し流されているという表現が正しい。
「あなたもやりましょうよ」
 洋子はしきりに恵司を誘う。
「いいよ」
 少し考えた末に、彼は了承した。私はホッとする。最低でも二人の参加者がいないと話にならない。マスターの私と、客が一対一でやるなら単なる試合であって、大会ではない。
「その代わり、条件があります」
「何でしょう」
 出場してもらえるなら、私は大概の要求は飲むつもりだった。
「僕が優勝したら、マスターと篠山さんのお二人には、協議離婚の証人になっていただきます」
「えっ!」
 私と洋子が同時に声をあげる。後で聞いたのだが、協議離婚を成立させるためには、成人の証人が二人必要らしい。
「それは……どうでしょう。ねえ、篠山先生?」
 どう返事していいのかわからない私は、難しい顔をしている篠山に水を向ける。
「シブヤ茶ですな」
 重々しい一言だが、私には意味がつかめない。
「競技では"渋茶"を飲むということですが、百年以上前、シブヤでは"シブヤ茶"が隆盛を極めておりました。明治時代の話ですがね」
「それが、何か…」
「フフフ、気に入ったということです。その勝負、受けてたちましょうぞ。ただし、私が優勝したら、店名を『シブヤ文明』に変えてもらいます」
 誰も参加しないという最悪の事態は避けられたが、果たしてどちらが最悪だったのかの判断はつかなくなってきた。

                            ●  

ガマン大会がスタートする前に、一悶着があった。競技に使う鍋焼きうどんの汁の味付けをめぐってである。篠山は「味噌味」を主張し、木島夫妻が「醤油味」を譲らなかった。どちらにも正当性は感じられたが、今回はマスターである私の権限(?)で、醤油味による鍋焼きうどんを作ることに落ち着いた。
「天ぷらを入れないと江戸前の鍋焼きうどんとは言えないのよね」
 買出しに行ってくれた洋子が海老の天ぷらを手際よく揚げてくれる。
「コップ一杯の水までなら飲んでもいいルールにしましょう」
 カウンターに向かってルールブックや点数表を作成しているのは恵司。
「溶き卵を入れるタイミングは私に決めさせてほしい。うどんとの絡み具合が味の決め手になるんですからな」
 篠山がボールに卵を割りいれていた。私は白菜や牛蒡を切っては、鍋に入れる。いつのまにか、楽しいホームパーティのような雰囲気になっていた。しかし、クーラーを切って数分もしないうちにムードは一変する。蒸し暑い店内の空気は人間関係にも微妙な影響を及ぼしていた。
「ギブアップの意思表示をするか、外に出るかしたら負け。最後に残った一人が優勝者です」
 そう話す私の額と頬には汗が滴る。脱水症状を防ぐため、水分補給は任意で行なえることにした。だが、大量の汗をかけば消耗も早いので自分の中でコントロールが必要だ。
「それでは、始めます」
 四人がテーブル席に座ると私は開幕を宣言する。自分でスタートさせながら、激しい後悔に襲われていた。どうして、私はこんな背水の陣に追い込まれているのだろう。元はといえば、ただ一杯のアイスティーが飲みたかっただけである。しかし、もう勝負を降りられない。私以外の三人の参加者も必死だった。彼らにはそれぞれ負けられない理由がある。まず篠山は念願の「シブヤ文明」に店名を変えられる。木島恵司は離婚の成立。妻の洋子は自身の優勝への特別な報酬は決めてないが、離婚を阻止するため少なくても恵司の優勝だけは阻まなければならない。かくいう私自身も負けられぬ状況だ。篠山に勝たせれば沢井の店の店名を改名させられてしまう。恵司にも譲れない。純戦略的には、洋子の優勝のみ容認できるが、体力的な面で彼女に無理はさせられまい。結局、実際問題として私も途中リタイアはできないのだ。
「美味しいね」
 殺伐とした雰囲気が一瞬だけ和んだ。鍋焼きうどんが予想を越えて美味しかったのだ。この高温多湿空間で食べるのでなければ、お代わりしたいくらいだ。
「おまえの天ぷら、久しぶりだよな。相変わらずいい味だよ」
「ありがと…」
 恵司に褒められて、洋子の目が少し潤んでいる。この夫婦愛に満ちた光景もガマン大会という構図がなければもっと感動的だろう。そのとき、店の入り口がガヤガヤして、ドアが開けられる。
「そんな大きなヤスデだか、ムカデだかがいるなんて、暑さによる目の錯覚でしょ。皆さん、まだ精進が足りませんね。お稽古の世界もまた同じ。心頭滅却すれば火もまた……あっついですねー。なんですのー、このお店は!」
 一歩踏み入れた稽古事の先生は、すぐに退散してしまった。
 三十分が経過した。一番先に音を上げたのは、言うまでもなく私だ。
「そろそろ、みんな引き分けで…勝負なし…にしませんか?」
「あなたが提案したんじゃないですか」
 恵司たちは勝負をやめようとしない。
「その通り。シブヤ文明の店は私の悲願なのだ」
 篠山はリモコンでテレビのスイッチを入れる。ちょうど菓子店のCMをやっていた。
「渋谷文明館でおやつは決まり〜!」
 それを見た篠山の表情が変わる。
「おー、しっ、しっ、シブヤ文明だー!」
 アッという間に店から飛び出していった。よくわからないが、最初の脱落者が出た。さらに十分が経過する。なかなか決着がつかない。
「私、お化粧を直してくるわ」
 汗にまみれた顔の洋子が立ち上がる。その彼女の手のハンドバッグを見て、恵司が呼び止めた。
「おまえ、そのバッグの中…。コースケは?」
 恵司の指摘に洋子が青くなる。コースケとは、彼女が買っているタンザニアオオヤスデのことだ。
「バッカヤロー。この暑さの中で…」

 恵司は洋子の手からハンドバッグをひったくると、そのまま外に飛び出した。
「あ、外に…あの…」
 私の頭は朦朧としている。洋子は号泣していた。
「あの人が……コーちゃんのために…」
 恵司の後を追って店を出て行く。これで優勝は私……なのだろうか? 突然、奥の個室のドアが開いて、宮古が出てきた。その瞬間、私は今回のガマン大会の目的を思い出す。彼女に参加してもらうために開催したのだった。
「すみません。暑いんですけど、あらっ何をしてらっしゃるの」
「ハイ、その"いつものこと"を……」
 勝負は終わっている。いや、もう終わらせて欲しい。私は疲れ果てて笑うしかなかった。自分が参加できずに怒り出すかと思った宮古だったが、私にニッコリと微笑んだ。
「それですよ」
「えっ…?」
「その"いつもの笑顔"を今まで見せてくれませんでしたね。私は、マスターの沢井さんの元気な笑顔を見たくて毎日ここに来ているんですよ。今のあなたの笑顔も彼と同じく素敵でしたね。ありがとうございます」
 宮古が深々と頭を下げてくれた。安心した私は気が遠くなってしまう。

                        ●
 
私が目を開けると、ソファ席に寝かされていた。額には冷たいタオルが載っている。傍らに木島夫妻がいた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、何ともありません」
 私は身体を起こす。
「本当にお世話になりました。私達、やり直してみます。"三人"で」
 恵司の手の上では"コースケ"が丸くなっていた。
「ハイ。よかったですね」
 本来のマスターである沢井がカウンターの向こうから私に声をかけた。
「喉が渇いたでしょう。何を飲みます?」
 私はようやくこの言葉を口にすることができる。
「アイスティーをください!」

つづく おしまい
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