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頑張れ!石岡君
石岡君、喫茶店マスターになる 1 「石岡君、喫茶店マスターになる」1 優木麥 石岡君、喫茶店マスターになる 1

   
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 私は紅茶党である。森羅万象について二大政党制を敷かれたとしたら、間違いなくコーヒー党には出馬も投票もしない。イヌ党とネコ党ならイヌ党。旅館党とホテル党なら旅館党。”モーニング娘。”党と浜崎あゆみ党なら……ウーン、公言を控えたい。とにかく、私は紅茶を飲むことも、紅茶にあうケーキを食べることも好きだ。コーヒーを飲めないわけではないが、珈琲専門店は苦手である。多くの専門店のメニューに紅茶も載っているけれど、あえてその手の店に入って「紅茶」と注文することは避けたい。まるで有名ラーメン店でギョーザだけを食べるようで気がひけるからだ。
 しかし、その夏のある日、私は珈琲専門を売りにしている喫茶店に入った。馬車道のいつもの散歩コースからはかなり離れた初めての店である。私が気に入ったのは店名だ。
 喫茶店「眩暈」…。
 自分の著書と同名だからとは単純な動機に感じるだろう。もちろん理由は、もうひとつある。炎天下を歩いてきた私は猛烈に喉が渇いていたため、選択の余地がなかったのだ。
「いらっしゃい」
 ドアを開けるとカウンターの中でカップを拭いていた男が声をかけてくれた。彼がマスターなのだろう。彼の背後は幾十にも区切られた棚になっていて、高価そうなコーヒーカップがソーサーと共に並んでいる。まるで美術品の陳列のようだ。私はカウンター席についた。今は平日の午前十時半。客は誰もいない。
「今日も暑いですね。クーラーもっと下げましょうか」
「いえ、大丈夫です」
 私は内心では喜んでいる。先方が暑さを先に話題に出してくれたから、スムーズにアイスティーを注文できそうだ。私にとっては珈琲専門店でアイスティーを頼むことは、紅茶よりも高いハードルである。アイスコーヒーのほうが無難だろうが、喉がカラカラのときは好きなものを飲みたい。
「ご注文は?」
「アイス…」
「ハイ、アイスコーヒーですね」
 マスターは背を向けて作業を始めた。私は訂正しようか非常に迷う。だが、アイスと口にした時点で「アイスコーヒー」と受け取るということは、この店にはそれ以外に「アイス○○」となる飲み物が存在しない可能性が高い。
「ウチの店のアイスコーヒーは特製ですよ。氷にも気を使って余分な水分はバッチリ切って使いますしね。お好みでシュガーシロップも…」
 この得意げなマスターの話を振り出しに戻すようなことを誰が言えるだろう。しかも、また別の不安が私の頭をよぎる。これだけ精魂込めて作った一杯のアイスコーヒーを、まるで水分補給という機能を満たすだけのような飲み方は許されないかもしれない。こだわりのラーメン店では、一口目はスープからとか厳しい戒律にも似たルールがあると聞く。グラスを褒め、コーヒーを褒め、氷を褒め、水を褒めというように味わいながら飲むべきなのだろうか。
「こちらはお仕事でいらしたんですか?」
 自棄になってゴクゴクとお冷を飲み干す私に、マスターが笑顔で尋ねる。
「散歩です。家が馬車道のほうなので…」
「へぇ、結構なお住いですね。私の自宅はここの二階です。この店を借りて商売始めて、もう二十年になりますよ」
「それなら、かなりお若いときにお店を持ったんですね」
「二十代半ばでした。今から二十三、四年前に清水健太郎の『失恋レストラン』という歌が流行ったのをご存知ですか?」
 私は少なからず嬉しい。以前、里美に「失恋レストラン」の話をしたら「清水健太郎ってVシネマでヤクザとか雀士の役をやっている人でしょう」といわれ、世代の差を感じてしまった。甘い声で恋心をせつせつと歌った彼には、アイドル好きの当時の私でも胸にグッとくるものがあったのだ。
「私が喫茶店をやろうと決めた理由はあの曲なんです」  マスターの言葉に私の追憶が遮られる。
「あの歌で"ねえ、マスター"と呼びかけて、作ってやってよと言うじゃないですか。"痛みを癒す"何とかティーってね。あのフレーズにシビれましてね。恋に破れたお客を癒す紅茶を差し出すマスターなんて…」
「あの……」
 私は非常に言いにくいことを口にしなければならなかった。
「それは、一番と二番の歌詞がごっちゃになってます」
「えっ…?」
「マスターに作ってと頼むのは一番で、オーダーは"涙忘れるカクテル"です」
「では、ティーは…。ティー……?」
「実はそれも違いまして、二番の歌詞は"痛みを癒す"……その…ラプソディーです」
 ガチャーン。マスターの手からシルバートレイが落ちた。彼は目を見開いたまま胸を押さえる。私の心には強烈に後悔の思いが湧きあがった。
「すみません。そんなつもりで言ったのではなくて…」
 だが、マスターの耳には私の言葉など届いていないようだ。大きく開けられた目は瞬きもせず、みるみる呼吸も荒くなっていく。かきむしるように胸に手をやった彼は、とうとう両膝を床に着く。
「どうしたんですか?」
 スツールから降りた私はマスターの両肩に手をかける。彼の顔色は蒼白になっていた。どうしていいのかわからない。自分が喫茶店を開く動機づけになった思い出を壊されて、精神に破綻をきたしたのだろうか。そうだとすれば、軽率に間違いを指摘した私は自分を責めても責めきれない。
「ス…ス…スプレー…」
「はい? 何ですか?」
 マスターは苦悶の表情でカウンターの上を指差す。
「そのス…スプレーを…」
 言われた通りに私は置いてあった小型のスプレーを彼に手渡した。受け取ったマスターは、口を大きく開くと震える手で自分の舌の奥にスプレーを噴霧する。私はなりゆきを見守るしかない。しばらくすると、マスターの様子が目に見えて回復してきた。
「すみません。お見苦しいところを…」
「いいえ、そちらこそ大丈夫ですか。救急車を呼んだ方が…」
「心配しないでください。私は心臓を悪くしてまして、ときどき今みたいな発作が起きるんです。ニトロを舌下に噴霧しましたから、よくなってきます」
 マスターはゆっくりと立ち上がった。
「恐れ入りますが、二階に連れて行ってもらえないでしょうか」
「もちろん、お安い御用です」
 私はマスターに肩を貸すと、店を一旦出て同じビルの二階にある彼の自宅へ連れて行く。リビングのソファにマスターは横になった。
「しばらくは安静にしていないとマズいんです」
「やっぱり119番に連絡した方が……」
 心臓発作を起こした人間を初めて目の当たりにして私は不安である。
「本当に大丈夫です。それより、お客様の……それも初対面の方にぶしつけなんですが…ひとつお願いがあるんです」
「何でしょう。ぼくにできることでしたら、喜んで……」
 元々、持病だったとはいえ、私がショッキングな事実を知らせなければ発作のきっかけにはならなかったかもしれない。その罪の意識からもマスターの願いに従うつもりだった。
「私が休んでいる間、店番をしていただけませんか?」
「えっ? それは……」
「無理なお願いであることは承知しています。でも、話を聞いてください」
 マスターの目は真剣だった。
「私の名は沢井と申します。下の喫茶店を開業して早二十年。定休日の日曜以外は、毎日休まず店を開けております。結婚もせず、ひたすら美味しい珈琲を煎れることに打ち込んでまいりました。日々、さまざまなお客様が来店なさいます。静かに読書なさりたい方、友達と雑談をしたい方、遠方から珈琲を飲みに来てくださる方もおられます。私は、いつも変わらない日常を提供しなければならないんです」
 沢井は私の腕を掴んだ。
「この二十年間、平日の五日間に毎日いらっしゃるお客様がいます。宮古様とおっしゃる初老の女性です。いつも十一時半にお見えになって、個室を利用されます。二十年間ただの一度もその予定が狂ったことはありません」
 迫ってくる沢井の顔に思わず私はのけぞる。
「おわかりでしょう。私の体調などで、宮古さんの日常を途切れさせるわけにはいかないのです」
「は…はい…」
「どうか、宮古様にコーヒーを一杯お出ししてはもらえませんか?」
「え…ええ。それぐらいでしたら…」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 沢井は自分のエプロンを外すと私に差し出した。
「一時間も横になっていれば、私も動けるようになります。それまでお願いします。ウチはランチをやってませんから、午後になるまでほとんどお客は来ません」
「そうですか。それでは、頑張ってみます」
 やむを得ない流れで、私は喫茶店の臨時マスターをすることになった。  

                              ●  

客として入ったときとは別の緊張した面持ちで私が「眩暈」のドアを開けると、男女の言い争う声が聞こえる。
「もう限界なんだよ」
「そんな言い草は一方的だわ」
 先ほどまで私が座っていたカウンター席の隣に若い男女が腰掛けていた。
「あ、こんにちは」
 男性が先に私に気付いて笑顔で挨拶する。女性もそれに続いた。
「こんにちは…」
 私の挨拶はぎこちなくなる。
「すみません。店の中で大きな声を出したりして」
「いえいえ…」
「アイスコーヒー二つください」
「ハイ?」
 自分の席に戻ろうとしていた私はハッと気が付く。
「あれっ、お店の方ですよね?」
「そ、そうですよ」
「このバッグ、どなたかの忘れ物みたいですよ」
 渡されたのは、私自身のバッグだ。
「どうも、すみません」
 私はカウンターの中に入る。今はマスターなのだ。
「あの、トイレはどこですか?」
 男性に尋ねられて、私はあたふたとする。トイレの場所はどこだろう。なにしろ自分もさっき初めて来たばかりなのだ。
「どうぞ、どうぞ」
 私は店の奥のトビラを開けた。中は六畳ほどのスペースでソファタイプの椅子とテーブルがセットされている。ここが、例の個室なのだろう。
「ここは……個室なんです」
「ありがとうございます。ちょうど僕達は大事な話の最中なので、この部屋を使わせて…」
「いや、すみません。もう予約が入ってまして」
 私は焦る。ここを貸してしまったら"宮古"のために私が臨時マスターをしている意味がなくなってしまう。どうやらトイレは店の外に一度出ないと行けないらしい。ようやく判明したが、男性客は訝しそうに私を見て出て行った。無理もない。
「マスター、実はお願いがあるんですけど…」
 カウンターの中に戻った私に、女性客が小さな声で語りかけてきた。
つづく つづく
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