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頑張れ!石岡君
石岡君、自転車の宅配ライダーになる 3 「石岡君、自転車の宅配ライダーになる」3 優木麥 石岡君、自転車の宅配ライダーになる 3

   
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 待合室に赤鬼が現れた。私の印象は、あながち的外れではない。マッチョさんは黒と黄色のストライプのTシャツに、真っ赤な鉢巻、そして黒いスパッツ姿で、パッと見には鬼に見える。
「先生、いるだろ」
 マッチョさんは上がりこんで、受付に設置されていた呼び鈴をチンチン鳴らした。ソファにただ一人座っていた私の存在は完全に無視である。いや、視界に入っていなかったというのが正しいか。それにしても、私は改めてマッチョさんを見るにつけ、数年前とまったく変わっていない印象に感動さえ覚えている。盛り上がった筋肉は逞しく張り詰めている。彼と比べて私はまるで進歩していない。いや、体力的には退化しているという表現が正しいほどだ。
「おい、先生。出てきてくれ」
 マッチョさんは呼び鈴を鳴らしながら吼えていた。その迫力ある様子に私は少し怖気づいている。なぜなら、数年前に私はフィットネスジムでの彼の個人指導をまったく不意に辞めてしまった。ジム自体を退会して、二度と彼の前に姿を現さなかったのだ。まあ、逃げ出したと思われても仕方がない。
「今は私のことを鬼だと思うかもしれないけど、人生には鬼も必要なんです」
 マッチョさんは私が控えめに個人指導の成果はあまり期待できないという意味のことを伝えたとき、そう答えた。執念で私の肉体改造に取り組んでくれていると感じて、嬉しさより物怖じのほうが強くなってしまった。今の私を見て、マッチョさんは何と言うだろう。逃げ出したことをなじるだろうか。それとも、「さあ、四年間怠けた分のエクササイズだ」などと言い出しかねない。
 私は自分の姿が石像に見えることを意識した。呼吸を最小限に抑え、ソファに座ったまま身動き一つしない。マッチョさんに気付かれたら事だと感じていた。
「どうしたんですか、兄さん」
 押尾がドアを開けて待合室に出てきた。私はその呼びかけにハッとする。兄さんと呼んだということは、マッチョさんは押尾の兄なのか。
「おお、先生。頼みがあるんだ」
 マッチョさんは大げさなアクションで、押尾の前に立つ。
「先生は止してくださいと言ってるでしょう。それに、頼みは聞けません」
「そうつれない態度をしなくてもいいだろ。兄の頼みが聞けないのか」
「兄さんこそ、どうして僕の言うことを聞いてくれないんですか。今は働ける体調じゃないでしょう。おとなしく寝ていてくださいよ」
 押尾の言葉に私はマッチョさんの身体はどこか具合が悪いことを知る。しかし、見た目にはとてもそうは見えない。
「仕事なんだよ。寝てられるか」
「無理です。まだ熱が下がってないでしょう。そのうえ、そんな薄着で外に出てきて、自転車であちこち走り回ったら、肺炎を起こしますよ」
「だからさ、おまえのマッサージで免疫力を高めてくれよ。15分ぐらいで外を走り回れるようにしてくれ。気合はあるんだけど、目まいがしてしょうがないんだ」
 マッチョさんは眠気を覚ますように自分の両頬を平手でパチパチと叩いた。 「何と言われてもできないものはできません。大体、足ツボマッサージは病気の治療に使うものではありませんから」
「薄情なんだな。それなら、このまま行くだけさ」
 気丈に歩き出そうとするマッチョさんだが、足元がふらついてよろけそうになる。私はマッチョさんの体を支えた。……が、彼の鋼の肉体を支えきれるはずもなく、結局は私も一緒にソファに倒れこんだ。
「ほら、見なさい。身体は正直ですよ」
 押尾がたしなめる。
「馬鹿野郎。肉体をコントロールしてるのは精神力なんだよ。立てると思えば立てる。走れると思えば走れるんだ」
 なおも立ち上がって進もうとするマッチョさんの前に押尾が立ちふさがった。
「ダメです。兄さん、本当に事故に遭いますよ。そんな状態で自転車で宅配なんかできるわけないでしょう」
「私がやらなきゃ、お客に申し訳が立たない」
 二人の兄弟の口論は続いたが、私はたまらず口を挟んだ。
「あの…すみません」
 私の声に、二人は同時にこちらを向く。
「あれ、石岡先生。まだいらしたんですか」
 最初に反応したのは押尾だった。
「ハイ。それで、いまお話を伺ってたんですが……。自転車で宅配するってどういうことですか?」
 そのとき、なぜ私がマッチョさんの事情を尋ねる気になったのか自分でもよくわからない。だが、どうやら困っているらしいことは伝わってきていた。
「実は、兄は『マッスル便』という自転車便の商売をしているんです。自転車便というのは、お客様から預かった荷物を指定の場所に自転車で届ける仕事です。もちろん同様の仕事にバイク便というオートバイを使ったものもありますが、都市の場合、場所や二点間の距離によっては自転車のほうが早い案件は少なくありません。また自転車便のほうが安価で利用できるメリットもあります」
 私は初めてマッチョさんの職業を知った。数年前はどんな仕事をしているのか一切わからなかったのだ。
「そうですか。それで、お兄さんが体調を崩されたので、今日の分の宅配荷物を届けることができないわけですね」
「できるさ!」
 マッチョさんは強がっていたが、いつのまにかソファに座り込んでいる。さっきまでで立っているのがやっとなのだろう。
「他のライダーの方にお願いしたらどうですか?」
 私の提案を押尾は手を振って否定する。
「それが、お恥ずかしい話ですが、兄の会社はいま従業員がゼロなんです」
「えっ、お一人で回ってるんですか。社長が自らライダーとして?」
「どうやら、兄の指導が厳しすぎるようで、入社してもすぐに辞めてしまって……」
「ふん、根性なしばかりなんだよ」
 マッチョさんは吐き出すように言った。私にはわかる。たしかに彼の指導は、邪念はないにせよ自分本位のところがある。本来、指導とは相手のレベルに合わせて行なうものにも関わらず、マッチョさんは自分のレベルで相手を見てしまうきらいがあるようだ。
「こういう商売は、信頼が第一なんだ。お客の依頼を一件だって断ってはいけない」
 マッチョさんの言葉は弱々しく聞こえた。急に私の胸の奥で沸きあがる衝動があった。彼は孤独なのだ。そして、その意地を貫き通そうとしている。今の私には出来ることがあるのではないだろうか。バイク便であればお手上げだったが、幸い自転車であれば私にも操ることが可能だ。
「あの……よろしければぼくが代わりに届けましょうか?」

                                  ●

 自転車便というと、私の中にはマンハッタンを駆け抜けるスマートな若者達というイメージが強い。しかし、都内を中心に日本でももう十年も前から自転車便が生まれているらしい。彼らはヘルメットにバイザー、カラフルなユニフォームにリュックを背負って、颯爽と町並みを疾走している。
 そのライダーを私自身がやることになるなど、昨日まで思いもしなかった。いや、ほんの十分前までは予想だにしなかった。
「石岡先生、懐かしいじゃないですか」
 マッチョさんは私のことを覚えていてくれた。
「こちらこそ、その節はどうも……」
「いやいや、もう過ぎたこと。それより、よく言ってくれました。ありがとう」
 私は照れる。正直言って、マッチョさんへの贖罪の意味で協力を申し出た面が多分にあるのだ。
「頼みましたぜ」
 そう言ってマッチョさんは私の肩を叩いた。以前、体力向上の個人指導をしてくれたときの恩を私なりに返さなければならない。
「やれる。石岡さんなら出来る。いや、石岡さんだから出来るんだ。トライ、ワンモアトライ!」
 懐かしい叱咤の言葉だった。

つづく つづく
…
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