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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第79回
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9−22(土)宮谷一彦の思い出、2。
ある時文春が、コミック・ビンゴという漫画雑誌のために、何か漫画原作を書いて欲しいと言ってきた。コミック部門の局長はあの菊池夏樹氏だったから、むげに断る気にもなれず、逃げるため、宮谷一彦氏を捜し出してくれたらやってもいいですよと応えた。筆を折った放浪児が、そう簡単に見つかるわけもなかったし、たとえ見つかっても、彼が原作つきでミステリーの漫画を描くとも思えなかった。編集者は、宮谷氏の名前など当然のように知らなかった。
ところが、まもなく宮谷氏が見つかったという。しかも、ぼくと一緒にやってもいいと彼は言っているという。耳を疑った。半信半疑の思いで、赤坂の和食の店で、ビンゴのスタッフと会った。「宮谷世界」と接するのはほとんど30年ぶりか。どんな暴力的な男が来るものかと、ぼくは身構えながら、TBSの脇を歩いて約束の店に向かった。
はじめて会う彼は、髪は白髪になっていたが、背は相変わらず高く、千葉真一にちょっと雰囲気が似ていた。そして自分を評価してくれて嬉しいとやや高い声で柔和に言い、握手の手を出してきた。
彼は終始柔和で、女性のように優しい声でしゃべった。何故長編をやらなかったのですかとぼくは問うた。長編がないから代表作がない。だからみんなに名前を憶えられていない。すると彼は、自分のようなペーペーにはとてもやらせてはくれませんよと言ったから、ぼくはほとんどぎょっとした。それは、あの暴力的なまでの自信家には、あまりにふさわしくない言葉だった。彼のせいで日本の漫画世界が変わったことを、自身では知らないのだろうか、ぼくは思った。実際宮谷登場以前と以後とでは、日本の漫画はがらりと違う。そう言っても誰も信じないかもしれないが、これは事実だ。そのくらいに、彼はすごいやつだった。
昔三鷹にいた頃は、ミニ・クーパーに乗っていたんでしたっけと問うと、いやホンダの軽四で、今でもそうだと言う。そんな高い車なんて買えませんよ、と言って笑った。物腰は異様なまでに謙虚で、あなたが評価してくれたことは、最近で最も嬉しいできごとだったと語った。これが宮谷一彦なのかと思い、この優しさが嬉しくもあったが、どこかで少し気が抜けた。というのも、彼のこのもの柔らかさには、自信ゆえの成熟というよりも、挫折ゆえの反省といったような、一種気弱な気配がにじんで感じられたからだ。
それから彼とのちょっとしたつき合いが始まり、当時はまだファックスの時代だったから、しきりに手紙のやり取りをした。あなたという友達が現れ、救ってくれるのを十年待った、と書いてきたこともある。ぼくは他愛もなく心を動かされ、よし、と燃えたりもした。バイクの空冷エンジンを描いたといって、見事なペン画を新年に送ってくれたりもした。通には今や伝説となった彼の圧倒的な画力は、衰えてはいなかった。そのことが最も心配だったから、これは大いに嬉しかった。
宮谷氏とやる漫画の原作を考えていたら、いきなりコミック・ビンゴがつぶれた。赤字が続いていて、社の基礎体力が衰えているから、もう持ちこたえられないというのが理由だった。それならといって、宮谷氏が最後の号に身辺雑記ふうの漫画を描いてくれ、もしもこれが本になれば、「御手洗潔に捧ぐ」と献辞を書くと、本文中に書いてくれた。彼の漫画が好きだった者として、これはとても嬉しかった。
それでぼくは、急いで講談社のコミック・アフタヌーンの編集者に段取りをつけ、これは東京駅ステーション・ホテルで会った。宮谷氏も一緒だった。ここでやることに決め、時代漫画がやりたいと宮谷氏が言うから、時代ものの原作を考えた。うちあければ、これが「金獅子」だ。そうしたら、まるでこちらの出鼻をくじくようにして、またしてもこの雑誌がつぶれた。漫画雑誌とはこんなものなのかもしれないが、ぼくはちょっと異様を感じて、これはやるなという天の声かとも考えた。
聞けば、宮谷氏はあの美人の彼女と別れていた。子供が成人するまでは一緒に頑張ろうと話し合い、その時期が来たので近年協議離婚したという。そして今はもう一人の、例の新宿勤めで、以前から彼のことが好きだった女性と、千葉で一緒に暮らしている。画廊に勤める彼女を、朝夕軽四で送り迎えしていると言った。そうしたら、その彼女が最近脳の腫瘍で倒れた。自分は今、過去の罪滅ぼしのつもりで看病の日々だと宮谷氏は言う。しかしそれでは、連載が始まっても描く時間がないのではと思われたし、一緒に仕事をするには、何かがまだ熟していない感じがあった。
今まで苦労をかけたので、全財産をすってもいいから、彼女にアメリカの最新治療を受けさせたいのだと彼はぼくに言った。しかしそれは、現実問題としては到底無理な相談なのだった。アメリカの治療費は異様に高い。保険が前提になっているから、保険に入っていなくては払いきれる額ではない。しかしアメリカで通用する日本国籍の者が入れる保険はというと、海外旅行者傷害保険だけであり、これの上限は、せいぜい500万円だった。それも、アメリカ旅行中に発病したことにしなくてはならない。宮谷氏のケースではちょっと無理だ。
それに病院では、使用する英語が違う。多少英会話ができても、病気についてとなると、医師との疎通はむずかしい。医学専門の通訳を雇う必要があるから、これも出費だ。どう考えてもこのケースでは、何千万円という借金を背負うことが目に見えている。辞めた方がいい。日本人の医師も、最近は頻繁にアメリカに勉強に行っているから、もう技術的に大差はない。そんなことを話した。
講談社文三の人たちを紹介し、みなで食事をした時、実は今小説が書きたいのだと宮谷氏は言いだした。雑誌掲載をすると、原稿料は原稿用紙一枚についていくらくらいなのかとわれわれに訊いた。漫画家の友人たちが、おまえさんの文章力なら絶対にいけると保証するのだという。これはその通りだとぼくも思う。絵の横にちょっと添えられた彼の文章に、昔大いに感動した。ただ、いかに文章力があっても、漫画と小説とではかなり方法や段取りが違う。長い文章が小説家の文体に届くまでには、たいてい何年もかかる。
彼の今の生活には、あまり希望というものが見えていなかった。会ってみると、かつての大スターは、考えようによってはひどい生活をしていた。どん底ともいえた。
それから間もなく、彼と連絡がとれなくなった。どうなったか気になるので、彼の妹分という人、入院した女性の下で、いっとき画廊で働いていたという女性に連絡をとろうかと思っていたのだが、こちらも仕事に追われ、いつかそのままになってしまった。ネットの時代に入り、こちらも前より忙しくなっていた−−、と、そんなような話を、大湊公園の池のほとりでゆん犬氏にした。
それから、そこから彼方に見えていた福岡タワーに3人であがり、その足もとの砂浜に作られて、観光用にまだ残されている、NHK「北条時宗」の撮影用のセットを見物した。
ゆん犬さんは、御手洗潔に捧ぐつもりだという一文が入った宮谷氏の最新最終作が、是非見たいと言った。これは誰でも見たいでしょうとも言った。これが載ったコミック・ビンゴ最終号を捜してみるとぼくは言ったのだが、アメリカに戻ってやってみると、これが行方不明なのだった。
1990年代、ぼくは麿赤児と話し、唐十郎と浅草で一杯やった。それでなんとなく自分の60年代の総括ができたような気分でいた。宮谷一彦との関わりは、その仕上げのようなものだった。ぼくに挫折と苦痛ばかりを教えた60年代から70年代、しかしその時代を作った男たちは、膝をまじえて話せば柔らかだった。それは、60年代という強面の時代が裏に隠していた秘密だった。ぼくはいつか、それを覗く資格を得ていた。
ゆん犬氏に会って、知らず宮谷一彦を思い出した。かつての彼は、問題の多い、若気の至りの典型のような人物だったが、しかしそれは、あの時代が要求したものでもある。彼の底にある感情は柔らかく、人の心を揺さぶる本物だった。「からすかきのみ綿帽子」、「雪原を遥かに離れて」、「トウキョよいとこ」、たぶん誰も知らないだろう。宮谷作品といえば、みんな全然別のものをあげる。これら珠玉の短編中の、ガラス細工のような傷つきやすい感性、これをぼくがどんなに愛したことか。今尾羽うち枯らしたような彼に向かい、ぼくはあの力石徹のように、こう声をかけたい気分だ。
宮谷一彦どうした、あの若い日の、傍若無人な格好よさはどこに行った? ぼくと一戦もまじえずに、このまま消え去る気か。もう一度立ちあがれ!
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