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島田荘司のデジカメ日記
第78回
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9−22(土)宮谷一彦の思い出、1。
この日は、前日から連絡取り合っていた、SSK内の「えすえすきんぐだむ」管理人、通称「ゆん犬」さんと会う。彼は今北九州市にいるが、福岡のホテル・ニューオータニまで来てくれるというので、A井さんと二人、ガラス越しに見える池を眺めてロビーで待っていた。
この池は独特で、川のように細長いのだが、背後に、スクリーンのように和風の塀が立っていて、この塀の端から端までを使い、ナイアガラのように水が流れ落ちている。もうずいぶん昔になるが、青森から九州の八代まで、日本を縦断する形で高速道路がつながった時、端から端まで走って「文藝春秋」本誌にルポを書いたことがある。その時もここに泊まって、やはりロビーのソファにすわって、この池と流水を眺めた。
ゆん犬さんがやってきたので、初対面の挨拶をして、ホテルのレストランで、3人で昼食を食べる。それから街に出て、福岡城跡を散歩した。陽射しがよい上天気の日で、歩いているのは気分がよかった。城跡は、文字通りの城跡で、天守閣はない。しかしその跡に登ると、非常に見晴らしがよかった。
ゆん犬さんは非常な好青年で、誠意的に穏やかに話し、A井さんも感銘を受けているふうだった。彼の携帯に、札幌のしまさんから電話が入り、福岡城跡の木漏れ日の下で、替わって少し話したりもした。
城跡を降りて西に歩くと、大きな池面のほとりに出た。大湊公園池というものらしい。近くで柳の緑が風に揺れていて、われわれは水面のそばのベンチにかけて、かなり長い時間話した。この時の話題は、漫画家の宮谷一彦氏についてだった。それは彼が二階堂黎人氏の対談集、「新本格推理作家、おおいにマンガを語る」を読んでいたからで、ぼくもこれに出て、手塚治虫氏や、宮谷一彦氏の思い出について語っていた。
ぼくはお二人ともに会ったことがある。手塚さんとは中学生の時、目黒区立第十中学校の数学の先生が手塚さんの友人だったから、学校に呼んでくださってお会いできた。むろん大勢の代表生徒の中の一人としてだったが。宮谷さんとは、会ったのはほんの最近、5.6年前のことだ。この人は今となってはマイナーな人らしいから、まさか知らないだろうと思っていたが、彼は知っていた。NHK教育で、夏目房之介という漫画家が、宮谷氏の絵の技法について解説する番組をやった、それを見たという話をしてくれた。どんなに部分拡大をしてもアラが出ない、驚異的な精密画という評価だったという。
これはその通りだ。あれはぼくが大学卒業の前後だったか、彼のそういうペンの技術がピークの頃で、非常な感銘をうけた。宮谷氏の絵のすごさは、ペン画を少しでも描いた人間でなければ決して解らないだろう。いわゆるミュージシァンズ・ミュージシァンというあれだ。しかし生意気な人物であったことも確かで、作品には私小説的な世界が多く現れ、革命志向左翼としての特権的、独善的な世界観がしばしば披露されるので、一般には思い上がった若僧として敬遠されていた。端的に言うとそれは、よど号をハイジャックして北朝鮮に飛んだあの若者たちの同類、といったようなことだ。
しかし普段見ているもの、考えていること、読んでいる本、聴いている音楽、好きな車、好きな喫茶店、気になる建築、大事な絵、そんなあたりが、自分と猛烈にクロスしていて、そもそもこういうものをひと繋ぎにして興味を持っている人間というものが、ぼくの周囲には見あたらなかった。当時ぼくが好きで集めていた「アビターレ」というイタリアの建築雑誌の中の建物の写真が、そのまま模写されて彼の世界に現れたりした。だからぼくはいっとき彼の作品を本気で追いかけ、熱中した。漫画の革命だと考えて、どうしてもっと評価されないのだろうと首をかしげていた。そして異端への不安、力のある美しいものへの通例的な嫉妬に、この時も失望感を持った。日常へのやるせない思い、傷つけるばかりで横暴な、しかも退屈なこの国の日々への憤り、それらから一時的に逃げ込む場所、たとえばジャズ喫茶の暗がりとか、美しい絵、詩的な言葉の世界、そんなものたちは、ぼくと完璧なまでに共通して彼の世界にあった。この頃ぼくが本気で漫画に入れ込んだのは、彼の中期の短編群と、「あしたのジョー」があったからだ。
宮谷氏を思い出すと、どうしてもよど号の赤軍を思い出す。彼は、漫画世界をハイジャックして、われわれを雪のモスクワへと運ぶような描き手だった。当時の宮谷氏は俳優のようないい男で、1メートル80以上も背丈があり、すこぶる暴力的で、自身は革命志向のバリバリ左翼のくせに、右翼の大物の娘という危険な美女と恋愛をし、妊娠させていた。そしてあろうことか、そのお腹の大きい彼女と二人でヌードになって、写真をどこかの雑誌でグラビア公開していた。
しかし当時、彼のことが好きな女性はまた別所にいて、新宿のクラブ勤めをしていた、といったような彼の身辺もまた漫画になって、COMいう雑誌に掲載されていたから、ぼくは詳しくなった。描くものは時に難解で、大いに読者を選び、締め切りに穴をあけて、アシスタントたちと車で軽井沢に逃亡、などというようなことも割合やったらしい。自分はやらないが、そういうロックそのもののような彼の生きざまも、大いに気に入っていた。要するに彼は、当時の漫画世界では並ぶ者のないスターだった。
しかし彼は、チャーリー・パーカーのように、自分の高度な作品世界が一般に理解されないことに憤りを隠さなくなり、描く世界をグロテスク一方に傾けていった。どうせおまえたちには理解ができないのだからというような、妙な優越感を暴走させるようになって、そこにちょうど三島が死んだ。これを契機に、彼は決定的に変わったように思う。
思うに彼は、自身の暗い過去から革命志向の過激左翼となったが、心情的には三島を気に入っており、理由は、たぶん三島には美の意識があったからだろう。宮谷がよど号グループを思い出させるとは言ったが、彼らは音楽も、美術も、詩もデザインも、われわれほどには興味を持ってはいなかったろうと思う。三島氏は、「それだけでは駄目だ、美がなくては」と言った。宮谷氏も、この言葉にはたぶん感じるところがあったに違いない。三島氏は続けて、「あんな大掃除の手伝いみたいな格好みっともない」とも言って、格好いい制服の「盾の会」を作った。
宮谷氏が盾の会の制服をどう思ったのかは知らないが、彼はいわば、よど号と三島との間を揺れ動いていた。自分の考えを言えば、この制服はそれなりに形がいいとは思ったが、それはファション・デザインの評価という次元であって、高度成長のただ中に、いいおとながこんな服を着て集合するという行為自体には美を感じなかった。パターン依存の量が多すぎ、その美は三島の脳や文章の中にだけあり、周囲との認識のズレは茶番なまでに大きく、それ自体が醜で、これではヘルメットに覆面の大掃除組と大差はなかった。
しかし彼の自決によって、宮谷は決定的に三島側に与したようだった。そんな漫画を書きはじめ、それは右翼とか三島を茶化していながら、結局命は賭けられなかった彼自身の、一種の贖いの気分のように感じられた。
そのあたりから、ぼくは彼の作品世界から離れていった。ついていけなかったというわけでもないし、彼の画力が衰えたわけでもなかったが、ガラスのような危うい若さは失われていた。
ハリウッド産のヴェトナム懺悔映画に、日本人のわれわれがすべて付き合う必要がないように、これは彼の個人的な世界であって、このあたりは、自分とはもう考え方も事情も違った。宮谷漫画から離れて以降、ぼくはもう二度と漫画というものに熱中することはなかった。
(続く)
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