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島田荘司のデジカメ日記
第76回
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島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
9−21(金)昼、飯塚、秋好事件現場。
翌朝、またレンタカーで鹿児島空港に戻り、トヨタ・レンタカーに車を戻してから飛行機に乗り、福岡に入った。
福岡空港前でまたレンタカーを借り、ここからは多少距離のある飯塚市に向かう。A井さんに、「秋好事件」の現場を見せるためだ。彼は小倉の出身だが、飯塚の秋好事件現場はまだ見たことがない。この夜は、秋好事件の弁護団とミーティングをする予定になっているから、その前にA井さんにも現場を見ておいて欲しかった。今やA井さんも、解明のための強力メンバーである。
この道は、これまでに数限りなく走った。もうこの事件に関わって8年にもなる。走るたびに道の印象、沿道の様子が変わっていく。福岡に近いあたりは日進月歩だ。
飯塚駅前に着く。ところがこの街の風景は、はじめてやってきた時とまるで変わらない。変わったのは、事件直後、ネグリジェの前に少し血をつけた富江が走り込んだ駅前交番の位置が、少し動いたくらいだ。秋好さんが、富江と二人でやるかもしれなかった駅前の小さな定食屋も、まだある。時間の経過とともに、これはだんだんにみすぼらしくなっていくようで、日本の殺人事件の風景は、たいていこんなふうに貧しい。
駅裏に出るための、駅舎右の跨線橋も、変わらずにある。あがると、その上からの眺め、眼下の線路や、そこから視線をあげたところにある三連のぼた山も、ずっと変わることがない。黒いダイヤと呼ばれた石炭による繁栄の時期が過ぎ、反動で変化を永遠に止めたような田舎町の風景がここにある。
跨線橋を降りて左折、一家4人殺しの現場の家に向かっていく。駅のすぐ裏だから、線路と、金網と、その外側の狭いドブと、その上の錆びたガードレール、これらの眺めも変わらない。だが、現場が変わっていた。到着して驚く。小型のシャベル・ローダーが2台、殺人の現場に入っていて、道にはダンプカーが停まっていた。
工事が始まっていたのだ。ここは、長く世間から忘れられたような場所で、ひっそりと空き地のままでいたが、今変化が起こっている。こんな様子は、秋好事件に関わって以来はじめてのことだ。これは整地をしているのか。それとも家を建てるつもりで、まず地下室を作っているのか。とすればまだ始まったばかりらしく、穴はできていない。
秋好事件に興味を持ち、ぼくがはじめてこの現場にやってきたのは1993年のことになる。フライデーで「世紀末日本紀行」を連載していて、死刑問題の改善を提案したく、「点と線」で有名な香椎宮にある堀弁護士の事務所を訪ね、秋好事件の現場所在地を訊いた。堀弁護士が、飯塚駅のすぐ裏だと言い、行けばすぐ解ると言って、家の外観写真を見せてくれた。しかしそれは写真のコピーで、鮮明ではなかった。けれども家が日本家屋で、板塀に「名糖牛乳」の看板が貼りついているのが解ったので、場所もはっきりしているし、この看板を目印に行けばすぐに解るだろうと考えて、向かった。この時は電車だった。ところがそうもいかず、着いたら割合迷うことになった。何故なら、家はすっかり取り壊されていて、まったくの更地になっていたからだ。
堀弁護士も知らなかったくらいだから、あれは取り壊された直後だったのであろう。更地の前に立ってみると、意外に狭い印象だったので、この時も驚いた。しかしこの狭い土地の上の、だからそう大きくもない二階家を2つに仕切り、2家族が住んでいた。秋好事件の犠牲になったのは、そのうちの一方、川本家だけである。
どちらも持家ではなく、2軒ともにここを借りていて、大家の家を探しあてて訊いてみると、なんと契約書が存在していなかった。当時、そして田舎のことだからか、口約束だけで家の貸し借りが行われていた。
あれから8年、何度か来るたび、空き地には雑草が濃さを増し、また背丈も伸びていった。しかし、土地はずっと空き地のままだった。21世紀が明け、何度目かにやってきてみると、シャベルローダーがいた。人が4人も殺された家で、土地の買い手も、家の借りてもつかなかったのだろう。それで家は壊されたが、昭和51年6月の事件から25年が経った今、もうほとぼりも冷めたとして、土地再生の工事が始まっているのだ。
曇天の日で、見上げる空も、周囲の景色も寒々として陰欝だった。「なんだか、暗い風景ですね」とA井氏が言った。この言葉を、彼はそれから何度も口にした。白い空の下、さびれたふうの駅舎。しかし栄光の名残の無数の線路。現場前の狭い舗装路に立つと、ここからも三連のぼた山が見える。あれもまた、過去の栄光の遺産だ。
現場前の道のはたの、錆びたガードレール、その下のドブ川も変わらない。このドブは、秋好さんによれば、殺人が終わったのち、何を思ったのか富江が突如台所の包丁をすっかり抱えて持ち出し、どさと棄てた場所だ。一本は道に落ちたが、秋好さんが寄っていくと、富江はあわててこれもドブに蹴り込んだ。そして二人は、この舗装路で少し揉み合った。
それから、秋好氏の言によれば、自分はこれからどこかに行って死ぬから、おまえは少し俺の逃亡の時間を稼いでのち、駅前の交番に駈け込め、と命じた。心中するつもりでいた富江はあわて、一緒に行くと言った。だが当時34歳の秋好英明は、せいぜい格好をつけ、いやおまえは生きろ、と言いおいて一人去った。しかしこの格好つけが、長い長い裁判のもつれの発端だった。この時二人がともに死んでいれば、事件はまったく別の見え方になり、ぼくがここに来ることもなかったろう。
秋好氏がうちあけてくれたところでは、それから彼は一人、付近の近畿女子大に行った。死ぬ方法は考えていなかった。自殺のつもりで買った包丁は殺害に使い、これは現場に置いてきてしまった。女子大の構内に入り込むと、プロパンガスのボンベの置かれた小部屋があった。ボンベの栓をひねり、ガスを部屋に充満させてから火をつけた。うまく爆発は起こったが、体にひどい火傷を負っただけで、これでは死にきれなかった。そして逮捕された。
その時のコースは不明だが、A井さんと二人、ともかく近畿女子大まで行ってみることにした。大学はずいぶん小奇麗になっている。ここに入ったのははじめてなので、当時の様子との比較はできないが、これらはたぶん新しい建物ではないかと思う。ひっそりとして、構内に学生の姿は見えなかった。
秋好氏によれば、殺害の直後、富江を助けるため、富江が殺した姉とその夫の返り血がついた彼女の着衣を、2人で協力して包丁で裂き、紙袋に詰めて秋好氏がマカ川という川に棄てた。こんな周到なことをしたおかげで、秋好氏は、4人ともを殺したと思われたまま今日にいたっている。証言を翻してから、川を調べて欲しいと秋好氏は言ったのだが、川はその後浚渫工事が成されていて、紙袋も、富江の衣類も発見されなかった。
マカ川も見、川本家に向かう前に、秋好氏が一人で入って酒を飲んだという新飯塚の居酒屋、商丸も見た。商丸は、これも事件後しばらくは倉庫になっていたが、今回行ってみると、真新しい焼肉屋になっていた。時代の流れだ。 (人名はすべて仮名)
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