島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第73回
写真をクリック!大きな画像で見られます。
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
9−16(日)夜、葉山の茶屋。
海沿いに車を走らせ、葉山まで行ってみた。浜べりを葉山方向に走るうち、陽が暮れた。
葉山へのこの海沿いの道も、作家デビューする前によく走った。鎌倉への抜け道をドライヴすると、たいていこの葉山が終点ということになった。一応ポンコツ車を持っていたから、東京住まいのぼくの行動範囲が、南の端のこのあたりまで延びていた。中央線付近だけにへばりついていたら、とうに窒息していたろう。
道の右側の海が消えると、すぐに右に折れ、すると交通量が減少するから、茶屋が見えたら信号なしでさらに右折、ヨットハーバーの手前でUターンして茶屋のところまで戻る。そして海沿いの堤防際に車を停めて、この店に入った。堤防の外側はすぐに浜だ。
その背後、岬の先端あたりには白いサイコロ型のビルがあって、これも茶屋だが、こちらは高級レストランで、高そうだと思い、当時はあまり入ることはなかった。今も入る機会はない。この夜も、昔と同じように道に車を停め、喫茶店に入った。
レストラン「Chaya」は、LAのビヴァリーヒルズにもある。こちらも高級レストランで、白人たちに大人気だ。天井が高く、クラシカルな大型の模型飛行機が吊り下げてあり、Chayaオリジナルの皿はカラフルで美しく、料理もおいしい。
喫茶店茶屋は、ほとんど10年ぶりだった。が、古びながらも店はまったく変化していない。案外混んではいず、室内の白い塗り壁、壁の黒い柱、アンティークなテーブルや飾り棚、耐火煉瓦を積んだ暖炉など、みんな昔のままだ。この雰囲気が好きで、しかも波打ち際のそばというロケーションも気にいって、よく来た。窓際の小テーブルに腰を降ろし、お茶とケーキを頼んだら、たまたま客たちが出ていくタイミングにあたって、店内はすぐにがらんとした。写真も撮りやすくなった。
ここによく来ていた、思えば20年の昔、こんなふうに自動車で長々と走って、そのあげく入れるような喫茶店、レストラン、ラーメン屋の類をよく知っていた。それもあまり高くなく、車がしばらくは停められるような店だ。
当時つき合いのあった人たちというと、「龍臥亭事件」に出てきた神主の親子、その息子の方の彼などはその一人だ。彼ともここに一緒に来たような記憶がある。彼は出雲大社の六本木分室で修行をしていたが、そこにも遊びにいって、ビルの1階に入ったこの神社や、その石段あたりは「火刑都市」に登場させた。ヒロインが子供を棄てる大事な場面だ。
そういえば今思い出したが、作家になってから知り合った、パリ人肉事件の佐川一政氏を、神主になった彼の神社に連れていって、お払いを受けさせようと真剣に考えたことがある。これは業が深い佐川氏のためにずいぶんと本気になり、乞われて執筆や出版の協力もする気でいた。多くの編集者とはすでに話もしていたし、神主の彼とは事前に打ち合わせも重ねていたのだったが、こちらの誠意が通じず、旅の途中、前日になって佐川君に逃げられてしまって実現しなかった。あれは天の配剤というものだったかと思う。いろいろな意味で、そこまでしてはいけなかったのだろう。
ここに来ていた頃、「占星術殺人事件」もたぶんまだ書いてはいなかった。神主見習いの彼と、冗談半分でよく星占いの話をしていて、そういうことも作品構想のヒントにはなったろうが、あの話の天啓を得たのはこの店ではなく、ジャズ喫茶アケタの店が入った、西荻のビルの5階だった。
喫茶店といえば、御手洗の下の名前をふいと思いついた場所が喫茶店だったが、あれもここではなく、鷹の台という小さな街の喫茶店だった。
その時代のことで、今も妙に憶えていることがある。思い出せば幻のようで、現実だったという自信がなくなるのだが、あの頃は、角川書店が自社制作の映画の大宣伝を盛んに打っていた時代だった。その一環だったのだろうから、たぶん角川のCMだ。鎌倉の海が見降ろせる坂の上に、江ノ島電鉄のものらしい踏切が写って、セーラー服姿の女学生が5、6人、はしゃぎながらそこを歩いている。あるいはそんな場所ではなかったのかもしれないが、今ぼくの脳裏に遺っているイメージはそうだ。中の一人が手の本を仲間に示し、こう訊く。「この本読んだ?」、すると彼女は、なんだか悲鳴のような大声で、「読んだ、読んだー、よかったー、泣いちゃったー!」と応じる。
小説を書くことを考えていた頃なので、この様子にはなんだか新鮮な衝撃を受けた。衝撃というのは、ショックとも、疑惑とも、嫉妬とも、憧れともつかないような、ちょっと複雑な感情だった。疑惑というのは、活字を読んで泣くなどというようなことが、本当に起こるのだろうかという疑問、これは演技に違いないが、もし本当にこんなことが世間にあるのならショックだし、そんなことを読者に起こさせた作家に対して嫉妬を感じた。でもいつか自分にもそんなことができたらいいなというような、漠然とした憧れもまた感じた。
だが最後に残った気分はというと、強い羨ましさだった。ほかの職業を考えなくていいというくらいに立場を作った小説家の存在をそこに感じたし、見ず知らずのその人のことを、若い娘たちがこんなふうに敬意をもって話し、あまつさえ「泣いちゃった」などと互いに公言し合うのは、彼への最大の敬意に感じた。そして、いつか自分にもそんなことができたらどんなにいいだろうと想像した。
今ぼくも、たまにこのように言われることがあるが、このCMの映像とか、これを見て感じた当時の気分を、忘れないようにしている。それが出来た人間への嫉妬の感情も知っている。だからこういうものに出遭っても腹はたてない。女性読者にそんなふうに言ってもらった時には感謝する。このCMを見た時、ぼくは自分にもそんなことができるなどとは、夢にも思っていなかった。
長いこと忘れられない眺めがあり、あまりに時間が経ってしまっているものだから、それが記憶だか幻想だか不明になることがある。これもそのひとつで、夢か幻想でも見たような心地がするし、予知夢の記憶を、いつのまにかCMと取り違えてしまったのかもしれない、などと思うこともある。
白いビルの茶屋にも、作家になる前に一度くらいは入った。暗い海と月光が見えるテラスがあって、中太の糸巻きのようなかたちの支柱が並んで、白い石の手摺りを支えていた。それは、30年代のアメリカ映画に出てくるようなテラスだった。
アメリカに住んで、そんなテラスの実物を、女優マリオン・ディヴィスのハースト・キャッスルで見た。また、葉山の茶屋のテラスが、わたせせいぞう氏の漫画にそのまま登場しているのも知った。30年代のアメリカ人ふうの髪型をした人物たちと一緒で、わたせ氏の漫画には、これまでにぼくが興味を感じていたり、好きだった事物が実によく登場していた。街、音楽、車、映画、建物、小物、多岐に渡っていて、違うのは女性くらいだった。ぼくはこのような心優しい、聖母のような女性とは縁がなかった。
彼の世界に現れてくる場所は、函館と、鎌倉と、サンタモニカが一緒になり、そこから住人の数を5分の1くらいに減らしたような街だった。街には日本車など一台も走ってはいず、多くは完璧にレストアされた古い欧州車だった。坂道があればそれは函館で、建物が現れればそれは鎌倉か横浜、ビーチ沿いに出ればそこはサンタモニカで、しかし海の色はというとフロリダだった。
LAで友人になった若い日本人にその話をしたら、彼がLA中の日系の古本店を巡って、わたせせいぞう氏の古本を買いあさってきてくれた。これを見たら、「菜」という漫画で、舞台が江ノ電の走る鎌倉になっていて懐かしく、また嬉しかった。
そうしていたら、LAのリトル東京で、「わたせせいぞう原画展」が開かれることになって、観にいったら、がらんとした会場に見覚えのある背の高い老人が立っていた。それが往年の大スター早川雪洲氏のご子息で、雪夫氏だった。こちらから話しかけて友人になり、何度か会って彼の告白談を聞いていたら、知らず「最後のディナー」ができた。しかし早川氏の人生はむろん堂々たるもので、作中の大田原氏のような悲惨なものではない。
葉山や茅ケ崎、鎌倉は、ジャズ喫茶の暗がりに棲むような者には眩しい世界だったが、「夏、19歳の肖像」とか「眩暈」とか、どこかに本気の自分が投影されるような小説には、知らず顔を出した。それはたぶん、この時代の自分が小説家島田の血肉になっているからだろう。
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved