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島田荘司のデジカメ日記
第72回
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島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
9−16(日)、鎌倉大仏。
例の抜け道を走り、鎌倉に行く。鎌倉へ来ると、どうしても大仏前に来てしまう。
この大仏に関して、実は小説のアイデアがある。これはずいぶん前からあるのだが、どうも細部がうまくまとめられずにいる。この日、大仏を前にしたら、日夜脳裏にイメージしていたものより、少し小さい印象がきた。
以下は一般論だが、鎌倉大仏に関してはミステリーが多い。あまり書くと作品の内容に触れてしまうので慎重に述べるが、まずはこの大仏、誰が、いつ、何の目的で作ったのかが不明である。これだけ有名でしかも大建造物であるのに、これはちょっと不思議で、理由が知りたい。鎌倉は武士の都なので、文化的な事件にはさして重きをおかなかったのか。では何故そのような武士が、大仏などを作ったのか。新興都市ゆえの京都、奈良への劣等感からではなかったか。実際源頼朝は、多くの仏像、如来像を作らせたことが解っている。
そう考えれば、この大仏を作らせた者は鎌倉の開祖頼朝こそがふさわしいのだが、幕府の公的な歴史書「吾妻鑑(あずまかがみ。東鑑とも書く)」によればそうではない。吾妻鑑には「天長4年(1252年)8月17日に、深澤の里で8丈の阿弥陀如来の鋳造が始まる」という記述がただひとつきりあるようで、ほかには大仏鋳造の記載はない。よってこれが鎌倉の大仏のことだといわれる。そしてこれ以上の情報はない。
頼朝が死んだのは1199年なので(この死の理由も謎が多いのだが)、大仏の鋳造開始は彼の死後53年も経ってからということになり、この記述を信じるならだが、鎌倉の大仏は頼朝とは無関係という話になる。しかしこれほど大がかりな仏像が作られたというのに、他には記録も、民間伝承のたぐいも遺っていないというのは奇妙ではある。これだけのものを作るのは国家的大事業のはずなので、よほどの理由がなくてはならない。鎌倉開府時というならそれも解るが、それから半世紀もたってのち、これほどのものを作る、いったいいかなる理由が鎌倉幕府にあったものか。
大仏は、完成後はしばらく壮大な大仏殿に入っていたといわれる。そして中に鎮座する大仏は、全身が金色に光っていた。しかしこの大仏殿が天変地異で倒壊して、以来現在のような露座になった。
蒙古襲来前、他国侵逼難の「立正安国論」で日蓮は有名だが、ではこれと、続く元寇の役などと関連があったものか。日蓮が鎌倉で他国からの侵略の危険と、法華経への帰依をさかんに説いたのは1260年頃。服従を求めるフビライからの最初の文が幕府に届いたのは1268年。日蓮が龍ノ口で首を跳ねられかかったのもその頃で、蒙古の最初の襲来があったのは1274年。二度目の襲来が1281年で、いずれも大仏の鋳造開始よりはかなり後になり、よってこれらも無関係に思える。むろん吾妻鑑の記述を信じるならだが。
そもそも52年に鋳造が始まった大仏は、その後のいつ完成したのか。これもまた謎である。これだけのものが、8月に鋳造を開始して、その年の内にできたとも思われない。少なくとも数年という歳月はかかったのではないか。そしてその完成は一大スペクタクル、歴史的な大事件であったはずだ。それが何故公的な記録になって遺っていないのか。
また日蓮騒動の頃のいきさつの記録に、鶴岡八幡宮は出てくるのに、これだけ目立つ大仏は出てこない。さらに言えば、龍ノ口で日蓮は何故斬首をまぬがれたのか、これらもまた、なかなかに魅力的な謎だ。
さらにいうと、1丈は10尺、6尺が1間で、これは1.8182mだから、1尺は0.3030333mという計算になる。では10尺たる1丈は3.030333mとなり、これを8倍した8丈は、24.242664mということになる。現在の鎌倉大仏は高さ11mなので、単純計算では数字が合わない。これもまた謎である。こういったことを説明する壮大な物語がぼくの脳裏にあるのだが、いずれ発表したいと考えている。
そもそも「吾妻鑑」という史書が、リアルタイムに記録されたものではない。筆者も不明なら、編纂の時期も不明である。書名まで「東鑑」か「吾妻鑑」か解らない。前半は13世紀中頃、後半は13世紀末から14世紀初頭の制作と推測され、筆者は幕臣で、幕臣の家々に伝わる記録や、公家の日記などに取材し、これに民間伝承や推察などもまじえて編纂したものと考えられている。さらには写本が多く出廻っているので、筆耕され継がれるうちに、内容が変化した可能性もある。
しかしこの大仏ができてのち、鎌倉の西の地は、いわば極楽巡礼の聖地になったことは確かである。由比ヶ浜は現在サーファーたちのメッカだが、鎌倉幕府の時代、ここは目に見える地獄であった。近年、浜の一部で「由比ヶ浜南遺跡」というものが発掘された。ここにはおびただしい人骨が埋まっており、その多くはただ折り重なって、ごく簡単な瓶にさえも入ってはいず、最下層の者たちの埋葬場所であることを示していた。当時の由比ヶ浜は、弱者、物乞い、病気の者たちが日夜幽鬼のようにさまよい、不治の病に苦しむ者がうち捨てられて死を待つ、この世の果てのような場所だったと考えられる。
こういう危険な場所に神輿岩(みこしいわ)というものがあり、そこに十王堂という寺があったとされる。十王とはいわば10人の閻魔で、彼らがすらりと居並ぶ眼下に、人間は死ねば出なくてはならない。これは裁きの場で、十王は彼の現世での行いを査定する。善行の量、悪行の量をはかり、この人物を六道のいずれに転生させるかを判定する。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、という六つの世界をさし、現世での行いが正しかった者は天上に、卑しかった者は地獄や畜生道に落とされる。
これは古代インドにあった宗教観で、輸入品と考えられる。生命とはこの六道を永遠に巡る、つまり輪廻する存在と考えられていた。インド人は永遠に続くこの輪廻を苦しみととらえ、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦のやろうとしたことは、この六道循環からの離脱だった。これが悟りである。
波打ち際、神輿岩に立っていた怪異な顔つきの十人の閻魔たちは、当時の鎌倉庶民にとっては大変なリアリティ、すなわち恐怖心をもって感じられた地獄であったろう。その威圧的な眼をもってジャッジされた庶民は、とぼとぼと北上し、まず長谷寺に詣でる。ここには十一面観音という、十王からは一転、慈悲の視線をたたえた観音が、錫杖(しゃくじょう)という杖を持って立っていた。これは、十王によってあまりよいところには転成させられないと判定された者をも救える杖で、如来でも人でもない菩薩観音であるからこそそれができた。よってここで人は一心に祈り、現世での行いの不充分を詫びた。
長谷寺からさらに北上すると大仏殿があり、たどり着けば、この大扉の内には全身が金色に輝く巨大な阿弥陀仏が鎮座して、迷える民を待っていた。見上げる甍の下、雄大な薄暗がりの空間にいる大仏こそは、庶民にとって浄土のイメージだった。十王堂で怯え、長谷寺で救済され、そしてこの大仏でついに極楽浄土に引きあげられる−−、鎌倉西部の大仏のエリアは、当時の民にはこのような「極楽浄土すごろく」といった趣を持っていた。
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