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島田荘司のデジカメ日記
第70回
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島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
9−12(水)、勝鬨橋、オープニング・プロジェクト。
金田賢一さんと笹塚駅の改札口で落ち会い、甲州街道沿いにあるキノックスという会社にいく。キノックスというのは映像の制作会社で、金田さんとは仕事上のお仲間だ。今日のミーティングは拙作「開け勝鬨橋!」に関してで、金田さんはもっかこれの映画化に夢を持ってくれている。
むろん金田さんが今最もやりたい役は吉敷竹史だが、テレビ世界には視聴率という独裁者がいる。現状ではさまざまな事情からこれがむずかしいということで、彼は比較的こういうしがらみから自由な映画に、活路を見いだそうとしている。映画なら、極端なことを言えば製作費さえ都合してくれば撮れる。しかしバブル景気が遠のいた今、その調達が難問であることも確かなのだが。
この映画で金田さんは、老人ホームと敵対する暴力団の、切れ者の幹部を演じたいと考えている。しかしこれは脇役だ。主役はあくまで老人ホームの老人たちである。そこで加えて彼は、プロデューサーという役どころにも魅力を感じている。
そういうわけでこの日、金田さんの仲間たちが、金田さんのため、「開け、勝鬨橋!」映画化実現を話し合おうとして集まったというわけだった。キノックス社の熊田社長、金田さんのマネージャーの上里氏、監督候補の増田さん、そして金田さんに、原作者のぼく、という顔ぶれだった。みなさんを紹介され、キノックスの会議室でミーティングとなる。このご時世、映画の資金集めがむずかしいことはみなよく承知しているから、場は夢を語り合う、ちょっとした顔合わせ親睦会となった。
「開け、勝鬨橋!」という作品は、以前KITTYミュージック・コーポレーションという音楽系の会社とおつき合いがあった時、ここの多賀英典社長に頼まれて、映画化を前提に書き下ろした。当時は車に熱中していたし、自分が信じる面白いエンターテインメント映像、ということを終始念頭において書いた。結果として、ハリウッド活劇的なにぎやかな話になった。実現すれば面白い映画になるという自信は、まずまずある。しかし予算の調達とか、多賀社長の作りたい方向とは若干違うことなど、さまざまな理由によって映画化は実現しなかった。今回の金田さんのプロジェクトは、これを引き継いだ格好になっている。
上里さんのプロダクションには小林旭さんもいる。往年の大スターたちももうかなりの年配になっているから、みんなこの映画の主役候補となり得る。主役の老人たちの候補というと、小林旭さん、宍戸錠さん、うまく老けられるという意味で石橋蓮司さん、若山富三朗さん、そういった、そうそうたる名前がぽんぽん飛び出す。若い人たちにはぴんとこないかもしれないが、日本映画の往年を知る者には、こんな顔合わせが実現すればこれはもうお祭りというものだ。ぼくは日本映画の熱心なファンではなかったが、そのくらいは解る。
話を聞いていて、もう20年以上の昔になるが、映画好きの友人や映画関係者たちと、「歌う銀幕スター、夢の共演」というイヴェントをやったことを思い出した。会場は新宿の厚生年金会館大ホールで、ぼくはポスターを描いた。この時も小林旭さん、宍戸錠さん、菅原文太さん、渡哲也さんといった、当時をときめく大スターが、こぞって低ギャラで集まってくれた。彼らもあの頃はまだ若かった。
しかし名前の掲載順だの、ギャラの問題だので、ずいぶん苦労もさせられた記憶がある。このたびも、もしああいう様子になるのなら、こういう点には充分気をつけなくてはならない。いくつになってもプライドは人一倍高い人たちだ。一堂には会してもらわない方が、もしかしてよいかもしれない。そんなことを冗談まじりにあれこれ話していたら、増田監督が、あのコンサート、自分は裏方をやっていましたよと言ったのでびっくりした。お顔に記憶がなかったので、当時彼は学生だったのかもしれない。あの頃の映画好きが、やはり今、この世界に入って屋台骨を支えていた。
勝鬨橋だが、現在大学教授が中心になって「勝鬨橋をもう一度あげる会」というものをやっているらしい。93年の5月に結成された。「あげる」というからには、当然モーターを新品と交換し、配線をやり替えて電気を引き、モーターの力で橋を本格的にあげようという正攻法のものであろう。これには予算の試算も出ていて、およそ3億円かかるという。だから今、「勝どき債一口1000円」というものを募集しているそうだ。もしもこういう工事をやったとすれば、橋は今後半永久的に、何度でも開け閉めができる。そうなら、映画はこの会と協力しあって行うことも考える方がよい。
もう10数年前になるが、原作を書き下ろすにあたって、KITTYが橋の管理事務所にあたりをつけてくれ、橋内部の動力部を見学させてもらったことがある。ヘルメットをつけて橋の下に入ると、開閉橋の心臓であるモーターは、大きなものが左右にひとつずつあるようなものではなく、小さなものが幾つも並んでいるのだった。これらの外観はまだしっかりしていて、当時、このモーターの整備を長く担当していた人が、勝鬨橋は最低限の整備をして、電気さえ通せば今も開くのだと語っている新聞記事を読んだことがあって、これが作品執筆のヒントになった。しかし、あれからもう10年以上の年月が経った。やはりモーターは新調する必要があるだろう。「もう一度あげる会」はこのあたりを調査したうえ、モーターの購入費など含めて予算を見積っているのであろう。
見学のおり、管理事務所の人に、これは映画化を前提とした話なんです。もしこの橋を開けるとしたら、誰が実行委員になるのでしょうねと質問した。そうしたら事務所の人が苦笑いして、そりゃまあ私たちがやるほかはないでしょうねぇ、と言っていた。その非常に嫌そうな様子、冷笑気味の表情を、今によく憶えている。高度経済成長のあの時代、ちょっとした派手めの仕事、遊び心ふうの試みにはみな反射的に冷笑態度となり、これを道徳と感じて、正当性を疑わなかった。今の北朝鮮や中国の人たちのような、生真面目な様子だった。
しかしあれから時代は移った。現在の石原都知事は、映画作りにも理解があるということで、可能性はあると金田さんは言う。ただ、一晩だけにしても道の車を停めて橋を開け、もし蝶番がはずれて橋が閉まらなくなったりしたら、これは歴史に悪名が残るだろうとも言う。
橋を開ける方法は、「あげる会」のようにモーターを新調し、配線を整えて、正攻法で開けるという道ひとつには留まらない。ただあげればよいというだけなら、しかもそれが夜でいいなら、クレーン車を使い、ワイヤーで引いてあげてしまえばよい。それらしい音は、後で入れればいいのだ。橋はまだ、ボルト留めなどで固定されてはいない。
しかもこれは、最悪片方だけでもよい。両方を開いたように見せる映像のトリックは、これはいくらでもある。ワイヤー線は、後で画面から消せばよい。画面が夜なら楽だ。しかしこれでは開けたといっても一夜限りのことで、そののち開閉する勝鬨橋を中心に、街おこしのイヴェントが毎年打てる、などというようなことは起こらない。
また、この話の映画化をしたいというだけなら、なにも勝鬨橋にこだわらなくてもよい。お台場の方に、規模は小さいが、開閉可能の橋はあるそうだ。ここを使い、金田さんを中心して映画好きの者たちが集い、映画作りをただ遊びとして楽しむ、これも一つの現実的方法だと熊田社長は言う。それもひとつの判断ではあろう。しかしそれでは「開け、お台場橋!」で、勝鬨橋ではなくなる。
勝鬨橋は、1940年の6月に完成した。この名は、橋がかかる以前、ここに日露戦争の旅順陥落を記念した「勝鬨の渡し」というものがあったことに由来する。橋が開いたところが、人が万歳している格好に見えるからではない。以来毎日3回から5回開き、こういう様子は68年の3月まで続いた。今開けても、もう大型船を通すという意味あいはない。そんなに大きな船はもう隅田川を遡っていく用事がないし、第一勝鬨橋の下流や上流に、もう低い橋がいくつもできてしまった。しかしこの開閉する橋には多くの人たちが郷愁を持っていて、開いたところをまた見たいと思っている。開いてライト・アップし、水上からも観せるなどして、街おこしのお祭りにしようという中央区の動きも今あるらしい。
この日のミーティングは、映画の実現というより、その手前でなんとか勝鬨橋を開けたいという、むしろ「勝鬨橋、オープン・プロジェクト」のささやかな発足式となった。勝鬨橋を今開ければ、ささやかながら都史に名前が残る。21世紀が開け、こういう遊びにみんなが意義を感じはじめているようだ。かつて夢工場と呼ばれた映画屋には、どこかこういう大袈裟好き、そして自己顕示の体質がある。
上里氏がこの中央区月島の街おこし集団と、それから「もう一度あげる会」にかけあってみると言う。彼は押し出しがよいキャラクターだから、案外うまくやれるかもしれない。熊田氏は、地方から出てきたのが昭和43年で、ちょうどこの年に勝鬨橋は永久に閉じてしまい、勝鬨橋の開閉とはすれ違った。なんだか遺恨試合のようで、開いたところを一度見たいと言う。みなの意志が一致して、事務所から笹塚の駅前の飲み屋、兎やに移動してミーティングの続きとなる。
熊田氏は、「秋好事件」の再審請求のための血液付着実験ヴィデオを、もし金田さんが協力してやるならば、会社のプロ用の機材を動員し、ヴィデオ撮影を担当してもいいと言ってくれている。だからこの夜は、ふたつの夢のプロジェクトの話合いになった。
笹塚の街は、友人のハニー・アルフセイン・ハナフィがカイロからやってきて、ずっと棲んでいた街でもある。ここにすでに彼の友人フセイン・ガラルが、日本女性と結婚して暮らしていたからだ。彼の世話でハニーは、フセイン・ガラルのマンション近くのアパートに住んだ。そこにぼくはいっとき、毎日のように遊びにきていた。
その彼も今はLAだ。彼が二番めに住んだLAのアパートは、当時解明に熱中していた「三浦事件」の重要現場の前で、非常階段に出るとこれがすっかり見降ろせた。みんなループしてつながっているふうに思える。そして今は「秋好事件」だ。
「三浦事件」は解明がうまくいった。しかし「秋好事件」はむずかしい。「開け、勝鬨橋!」映画化実現も、また勝鬨橋を開けることも、多くの点から実行はむずかしい。なんだかぼくは、いつもむずかしいことにばかり関わっている。しかし、夢はいつも簡単ではない。
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