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島田荘司のデジカメ日記
第66回
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島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
8−27(月)、鬼門浅草。
地下鉄に乗って、上野から浅草に出た。いつのまにか雨はやんだ。雷門をくぐって、仲見世を浅草寺の方角に歩く。途中でそれて旧六区の方に廻り、浅草公園通りに出たら、人力車におさまったカップルが、車引きのお兄さんに記念写真を撮ってもらっていた。こういう大正ロマンふうの光景は、逆に最近見かけるようになった。御手洗ものの短編を書こうとしてよく取材に来ていた昔は、こんな風景は見ることがなかった。
浅草公園通りの先を、五重塔通りで右に折れると、浅草寺に出る手前に、ごちゃごちゃと古い飲み屋とかおでん屋、靴屋などがひしめいて並ぶ。おでん屋は、夏になればかき氷屋に変身する。店の前には低い藤棚があって、下に長椅子が置かれている。それらすべてが小さく、路地は狭く、軒は低い。
これらの北に花屋敷がある。観覧車だの、ヴァイキング船だのといった乗り物が、往来からすっかり見える。すぐそばでぐるぐる回る。すべてが古びていて、今の感覚からすれば、施設がとても狭い。そして日暮れ時ともなれば、これらがみるみる怪しげな雰囲気を発散しはじめて、あたりは小人が走りだしてきそうな、乱歩的な世界にと変貌する。競馬新聞を片手の人々、ちょっと恐げな風情の人、酔って千鳥足の人たちも、みんなそういう気配に奉仕する。
浅草寺は、7世紀頃大川で漁をしていた漁師が、打った網に金色の観音像がかかったから、これを安置することで建てられた寺だという。645年に勝海上人という人が、現在の位置にお堂を建て直したらしい。天台宗系の寺なので、前回お話した怪僧天海の系列となる。しかし天海との強いつながりは聞かない。
浅草寺境内はなんとなく不思議な空間で、明治の神仏分離令にも関わらず、この中には寺社が混在する。観音像を拾った漁師と像を祭った本堂、これに向かって右には三社祭で有名な浅草神社の鳥居がある。その鬼門側の位置には被官(ひかん)稲荷という社がある。
浅草寺の浅草は、江戸城の正確な鬼門方向には位置しない。しかし江戸の頃には、ここ浅草を江戸城の鬼門として描いた地図も出廻っていたそうだ。これは当時の地図がいい加減な測量によるものだったということではなく、軍事上の意味あいから、わざと不正確に描かせて流布させていたという説がある。
具体的な侵攻作戦上ということからだけではなく、どうやらこれは、サイキック戦上のおとり作戦ということだったらしい。当時は調伏、すなわち呪いというものも大真面目な兵器であったらしく、敵が鬼門攻撃で浅草寺を呪っても、実はこれはダミーで、真の鬼門封じの装置は、別所に隠されてあるという仕掛けだったらしい。また家康の江戸城入りから、寛永9年までの43年間、江戸の地図は1枚も出廻っていないという。そしてようやく出てきた地図がそういうことだ。
しかし、ここほど江戸の鬼門にふさわしい土地はない。江戸の頃は、神田川を越えて恐々入る、ここは闇の領域だった。見せ物小屋を通過してさらに北上すれば、小塚原の首斬り場があり、これを横目に田圃の中を行けば、当時の不夜城、享楽の新吉原がある。夜っぴて明かりがともっていたというが、しかしこれも、現代の感覚でいえば恐ろしく暗い世界だったようだ。首をはねられた死者が、煩悩の火が消えず、黄泉の国からさまよい戻ってくる現世への門が、このあたりにはあった。
大正の頃、浅草には天を圧する稜雲閣が建った。これもまた、浮世からどこかへと昇っていく、鬼門らしいシンボルだった。芝居小屋や活動写真屋が軒を連ね、今の原宿や渋谷、銀座以上の最先端歓楽街だった。鳥打ち帽子をかぶった丁稚小僧さんたちが、なけなしの小遣い銭を懐に、休日ごとにこれらを見物に繰り出してきた。江戸川乱歩さんの随筆によれば、川向うにはパノラマ館というものがあり、戦争展や、衛生博覧会などをやった。なくなってからは、国技館を見るとこれを思い出したという。
江戸の鬼門であり、長く闇の領域であり、新吉原や晒し首を背にした退廃の街が、文明開化後、一挙に日本最大、最先端の歓楽街になった。日本の探偵小説の祖、江戸川乱歩がここを探偵小説の舞台にした時、ストーリーはもう決まっていたといってもよい。闇、退廃、呪い、生首と血と娼婦、または裸女−−−。これらは江戸の都市構造の産物であり、その中の鬼門が持っていた、一種冥府へのキーワードだった。山上の寛永寺と、下界の鬼門とは、このように様子が違った。
いっとき熱中して資料を集め、稜雲閣と、そばにあったという瓢箪池の位置を求めた。このあたりは江戸の頃から浅草寺の借地だったために、明治、大正、昭和と、それぞれ地図が残っていた。稜雲閣は戦後に発掘工事がされていて、この資料も手に入った。
それによれば、稜雲閣の敷地の半分強の部分には現在焼肉屋が乗り、残りはこの店の前の路地にあたった。当時の道や区画は、もうとうに失われていた。
そのかわり、ぼくがよくぶらつきに来ていた頃には、雷門通りの突き当たりに、まだ仁丹塔というものがあった。今では失われ、もう記憶も定かではないが、塔の腹に仁丹の二文字が張りついていたように思う。この塔の形が稜雲閣に似ていたので、模してあるのだろうと見当をつけた。気にいって、足もとに立ってやろうとさんざんに歩き廻ったのだが、遠くからは姿が見えても、近づくと消えてしまった。ずいぶん歩いて、ようやくビルの屋上に建っているのだと知った。
その古いビルの1階には蛇屋があって、普通の店ならショーウィンドゥとなるはずの店頭のガラスケースの中には、蛇がいっぱいいて、折り重なって蠢いていた。考えみれば、あれはいったいなんの店だったのだろう。はたして何を売っていたものか。蛇なのだろうか。
今はもうこの店はない。雰囲気満点で、鬼門というキャッチフレーズに、わざわざ奉仕しているような店だった。
蛇屋の隣は骨董品屋で、ここの壁に、瓢箪池と稜雲閣の古い大きな白黒写真が、額に入ってかかっていた。この写真から、このビルの上に建つ仁丹塔が、事実稜雲閣を模したものであることを確かめた。しかし、それほどそっくりにはできていなかった。
蛇屋と骨董品屋の間には入口があり、奥には階段がのぞいていた。エレヴェーターもないらしく、いかにも危なそうな雰囲気だったが、夜で人けもなかったから、思い切って進入し、階段をあがってみた。狭く、天井の低い階段で、ビリヤードの玉が描かれているドアがあったり、一枚だけ真新しい木製の扉があったりした。不思議なことに、それらはみんな、まるで子供の国のもののように小さいのだった。乱歩の世界に出てくる、小人たちの棲み家のように見えた。
屋上に出ると、洗濯物が干されていて、かすかな洗剤の香りがした。そして仁丹塔が、月光を受け、白々と巨大な腹を見せてそそり立った。近づくと、魚の鱗のようにペンキが剥離し、あちらこちらでそり返っていた。ぐるりを巡ってみたが、入口のドアなどはどこにもなかった。
と、そんなようなことを、浅草を歩くと思い出す。あれから浅草は、すいぶんと小奇麗になった。稜雲閣の名残の仁丹塔も消え、怪しげな蛇屋もいなくなった。骨董品屋もどこかに越していったし、古い建物はどんどんのっぺりしたセメントのビルに変わった。デニーズができ、ダンキン・ドーナツ屋ができ、雷門のそばには、ピカピカのからくり時計もできた。芝居小屋や映画館が消え、代わりにデパートやホテルが現れ、仁丹塔前の国際通りは、ビートたけしからとってビート通りと名前が変わったらしい。
ぼくなど、たいして知っているわけではないが、ここが乱歩的な鬼門の世界だったことをわずかながらでも肌で知る、最後の世代なのであろう。
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