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島田荘司のデジカメ日記
第65回
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8−27(月)、雨の上野東照宮。
雨の中、中央線に乗って、なんとなく上野に行った。霧雨の中、科学博物館前の巨大鯨の全身が濡れ、気持ちがよさそうに見えた。
公園内の植物の植込みの間にはブルーのテントが散在して、これはどうやらホームレスたちの塒(ねぐら)らしい。寒くない時期だから、こうして歩きながら眺めると、テント生活もまたごく自然で、快適そうに見える。しかしこれは不況の風景か。
公園をぶらぶら行くと、東照宮に行きあった。境内、と言うのもこの場合は妙だが、ここは寛永寺山内でもあったはずなので、そう言っても誤りではないだろう、境内に歩み込んでみる。長く続く石畳が雨に濡れて、参道の両側にずらりと並ぶ無数の石灯籠が、上空に重なる葉によって、光と陰の美しい景観を作っている。
東照宮は日光のものだけが知られていて、これがひとつだけと思っている人も多いが、実は全国各地にある。東照宮とは、寺とも神社とも違う独立した宗教で、したがってどれかのグループに組み入れることはむずかしい。そもそもこれは何なのか。これもまた、日本歴史の興味深いひとコマといえる。
もともとこれを言いだしたのは天海という僧侶で、これは比叡山の天台宗の人だから、では東照宮は天台宗の系統かと思うと、確かに上野のこのあたり、東叡山と呼びならわされもしたらしいから、当たっているかとも思うが、やはり違う。山王一実神話という、これは天台宗で育った神仏習合神道の考え方を根拠にしている。しかし東照宮という宗教概念は、天海のオリジナルらしい。要するに徳川幕府の開祖である家康を神として祭り、徳川の治世の守護神とした、一種の新興宗教と言っていい。江戸の頃はこの東照宮が、日本全国津々浦々に300も建立されて、稚内にまであった。
天海が、この新しい宗教に背負わせていた思想については謎が多いが、一種の呪術であったと想像される。呪術的な各種の手続きを徹底させることで、江戸城を外圧から守り、これに永遠の命を吹き込むことを目的とした。しかしその割には江戸城天守閣は、ギャルの恋愛沙汰の火つけによって、あっさり焼け落ちるのだが。いわゆる振り袖火事である。
東照宮をてこ入れし、充実発展させた家光の時代は、天草キリスタン軍の、信仰心ゆえの手強さに手を焼いた時期にあたるから、これに対抗した東照宮も、やはり軍事宗教の範疇といえる。東照宮自体は、徳川の圧倒的な軍事力をバックに、仏教も神道も圧倒して明治維新まで続いた。これを引き継いだ明治政府がやったことはというと、やはり外敵に対抗するために神道を改造し、仏教を片隅に追いやり、万世一系の皇室神話を使った軍事宗教の設計、そして政教の分離を説く勢力に対しては、これは日本の伝統的な儀礼であるから宗教ではないと言い逃れておいての、これの国民への強要であった。これもまた時代に隆盛した新興の軍事宗教であるから、日本の権力者は、同じことを何度も繰り返してきているといえる。アメリカに移民した日系人は、この宗教のおかげで二世、三世まで囚人とみなされ、全員収監された。
ではこういう軍事宗教が特殊なものかというと、世界を見廻すと、実はそうでもない。転生を説くケルトの宗教、古代ローマの軍神、ナチもまたこれと似た宗教観を持っていたといわれる。今世界を震撼させるイスラムの教え、これは聖戦で命を落とした者は、33歳の肉体をもって真珠の屋根、金銀の柱の家々が並ぶ、天国の街に再臨させると神が約束する。中国にも軍神関羽を神とする宗教はあり、キリスト教にもユダヤ教にも聖戦を奨励する側面はある。すなわち、軍事宗教こそが一般ともいえ、その意味では個人の解脱を説く仏教だけが独特ともいえるのだが、これにも大乗と小乗とがあり、僧兵を持ち−−−、などと言っていくとこの話は終わらない。
天海流の呪術は、江戸という開拓地を縛していたもので、この痕跡を地図に捜せばなかなかに面白い発見があるようだが、江戸もまた京都と同じく、風水の考え方を基本とし、これを厳に踏まえることでその永続性を祈念されていた。風水とは中国五行思想をとり入れた四神相応の思想に立脚するもので、四神とは東西南北を司る霊獣のこと。この聖なる獣がおのおの自然形態を象徴し、これらの災いから都市を守る役目を担っていた。
内訳を言うと、東は青龍、これは河川を象徴し、西は白虎、これは街道を象徴する。北は玄武、山を意味し、南は朱雀、海を意味した。東に大きな川、西に大きな街道、北に山、南に海、こういう条件を備えた都市は、未来永劫生き続けるという考え方だ。では江戸は、これらにそれぞれ何を当てていたかというと、諸説あるが、青龍には大川たる隅田川、白虎には東海道、朱雀は江戸湾を意味するとされた。玄武は麹町台地、あるいは駿河台、または本郷台地などといわれるが、いずれも今は残っていない。中心はどこかというともちろん江戸城、今の皇居となる。
しかし駿河台などの高台からは江戸城が見降ろせたため、軍事上の見地から幕府は、天下普請の際にこの台地を削り取り、埋め立てに使った。これが玄武ならこれはとんでもない行為だから、とすれば天海や家康は、玄武をもっと遠くの山地に見立てていたのであろう。風水の都市論とは、このようにミステリーでいう見立の世界である。
この考え方で重大なものは鬼門だ。これは艮(うしとら)、つまり北東の方角から鬼、すなわち災いが襲ってくるという考え方に習ったもので、するとここに強い守護神を置いて、鬼に対処する必要が生じる。この艮の鬼門警護の大役を担わされたものが、ここ上野寛永寺の東照宮であった。
一方、いやそうでなく、浅草の浅草寺であると言う人もいる。確かに東京23区の区分地図で見ると、上野より浅草の方が、江戸城の正確な東北に近い。しかし完全に厳密を期すならば、この両者ともに東北の線分からはわずかにはずれる。これは何故なのか。そこでこれらは目くらましであり、実際の鬼門封じの装置は別所にある、と主張する人もいる。ここではもうこれ以上は語らないが、なかなか面白い謎ではある。
日本人の歴史は、要するに呪いと、これの回避用の手続きとで満ちている。日本の古代の要人は、脅威のジンクス人間であった。たとえば日本のサラリーマンは今でもあまり固有名詞を呼び合わず、課長、部長などと役職名で会話をしたがるが、これは相手に本名を教えると呪われるからという、平安公家たちの風習の名残といわれる。被差別民を生んだ血の穢(けが)れの原理、死穢(しえ)などは言うまでもないが、これらは主として病気を畏れたからといってよい。ウィルスによる感染、遺伝的な要素、免疫機能、精神障害などという概念を知らなかった日本人は、病気は怨念や呪いによって起こると感じており、この予防のため、現代人がうがいをしたり予防接種をしたりするのと同じ生真面目さで、この種の節制と差別に精を出した。平安公家は、こうして軍隊放棄、死刑廃止、言霊の重視、和歌の奨励などを推進したが、これが現在の政治家の口癖、非武装中立、平和憲法、軍隊でなく自衛隊、などといった一種の言霊依存につながっているといわれる。
鬼門封じも、こういう日本人の素朴な畏れ心の延長線上にあった。これがあるから徳川幕府は、天海僧正のような奇怪な人物を、組織の奥深くに受け入れることにもなった。この手の人物は世界史にしばしば登場するが、天海もまたそういう多くの例に漏れず、謎の人物で、足利家の血筋ともいわれるが確かではない。家康が豊臣勢と対立した時、加藤清正、浅野長政、前田利長、真田正幸らを次々に調伏、つまり呪い殺し、さらには大阪冬の陣の口実にした方広寺の釣り鐘の「国家安康」の文字、これも天海の発案といわれる。
家康が死んだ際、この偉大な幕府の始祖に、「明神」という号を奉るか、それとも「権現」とするかでもめた時、明神は不吉だ、豊臣は豊国大明神を号して滅んだと指摘し、権現とさせたのも彼といわれる。
江戸城の縄張り(設計)をした者は、藤堂高虎という武将だった。この頃上野には、この藤堂の江戸屋敷があった。彼は自分の屋敷が江戸城の鬼門の方角にあたると知って、ここを鬼門封じの場所とするよう天海に働きかけた。そこで天海は、家光の時代になってこの上野の山に寛永寺を建てさせたが、この時高虎は、自屋敷の庭に家康の御霊をまつる祠を建てており、のちに家光がこれを発展させて今日の東照宮とした。境内の立て札にも、そのように説明がされている。
上野東照宮は、本堂自体も朱塗りのなかなか派手なものだった。これは日光の東照宮もそうだが、悪口を言う気になるなら、新興宗教に共通する派手派手しいこけおどし、という様子もなくはない。しかし個人的には日光東照宮のセンスは好みの範疇なので、その芸術性に鑑み、いかに御都合主義的軍国宗教であろうとも、そういう言い方はしたくない。
ところでこの東照宮の総本山の日光東照宮は、鎌倉の鶴岡八幡宮の正しく真北にあたる。鶴岡八幡宮から真北に線分を伸ばしていくと、日光東照宮にぶつかる。はたしてこれは偶然か。これもまた面白い謎だ。
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