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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第57回
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島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
4−16(月)、鎌倉、ミルクホール。
以前、「異邦人の夢」というエッセイ集に書いたことだが、サントリーのウィスキーのもので、いたく心に残ったTVコマーシャルがある。
今に憶えているのだが、非常に顔だちのよい、確か赤い兵隊服姿の人形が写り、オルゴールの音楽が流れる。人形にはネジが付いていて、オルゴールが内蔵されていたのだ。すると男性の声でナレーションが聞こえる。以下のような内容だった。
「もう何年も昔になりますが、海の向こうに長い旅をしたことがあります。その時、このオルゴールを買ってきました。
……こうしていると、窓辺に咲いていたゼラニウムの花であるとか、道を教えてくれた亜麻色の髪の女の子のことなどが思い出され、懐かしさがグラスに広がります」
何故こんなに正確に文句を書けるかというと、今「異邦人の夢」を見ながら書いているからで、では何故「異邦人の夢」に正確に書けたかというと、一時期サントリーの人とおつき合いができ、このコマーシャルの話をしたら、保存してあったCMの映像をコピーして、ぼくにくれたからだ。
これがテレビで流れていたのはぼくが20代の頃だから、今このサイトを見てくれている人の多くは、まだ生まれていなかったり、オギャーオギャーと泣いていた頃だろう。ぼくもむろん作家デビューなどするずっと前で、大げさに言うと、寝ても覚めてもこのコマーシャルの人形が脳裏に浮かぶほどで、今思うとまことに不思議だ。いったいどうしてあれに、あんなにまで心を動かされたのかと考えるが、理由は解らない。思うにまだ外国に一度も出たことがない頃で、異国の風景や事物に勝手に憧れが膨らんで、夢を見る気分になっていたせいであろう。そこにこのコマーシャルとぶつかった−−−、謎解きとしてはいかにも平凡だが、まあそんなあたりと思う。
オルゴールとか、窓辺のゼラニウムなどというと、高原の国スイスを思わせる。アルプスと高原植物のスイスといえば、当時の日本人が最も憧れるメルヘン、ちょいと遠くなった桃源郷であった。このコマーシャルは、むろんそういうわが人情を読んで作られていたわけだが、当時ういういしい感受性を持っていた小生は、ものの見事にこれに反応、乗っかったということだ。当時このコマーシャルを脳裏に思い描くと、実際に自分がスイスに旅し、こんな立派な記念品を買ってきて、眺めながら水割りなど飲んだ日には、切なさで胸が潰れ、病気になるのではあるまいかと本気で不安になった。
それから十数年が経って実際にスイスに旅し、まあこんな人形はなかったし、女の子に道を尋ねもしなかったせいはあるが、東京に戻って酒を飲みながら、モントレーの街並みだの窓辺の花だのを思い出してみても、面白いほどに何も感じなかった。スイスの物価高だの、旅でのちょっとした不愉快などがぼくを救って、うまくバランスは保たれた。レマン湖のほとりの石の街も、自動車の雑踏の中で埃っぽく広がる、ちょっとばかり小奇麗なただの集落であり、サントリーの人にもらってきた問題のCMを意気込んで眺めても、あれ、こんなものだったかなと拍子抜けがするくらいに普通の映像だった。心をかき乱された理由は全面的にこちら側の感性にあり、そしてそれらは、もう永遠に失われていた。
ともかくそんなふうにしてこのCMに心を奪われていた時期、そっくりな人形が置いてあると聞いて、わざわざ見にやってきたのが鎌倉のこの店だった。人形はなかなか大型のもので、トイレの中の棚にすわっていた。顔だちも奇麗で、よいものではあったが、一蔑しただけでCMのものとは顔が違うのが解った。教えてくれた友人は、CMに思い入れがないから似て見えたのだ。
がっかりはしたが、喫茶店の風情はとても気にいって、それから何度も来た。横浜新道から鎌倉まで、抜け道を教えてもらったせいもある。これを忘れないために何度も走った。しかし思えばこの知人も、今は偉くなってN精神病院の院長だ。
この日、久しぶりに鎌倉に来て、少し時間に余裕があったので、路地のあちこちをたどって記憶の中の店を探した。すると、20年ぶりにも関わらず、ミルクホールは昔と全然変わらずに存在していた。店の内外が古びて、たたずまいはますます風情を増していた。
薄暗い店内に一人すわり、ぐるりを見廻すと、これはすっかり記憶のままだ。ここによく来ていた頃、ぼくはまだ一冊の本も出してはいなかった。車はホンダZで、「異邦の騎士」の主人公のように、若宮大路に路上駐車したこれに、駐車違反のステッカーを貼られないかとそわそわ怯えていた。
しかしトイレに入ってみても、その戸口周辺を探してみても、人形の姿はなかった。店員に尋ねても、昔ここに人形があったことなどまるで知らないという。ぼくの内側で、異国への必要以上の憧れがすっかり消えたように、あの人形もまたかき消えていた。はて、どこに行ったのものであろう。
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