島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第52回
写真をクリック!大きな画像で見られます。
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
4−5(木)、連続迫真ノンフィクション「すすきのの熱い夜」前編。
翌朝、新高輪プリンス・ホテルで目覚めると、表はなかなかの上天気である。厚手のカーテンを開ければ、眼下には東京の街が視界よく広がる。ここは昔、田中・ロッキード疑惑で、金銭の授受が行われたとされるホテルではなかったろうか。
一階ロビーで穴井氏と待ち合わせ、タクシーで羽田空港に。空港ロビーのビアホールふうの店で軽くランチをとって、札幌行きの全日空63便に乗る。
羽田の上空は上天気であったが、機が津軽海峡を越える頃、雲が多くなった。着陸してみれば千歳は今にも泣きだしそうな空模様で、空港を出ると空は真白く、風は湿り、空港前の道には車の影もなくて、ほんの1、2時間ばかり前東京にいた者には、妙に寒々として感じられる。
柄刀氏との待ち合わせはJR新札幌駅だが、電車の乗り場に不案内なので、タクシーで行くことにする。湿った風が渡る北の大地を走り、車が繁華街の駅前に着くと、ついに霧雨が落ちはじめた。構内に入り、柄刀氏と落ち合う。考えてみると柄刀氏とはパーティの会場ばかりで、こんなふうに個別に会うのははじめてである。
しかし喫茶店などに落ちつくひまもなく、柄刀氏に案内されて駅構内にある紀伊国屋書店、厚別店に行く。この店から、著書にサインをして欲しいと頼まれているのだ。柄刀氏の地元なので、この書店には柄刀氏の著作のコーナーができている。店長を待っている間、柄刀氏がこれを見せてくれた。四六書の棚の桟に「地元作家、柄刀一」と書かれた紙が貼ってあって、柄刀氏の一次出版の著作が、ずらりと集められて並んでいる。
地元から動かないでいると、こんなよいこともある。柄刀氏はこんなふうにこの店にはお世話になっているので、店の要請に応え、ぼくをここまで連れてきたというところである。
店長が現れて売り場奥の別室に通され、自分の本にサインを行う。急いでかき集めたものとみえ、四六、新書と、本の形態はまちまちだ。柄刀氏も横で自著にサインをしている。終わってお茶を飲み、店長や店員嬢としばらく話す。しかし彼らは勤務中で時間がないので、そこはすぐに辞し、ホテルに向かう。タクシーの中で、日本の本格の将来とか、その発展のあるべき姿、天才論などを話す。
本日の宿、ホテル・ニューオータニ札幌のレストラン喫茶のテーブルに落ち着き、ようやく柄刀氏とゆっくりと話すことができる。ガラスの外には大通りが見えている。今回のアンソロジーの主旨を話して、この時はじめて彼に依頼状を手渡す。この企画の主旨や、何故あなたを選んだか、などを述べた依頼の手紙である。無口な柄刀氏はこれに関しては何も感想を述べなかったが、快く引き受けてくれた。
チェックインして荷物を部屋に置き、すすきのの一角にある郷土料理の店「江差亭」に3人で夕食に行く。この店は和風の作りで、入ってすぐ右に、巨大なセイウチの剥製があった。
突き当たり奥の座敷にあがり、魚料理を注文、まずはビールで祝杯−−−といきたいところなのだが、柄刀氏は飲めない。形だけ乾杯して、またいろいろと話す。これは週刊宝石のインタヴューで彼が述べていたことだが、デビュー前の雌伏の時期、あちこちでバイトした。割と長かったのが金魚屋で、だから今でも金魚をひと掴みすると、手の中に何匹いるかがすぐ解るという。そんな話をしたら、ああそれは知り合いの店なんですよと彼は言った。彼は本格的に就職したことがない。ずっとご両親の家にいて、小説を書いていた。
もうだいぶ以前になるのだが、彼がデビューして間がない頃のこと、アメリカから電話して、彼のお母さんと話したことがある。別にお母さんと話そうと思ったわけではなく、彼が出かけていたからだが、その時、ぼくはこれはてっきり彼の奥さんなのであろうと考えた。そのくらい会話が若かった。しかし彼は独身なのである。
声が若いということもむろんあるのだが、何よりも意識が若かった。日本の高齢の世代に特有の、欝病的な暗さ、それはすなわち表面は一応とり繕っておき、背後ではきちんと自身の利益をはからなくてはならないだの、そのためには道徳も動員しようだの、多少の威張りは秩序維持上必要だのといった、あの手のうんざりする分別の匂いがないのだった。実に態度が上品で、しかも自然であり、違和感というものを感じなかった。
しかしこちらはというと、その時たまたま風邪を引いており、熱があった。いつもの調子をくずし、感心のせいもあって、妙にしどろもどろになった記憶だけがある。だからもう一度あなたのお母さんと話がしたい、そしてあの時の自分のていたらくの汚名を返上したいものと述べた。
彼が世に出るまで、分別臭い文句をいっさい言わず、黙って家に置いてくれた先見性といい、彼のご両親の態度はまことに立派で、自身の努力もだが、ご両親の選択こそをあなたは誉め、感謝する必要があると言ったら、まったく抵抗ということをせず、自分もそう思うと彼は言った。
アメリカでは非常にうまく言っている親子が多く、例えば歯医者の治療が長引き、帰宅が少し遅くなるというようなことでもあると、待合室でいちいち母親に電話しているような青年を見かける。日本でなら、「マザコーン!」のそしりと嘲笑に堪えなくてはならないところだが、しかし彼は明るく、充分に力もありそうで、頼れそうな様子の青年である。とそんな話をしたら、たぶん自分も、遅くなったら母親に電話をしてしまうだろうと言う。そのくらい母親を尊敬しているし、頼りにしている。彼の母親は、死ぬ前に長く寝るようなことになりそうなら、息子に金銭的な迷惑をかけたくないから早目に逝く決心もしている、というふうにも語ったそうだ。
ふうむと唸り、しばし考え込んでしまった。うらやましいと言うほかはないが、ここまで立派な親を持つと、息子はいったいどうしたらいいのであろと考えた。この日記は母親も読むかもしれないから、あんまり本当のことは書けないが、自慢ではないがぼくの母親は、息子の才能というものに絶対に気づくことがなかった。そんなものはないのだという固い信念のもとに生きており、子供の頃、探偵小説やストーリー漫画を書いているのを見つけようものなら、体当りを食らわしてでも奪い去り、破り捨てたものであった。まともな人間は、すべからくサラリーマンにならなくてはいけないという強い信念を持っていたのであろう。親父が浮気をしたといっては高校生のこちらのむこう臑を蹴りとばし、そのまま姿が消えたと思ったら、めでたく足指を骨折して、ギプスを填めてご帰還。以来毎日、おんぶか抱っこで外科に通わされた。これではざまをみろと思うこともできない。
母親の作る味噌汁ときたら、この世のものとも思えぬしろもので、早くこの味噌汁だけは飲まないでよくなりますように、できたら一生おさらばできますようにと、毎日神棚に祈ったものだ。この忍従苦汁があったから、ぼくは小説で、女のしょうもないところを描くのに、今まで苦労というものをした記憶がない。その手の話なら、手がするする勝手に動いて、何百枚でも描いてしまうのである。あっと気づくと大長編、しかしまあ女神のような母親を描けといわれたら、つちのこの似顔絵を描けといわれるようなもので、見当もつかないから描けない。まあそういう小説は、柄刀一氏にまかせるとにしよう。
自分の母親の話をしたら、柄刀氏は別の天体の話でも聞くように絶句し、目を見張っていた。まことに母親の差というものは、人間に距離を作るものである。そういうわれわれの話を聞きながら、一人黙々とビールから日本酒にと移行しながら飲んでいた穴井氏が、ふと顔を見ると、すでに相当できあがっている。食事を終えると、頃合いはよしと見たか、やおら赤い顔をあげ、さあすすきのに行きましょう、と彼は元気よく言ったのだった。
ぼくはこれまでに数限りなく札幌や北海道に飛来しているのだが、高名なすすきのという繁華街で酒を飲んだことがない。もう銀座はいい加減飽きたから、同じ飲むなら札幌のすすきのにしましょう、北の繁華街は、いずれ小説の舞台になるかもしれないし、などと言ったのはほかならぬぼくなのであるが、この時はすすきのという場所があれほどに猥雑な場所とは夢にも思っていなかった。せいぜいが銀座のようなものと思っていたのである。生来生真面目で、女性のいるクラブでなど飲んだことがないという柄刀氏が、この瞬間ちょっと嫌な顔をした。
ぼくはというと、これまたちょっと嫌な予感を抱いていた。余談だが、昔大酒のみのプロレスラーが来日し、バーボン2、3本の喇叭飲みなど軽いという男が、東京の料理屋で日本酒をおちょこ2、3杯飲んだら引っ繰り返った。胃に厚いバーボンの皮膜ができていて、生まれてはじめて飲んだ熱い酒で、これが一瞬にして溶けたためであった。
穴井氏を見ていると、時としてこのプレスラーを思い出す。北方さんなどと飲んでいる時はまことにしゃきんとしているくせに、ぼくと飲む時だけは、ひよどりご越えの義経逆落としのように、もの凄い勢いで酔っ払うである。不安になったのは、この夜も、よっこらしょと立ちあがる穴井氏の足もとが、まだクラブの一軒も行ってはいないのに、早くも大きくよろめくのを見たからであった。これがすすきのの、冒険の夜の始まりであった。
(続く)
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved