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島田荘司のデジカメ日記
第49回
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島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
4−1(日)、花見本番。
いよいよ決戦の日はやってきた。4月1日日曜日、天候もまずまず、桜はタイミングよく満開だ。さぞや井の頭公園はご乱交の体であろうと思い、気合を入れ、デジカメを携えて井の頭公園に出かけたが、拍子抜けした。意外にも静かだったからである。
中の島あたりは、例によってさすがに人また人でごった返している。ここはいわば日曜日の公園のメインストリートで、最も腕のあるパフォーマーが店開きする場所だから、この日も当然のように厚い人垣で、中でダンサーだか手品師だかが何かやっているらしいのだが、まるで見えない。人垣の、少なくとも中頃までは割り込まないと中が覗けない。花見の日曜日ともなれば人垣の厚さが違う。
そこでここはあきらめ、比較的人なみの淡い方角に向かうと、鋸の演奏をしている人がいる。アンプでカラオケを流し、鋸をこすって音をたて、これで音階を作ってポピュラー・ミュージックを奏でる。鋸の音は、チョーキングを多様するエレキ・ギターとか、シンセサイザーのように音が粘り、独特の雰囲気を持つメロディーとなる。うまく行く時はとても奇麗で、だからみんなに人気がある。このパフォーマーの顔は、日曜日にはよく見かける。この演奏は趣味なのだろうか。それともこれで暮らしをたてているのだろうか。
その先、井の頭公園駅方向に向かうと、例によったわが花見の風景が開けている。ブルーのヴィニール・シートを一面に敷き、その上に大勢が車座になって会食している。犬も参加して、本日はたらふく御飯をもらい、満足気に昼寝している。参加者は老若男女まんべんなくといったふうだが、どちらかというと若い人が多い。話し声に笑い声ばかりで、歌声も手拍子も、ラジカセの音もないので、これなら近くに陣取った鋸演奏家もずいぶんと楽であろう。
衣食足って礼節を知るというが、これはやはり豊かな時代というものだろう。昔に較べれば花見も静かに、行儀がよくなった。歩きながらしばし感心する。そもそもこの公園の鳩が、通行人の靴のそばまでよちよち来るようになったのは欧州並みだ。ロンドンのとある広場のカフェの、アウトサイドのテーブルでお茶を飲んでいたら、鼻先のカップの横に雀が舞い降りたので驚いた。このぶんなら東京のカフェも、まもなくあの境地に行けるであろうか。
ぼくが子供の頃などは、鳩を見れば追い廻し、犬を見れば小石を投げるというのが日本のマナーであった。弱肉強食世界の厳しさを教育するのだというのが、ただ面白いからやっているだけの側の論理であった。確かに最近は、苛められなくなった鳩が安心しすぎて猫にやられるそうだから、人間はサボらず、きちんと苛めてあげなくてはいけないのかもしれない。
かつて、暴力教師に拳骨親父にいじめっ子番長など、社会の厳しさを教えてくれる存在は、わが日本の常識であった。時おりこの時代を懐かしむ変な人が出てきて、自分らが子供の頃には、ナイフで斬りつけるとか、マットで簀巻きにして下級生を殺すなんていうようなことはいっさいなかった、などとトンチンカンな説教を言うことがあるが、これはまったくその通りで、弱者をいたぶることが日々のたしなみであったから、どの程度までやれば苛めの痕跡が遺らないかとか、あるいは死なないかといったノウハウを、みながきちんと心得ていたのである。わが封建日本の道徳の本音などというのは、大体がこんなもので、だから議論などいつだって建前論に終始する。本当のことを言ってもしようがないからだ。
犬を飼っても、終日鎖でつないだままで近所の誰も疑問に思わず、黙っていてもご飯が食べられるだけありがたいと思えと、みなが本気で考えていた。こういうわが人情から、せいぜい距離をとっていたつもりのぼくでさえも、アメリカに行ったら、犬はつながないようにしましょう、家の周囲に塀を造り、この中で放し飼いにするようにしましょう、などと言われているのを聞くと、アメリカの犬は贅沢だ、甘やかされている、などとつい思ってしまったくらいだから、日本人の苛め遺伝子の業は深い。
とはいえ、公平を期すために書いておくと、アメリカ人も犬に優しいばかりではない。カリフォルニアでは犬を飼うのはライセンス制になっていて、避妊手術をすると年間10ドル、しない犬はブリーディング(交配させ、生まれた小犬を売る)するものとみなして、100ドルの登録料を取られる。これはすなわち、よく吠えるとか、人間に愛想がない、あるいは外観が悪い、といった犬はみんな断種されることを意味する。つまりは人間に都合のよい遺伝子を持つ犬ばかりが子孫を作っていくことになるので、こういう状況を作りだして疑問を感じないアメリカ人の自信家ぶりに、少々考えさせられるところはある。
セルビア・クロアチア戦争とか、わが国で昔よく言われた「民族浄化」という道徳言語までふと思い出してしまう。最近ハンセン病患者が話題になるが、この病気にかかった人は世間から完全隔離され、子供を絶対に作らせないようにして、ひたすら死ぬのを待たれた。同じ病気の者同士が結婚したいなら、避妊手術を強制された。このようにしてわが混血雑多民族は、万世一系の純潔幻想の中へと逃げ込んだのであった−−−、などといった余計なことまで思い出してしまう。しかし悲しいかな、アメリカの犬は性格のよいものが多いという印象はやはりある。むろん訓練に出す習慣があるせいも大きいのだが。
ともかく花見だが、戦前や戦後のわが花見風景をフランス人が撮影している記録映像を見れば、花見時、繰り出す日本人の気合の入り方が今とはまるで違っている。丹下左膳や鞍馬天狗が現れ、ゴザの中央でチャンバラのパフォーマンスをしている。今では、金をもらった新装開店のチンドン屋さんでもここまではしない。顔を真っ白に壁塗りして陽傘をさし、女物の和服を着たおじさんが、背には人形を背負っている。三味線を抱えた花魁おじさんもいれば、頬かむりにひょっとこお面の集団もいる。音楽も鋸演奏なんてお上品なものではなく、金や太鼓のオーケストラ、日蓮時代の末法もかくやというような、やけくその大騒ぎである。
これを、あの幻想のヴェネツィア仮面舞踏会あたりと較べてはちょっと気が引けるが、LAのハロゥウィンの夜くらいにはわれわれも、かつては仮装志向、パフォーマンス志向があったらしい。しかしまあ、後に続く酔っ払いの暴力志向も今の比ではなくて、花見のたび、たいていどこかで大喧嘩があって、死にそこなう者が出た。
酔っぱらった警察官に下駄で顔をぶん殴られ、街の物知りに訴え出たら、そりゃしようがないのだと逆に怒られ、それなら自分も警察官になって人を殴ってやると思って試験を受けたという話も、ある著名刑事の昔話であった。これがまごうことなきわが日本の現実で、そんな時代と較べたら、日本人もずいぶんおとなしくなった。花見にそれが現れている。
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