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島田荘司のデジカメ日記
第46回
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3−25(日)、夜の関帝廟。
夜、また車で横浜に行く。最近横浜のことをよく考えるので、無性に歩きたくなるのだ。市場通りのあん饅はおいしい。買ってかじりながら歩いていたら日が暮れる。
関内の中華街がいつ頃形勢されたかについて、研究者たちにももうよくは解らないようだ。中国人がいつ頃横浜に上陸し、街を作るほどに多数関内に住むようになったかについても、多くは西欧人に伴って日本に上陸したのであろうと考えられているばかりで、開港時の混乱の中、はっきりした記録はなく、あっても失われているようだ。当時の日本人の関心は、紅毛人にばかりあったのだ。
1840年に阿片戦争が起き、50年頃にはサンフランシスコに中国人街ができている。日本はというと、54年にペリーとの日米和親条約、そして60年には北京条約により、中国人の海外渡航は合法化される。
開港直後から、わが関内には働く華僑の姿があったようだ。61年には生麦事件がおこり、72年にはマリア・ルス号事件が起こる。マリア・ルス号事件というのは、中国人の奴隷を本国に送る途中、船が故障して修理のために横浜に入港したペルー船から、中国人奴隷が一人逃亡したという事件である。イギリス領事館の勧めでこの事件を日本の司法が担当し、この奴隷のみならず、すべての中国人を解放して本国に送り返した。むろんペルー側は猛然と抗議し、最終判断はロシア王朝に委ねられた。しかし日本の判断は正当と評価され、この冒険と英断は、テロ国家日本のイメージ刷新と、国際社会進出の大きな足がかりとなった。
この時には日本の中国人社会が、日本国政府に対して謝意を表明しているので、関内に中華街が存在したことが解っている。しかし開港から生麦事件にかけての時期、現在の場所に中華街が存在したはずはない。何故ならここは湿地帯で、人が住める場所ではなかったからだ。外国人の入植にともない、徐々に埋め立てが行なわれ、61年頃にそれが終わったと記録にはある。しかし生麦事件によって日本駐屯を開始する英軍仏軍が、このあたりで最初の競馬大会を開いたという記事を読んだ覚えがあるので、中国人たちの住宅が建ち並ぶようになるのはまだ先であり、おそらくは60年代のなかばあたりからではないかと想像される。
ネオンや朱塗りがまばゆい夜の中華街を行くと、なかなかの異国情緒である。以前日本にいた頃、アメリカ産のハードボイルドとか、ハリウッド産の映画「チャイナタウン」を観て、日本の中華街も食べさせるばかりでなく、賭博場などあれば冒険小説や、映画の舞台にもなりやすいであろうにと想像したことがある。しかしロスアンジェルスに暮らすようになり、あそこのチャイナ・タウンも、規模や情緒の点で決してここを凌ぐものではないと知った。あそこはここより多少街は広いかもしれないが、ここよりも古び、建物の多くは朱の色が陽に褪せている。一級の演出や映像によって、街が劇的に見えただけなのだ。
今、この街にこそは劇的なものがある。翠香苑の前をすぎ、市場通りを抜けていくと関帝廟通りというものにぶつかるから、これを右に折れる。そしてしばらく行くと、右手に色鮮やかなものが現れる。これが関帝廟だ。
夜はライト・アップされる。昼間なら自由に中に入れる。はじめて来た者なら、これはかなり驚くに違いない。金と朱色の洪水、ぴんと張った屋根の稜線、軒下の装飾の、過剰なまでの輝き、急な石段と、その中央に衝立のように填まった白い石の彫刻。すべては日本の寺院では見ることのできない強烈な意匠だ。
この廟の由来を述べた一文に、先の疑問へのヒントがある。横浜関帝廟は、明治6年、1873年に、この地の華僑の心のよりどころとして建立された。すると、マリア・ルス号事件の翌年だ。やはりこの頃が、関内中華街の発祥の時期ということでいいのであろう。
1877年、日本全国でコレラが大流行する。多数の死者を出したので、神奈川県は衛生委員会を組織して、各地の居住状況と、消毒活動に乗りだした。その時の記録によれば、横浜在住の中国人1142名中、およそ半数が中華街に居住していたとある。彼らの居住地区の衛生状況は不良と考えられたが、清国領事館の拒否にあって、衛生委員会は中華街には立ち入れなかった。しかしこここそは調査の要があると述べられているようなので、当時の華僑は相当に過密な住宅環境下に暮らしていたと想像される。1900年代に入って関東大震災が起こり、中華街がこの時悲惨な被害を出すことからみても、彼らの住環境はやはり劣悪だったのであろう。
由来の説明からも、華僑の厳しい歴史の気配は伝わる。1873年に建立された関帝廟であるが、1923年の関東大震災で倒壊し、その後しばらくは再建されなかった。しかしやがて第2代の関帝廟が作られる。関東大震災時、関内の華僑も根拠のない流言飛語によって、多く日本人に惨殺された。再建はこういった史実とも関係があるのだろう。
しかしその第2代も、45年の米空襲で焼失、戦後になって第3代が建てられるが、これは86年、昭和61年に不審火で焼失したとある。まさしく災害に継ぐ災害、華僑の苦難を象徴する。そして開港当時のわが幕府の記録書面の保存困難も、こういう歴史は言外に語る。
現在の関帝廟は第4代にあたり、1990年、平成2年に建てられた。なるほどこれなら新しいはずだ。祭られている神は、三国志で有名な武将関羽で、関羽の死後、歴代の朝廷が彼の精忠守義に感動して、関聖帝君の称を授け、国の守り神として祭ることを決めたものという。武将が神となったところは家康の東照宮と似ているが、あれは京の朝廷が祭ったものではない。
この廟は、夜来るのがいい。はじめてここに来たのは、身を切るほどに寒いみぞれの夜で、ちらちらと舞う白いものの向こうに鮮やかな朱や金が現れた時は、大いに心を動かされた。日本流の落飾の美、すなわちわびさびもいいものだが、こんなふうに、極彩色の美もまたいい。一方のみをよしと決めつけたくはない。
日本人は面白い。フローの文明とストックの文明、一時期よくそう言われたが、酒も食べ物も、街も建物も、ひたすらに新しいものを崇拝する日本人が、寺院だけは何故か新しいものは軽視する。
車に戻り、みなとみらいの方角を廻って東京に帰る。夜の観覧車がなかなか奇麗だ。この美しさはフロー型、関帝廟のタイプに属している。
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