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島田荘司のデジカメ日記
第45回
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3−24(土)、汽車道の夕景。
ふいと思いたち、ドライヴがてら横浜にいく。水面に写るみなとみらいの夕景を眺めながら、汽車道を歩いて水を渡った。
このあたり、最近「運河パーク」と命名されたらしいが、すべてが歴史の遺物である。汽車道というのは、かつて赤煉瓦の倉庫と国鉄とを結んでいたもので、生糸検査所引込線と呼ばれていた。今はお役目を終え、こうして遊歩道になった。板が敷かれていて、歩くとかすかな靴音が感じられ、柔らかい気分になる。
この橋は、といっても橋の部分はごく短いのだが、いってみれば関内から関外への架け橋である。さて、では関内とはどこのことなのか、もう横浜人にさえ忘れられつつある。関内というのは、異国人を管理しやすくするため、また攘夷の過激分子から異国人を守るため、居留地を長崎出島のような島とした、その島のことである。だから現在の山下公園とかマリンタワー、中華街など、横浜を代表する部分はすべて関内となる。SSKリンクのWS刊「貴賓室」に、関内の地図が置いてあるので参照していただきたいのだが、この地図の緑の薄い部分が関内のエリアである。
関内とは、大岡川と海、そして堀切りの運河で四方を囲まれた島で、したがってここに入るには必ず橋を渡らなくてはならず、この橋詰に関所を置けば、通行人のチェックができるというお上の発想から造られた。最も有名な番所は、今の関内駅のあたりにあって、ここは東海道神奈川の宿から関内にやってくる道だったので、橋のたもとに大きな番所が置かれた。そのためもあってか、今は特にこのあたりに関内という地名が残った。
この橋は、開国後日本最初の鉄骨橋になったので、付近の庶民に「鉄(かね)の橋」と呼ばれた。この橋のかかる川も大岡川、今汽車道がかかる川も大岡川である。これは面白い問題なので、大岡川とはどの川かという問題に少しこだわって話してみる。
この問題は、やや研究者泣かせというところがある。昔はこの汽車道あたりは川ではなく、大きな入江で、今でいうとずっと伊勢佐木町のあたりまで帆かけ舟が入っていた。では鉄の橋のかかる関内駅の大岡川は、その頃にはすでに川としてあったかというと、時代がくだればできている。汽車道が入江であった頃、この大岡川はもうできるが、その以前はというと、ここも入江である。海であって川ではない。
つまり今の関内地区というものが、そもそもは海に突き出した長い砂嘴(さす)で、砂の半島であった。今のマリンタワーのあたりで陸とくっついてはいたが、周囲はすっかり海だったのである。それが南側の入江がまず埋め立てられて川になり、次に現在の汽車道の入江も、慶応明治にかけて埋め立てられてこれも川となった。名前がないから、両方とも上流の名前を引っぱってきて大岡川とした。そして最後に砂嘴の付け根をちょんぎる形で堀切りの運河を通し、関内を島とした、そういう経緯、順序である。
こういった歴史経緯が、現在ではもうはっきりしなくなった。というのもこのあたりは東海道五十三次の街道筋からはずっとはずれた貧しい漁村であって、世の注目が低かった。だから当時の絵地図もあまり多くは遺っていず、残っていたものも関東大震災でかなり失われた。したがって歴史がたどりづらくなっている。
外国人の居留地ができることで注目度があがり、関内は発展するが、その頃外国人の作った地図では、関内駅のところの大岡川は「運河」と書かれている。現在TVKテレビ局がある堀切りの川は当然運河である。これは幕末開港当時に切り通したから、資料も多く、非常にはっきりしている。すなわち関内とは、詰まるところ三方すべてを運河で囲まれた地区ということになる。
WS刊、貴賓室に置いた関内地図では、こういう関内地区を薄い色で表示したが、やや困ったのは埋立で広がった地区である。関内地区はまずは大桟橋、次いでその左右の埠頭が大きく海に向かってせり出したから、現在ではずいぶん様子が変わって広くなった。今の関内は、もはや島という印象ではない。これも関内という場所が次第に不明となっていく理由のひとつだが、地図ではこの埋め立て地区もすべて関内として表示した。
WS刊、貴賓室に置いた関内地図では、こういう関内地区を薄い色で表示したが、やや困ったのは埋立で広がった地区である。関内地区はまずは大桟橋、次いでその左右の埠頭が大きく海に向かってせり出したから、現在ではずいぶん様子が変わって広くなった。今の関内は、もはや島という印象ではない。これも関内という場所が次第に不明となっていく理由のひとつだが、地図ではこの埋め立て地区もすべて関内として表示した。
汽車道の由来説明が、案内板として建っていた。それによると今汽車道に置かれている橋梁鉄骨部は、かつてこの水路に架けられていた三つの橋梁の鉄骨のうちのひとつを、少し縮めたものであるらしい。
現在の汽車道は、ほとんどが水にせり出した人工の陸地であり、橋はそのわずかな切れ目をつなぐものにすぎないのだが、かつては大半が鉄橋であった。この鉄橋はかなり長く、全体で大岡川橋梁と呼ばれていたらしいが、三つかかっていた鉄骨橋は、明治39年に造られた北海道夕張川橋梁と、明治40年に造られた総武鉄道の江戸川橋梁を持ってきて並べ、架けられた。3連100フィート・ポニー形ワーレン・トラス橋と呼ばれ、専門家の間では知られていたらしい。イギリス系のトラス橋としては、なかなか貴重な資料という。今汽車道に置かれているものは、そのうちの旧夕張川橋梁の鉄骨を、少し縮めたものという。
渡りきり、右折すると、帆船日本丸が照明を浴びて美しい。左手にはクイーンズ・スクエアというモールの建物が現れるが、この手前の、日本最初の石造り民間乾ドックであるナンバー2ドックは、そのまま保存され、公園になっている。
日本のドックの歴史もなかなか面白く、開港直後、横浜港に何度も浮きドックが計画立案されたが、みんな流れたようだ。日本で最初に造られた本格的な乾ドックは、明治4年に完成した軍の横須賀ドック。民間第1号である横浜のものは、それからずっと時代がくだった明治30年に第2ドック、32年になって第1ドックが完成している。
ドック右手の奥には、アメリカではよく見かけるハードロック・カフェのギターを形どったネオン看板がある。
その脇に、ガラス張りのカェがある。映画アメリカン・グラフィテイに出てきたメルズ・ドライヴインふうの、50年代のアメリカを感じさせる意匠に造られている。しかし何よりこのひっそりとしたガラス張りの雰囲気が、エドワード・ホッパーの名画、「夜更かし」を連想させて気にいっている。
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