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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第37回
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島田荘司のデジカメ日記
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1−9(火)、藤谷英彦氏と焼きフグの夜。
六本木の「焼きフグ一代、なかむら」というフグ料理の店で、藤谷英彦氏と食事をした。彼のお勧めの店である。一緒に食べたのは講談社勢で、新本格の本拠地ともいうべき文芸第三編集部の宇山日出臣部長、ぼくの担当編集者である秋元直樹編集者、それにぼくの4人であった。
藤谷英彦氏については「龍臥亭の夕べ」で書いたが、本名は藤谷英志、現在はF誌ではなく週刊現代の副編集長である。この夜はじめて知ったことだが、彼はことのほかふぐが好物で、週に一度は食べるという。長期休暇中でも禁断症状が出て、ここまで食べにきてしまうらしい。なかむらはこの種のものとしてはちょっと珍しく、多くのふぐ料理屋は刺身で出すのに、ここはブツ切りにして焼いたフグを食べさせる。この日、雨が降る夜で、傘をたたみながら藤谷氏が入っていくと、店主が最敬礼で彼を出迎えた。ずいぶんと馴染みのようだ。
個室に通され、焼きフグとひれ酒に舌鼓を打つ。焼いたフグは、独特の腰があって大変にうまかった。思い出話になる。あれは水晶のピラミッドが世に出た直後だ。講談社の文三から電話がかかってきて、フライデーの藤谷という者が島田さんに会いたがっていると言う。そこで例によって、吉祥寺駅前のルノアールで彼と会った。
その頃の藤谷氏はまだ有能新人で、控え目だが敏捷そうな雰囲気を周囲に発散していた。要するに「眩暈」の中の彼、そのままである。頭を下げ、ぼくの熱心なファンだと言い、「占星術殺人事件」からずっと欠かさず読んでいますと言った。お会いしたかった理由は、自分はもう今年で8年間フライデーにいるので、もうすぐ他の雑誌に移ることは確実である、そこで、フライデー時代の区切りとなるような重い仕事を最後にやりたい。ついては、ずっと読んできて好きだった島田さんと一緒にやれたらよい記念になる、そういった主旨だった。
もう正確には憶えていないが、あの頃のフライデーは、「幸福の科学」の問題で揺れに揺れており、俗悪週刊誌廃刊などと叫ばれて、なかなか大変な時期だった。だから編集部は、汚名挽回に気合を入れていたのだと思う。そして時代は環境問題で喧しかった頃で、しばらくして彼が、日本列島の問題個所を逐一歩くという企画はどうでしょう、と言ってきた。最初のタイトル案は、「島田荘司、破壊列島を歩く」というものであった。しかしこの種のものは、忙しい作家は実際には現地に行かず、見てきたふりをして文章を書くというものが多いので、この連載では島田さんが直接見た証拠として、写真撮影も担当して欲しい、そういう話だった。
こういう発想は、彼の非凡さを物語っていた。そしてそれこそは、ぼくにとって願ってもないことだった。当時ぼくは、行きたい場所、写したいもの、会ってみたい人を山ほど持っていた。そのうちのいくつかは環境汚染のテーマとは離れがちだったから、なんとか理屈をつけ、テーマにねじ込んだりもした。
だから青写真を描くのは何の造作もなかった。写真も担当して欲しいという要求こそは願ってもないもので、藤谷氏としては使い捨てカメラでの素人撮影あたりを考えていたのだろうが、魚眼レンズに各種フィルターまで揃え、大いに燃えてしまった。これほどに嬉しい企画に出会えることは、生涯に何度もはないであろうと思った。
手伝ってもらう記者を編集部内で募ったら、フライデー屈指の猛者連が集まってきた。彼らは芸能人の張り込みにあきあきし、自身の社会意識を表明したい硬派でもあった。だからそれぞれ、取り組みたい告発のテーマを持っていた。これらを提出してもらい、自分のと混ぜて全体の青写真を引いた。写真雑誌のことで、数回に一度、読者にショックを与えるように計算して写真の配置を考えた。では何が最も衝撃性があるかといえば、人体がなんらかの変化を見せている写真だと結論づけて、その種の写真を撮影、あるいは入手して定期的に見せるように連載計画をたてた。もっともこれは、なかなか予定通りには進まなかったが。これは当時考えていた、ミステリーの手法を応用したものだった。
こうして、日本列島を毎週北に南にと飛び廻る生活が始まった。着いたら空港前でレンタカーを借り、どこまででも突っ走った。カメラに運転に文章に、企画構成にフットワークにと、まったく趣味人のぼくにあつらえたような企画で、毎日が楽しかった。しかし記者たちも強者で、大酒のみや職人型のひと癖あるプロ人間もいて、けっこうぶつかった。が、これらはもう自動車業界等でさんざん経験してきていたことだ。それ故に彼らは腕もあり、だからデータはよく集まり、取材の旅はたいてい成果があがって、空振りの類はほとんどなかった。
今思えば、企画を自由に立てさせてくれ、実績もないのに写真撮影も担当させてくれ、さらには腕のある記者たちをたっぷりつけてくれて取材費は潤沢、こんなありがたい仕事にはもう二度と巡り会えないであろう。毎週渋谷や新宿に出る感覚で、羽田から札幌や福岡に飛んだ。大阪の八尾空港からはセスナで空に舞いあがりもした。連載タイトルは「世紀末ニッポン紀行」としたが、これは当時の編集長が付けてくれた。彼もまた、職人的な良い腕を持っていた。
連載は、ほぼこちらの計算通りに評判となり、半年の予定が一年に延びた。こんなに計算通りにいった成功も、ほかではまず記憶がない。野積み野菜の潜入取材に藤谷氏と行った帰り、満員の列車の通路にフライデーを読んでいる客がいて、それは奇形児の衝撃写真の載った「世紀末ニッポン紀行」連載第一回目の号だった。奇形児写真のページに彼の目が届くのを、すぐ横でうきうきしながら待った。彼がいよいよ写真を見てショックでのけぞると、笑いやガッツポーズをそばでこらえるのに苦労した。週刊誌屋の醍醐味とはこういうものと、その時知った。小説書きにはない喜びだった。
しかし連載は、非常に危険な仕事でもあった。暴力団と立ち廻りになりかかった時もあるし、放射能が漂う場所を半日うろつきもした。奇形児の写真掲載などは特に、全誌回収の危険と隣合わせだったし、動物実験の告発では名門大学とぶつかりもした。夜更け、明け方、世間に隠されている産廃投棄の現場、あるいは農薬散布の現場に、スパイ映画もどきに侵入したりもした。山を登り、撮影後は走って逃亡、徹夜もたびたびで、若くなくてはできない仕事だった。
しかしこの仕事は、実に多くのものをぼくもたらした。列島のあちこちへ行き、多くのドラマへの因子を得た。「龍臥亭事件」の構想を得たのもこの連載の取材中で、新見付近の国道を走っていた時、運転しながらトリックの話をしていたらひらめいた。秋好氏を知ったのもこの企画の死刑問題の故だったし、渡米のアイデアを得たのもこの活動中だ。連載のために集めた多くのデータを活用して、長編「眩暈」もできた。毎年一作大作を書いていた頃だったから、かなりの部分は取材と並行して、旅先のホテルで書いた。この充実した仕事を与えてくれた藤谷氏への感謝の思いから、この作品には藤谷英彦記者を登場させた。そうしたら彼は御手洗ファンの女性たちの間で人気が出て、藤谷英彦同人誌が出るほどになった。先日の「龍臥亭の夕べ」での騒ぎも、こういうものの余波である。御手洗ファンの女性に彼をひき会わせると、たいてい歓声があがる。南雲氏が言ったことだが、実際の彼は、作中に現れている藤谷英彦の印象とまったく違和感がない。
有能な藤谷氏が、編集長としてまたフライデー戻ることは社内の多くが認めるところだが、もしそうなったら今度は「世紀末世界紀行」を二人でやろうと話していた。だが実現しないまま、とうとう新世紀が明けてしまった。こうなったら「新世紀世界紀行」である。
藤谷氏も、この連載は印象が強いようだ。8年のフライデー生活の記念になる仕事を一緒にやりたい、そう言って彼がぼくを訪ねてきてくれてから、そして連載を終えてぼくが渡米してから、さらにまた8年という時間が流れた。そろそろ彼と、また新しい仕事をする時期かと思える。
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