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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第292回
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10−31(火)、ハロゥウイン
この日はハロゥウインだ。ハロゥウインというのは万聖節(ハロゥマス・オール・セインツ・ディ)の前夜のことで、こちらではクリスマスと並んで、年間の2大イヴェントとなっている。11月1日を聖人(ハーロゥ)の日と定めたから、その前日、10月31日がハロゥウインとなる。
太陽の光が次第に弱まってくると、死者の霊魂(スピリッツ)が、黄泉の国からふらふら現世に舞い戻ってくる──、とそういった考え方に拠っている。日本で言う「お盆」と同じ発想で、キリスト教がこれを取り込み、公的な行事とした過去がどうやらあるらしい。
これらの霊魂には、未だ現世に未練を残す者とか、魔女も混じっている。太陽の光の弱まる季節は秋で、これは収穫の季節でもあるから、なかなかに具合のよくないことだ。戻ってきた悪霊の性格が悪ければ、せっかくの収穫物を腐らせたり、農民から病人を発生させたりといった悪さをする。そこでこういう悪霊にとり憑かれないため、家々はこの季節、かぼちゃをくり抜いた魔よけのランタンを玄関の軒先に掲げた。もともとは、充分に真剣なイヴェントであったらしい。
しかし時代が下り、大衆は、悪霊に悪戯をされないための、積極的な戦略をとるようになった。自分らも死者に化け、お仲間だと思わせるトリックを、悪霊に向かって仕掛けることにしたのだ。これが血まみれのグロテスクな死体に化ける理由で、悲惨なほどに悪霊は親しみを感じ、喜ぶという理解である。この祭の起原は、どうやら2千年昔のケルトの宗教行事にまで遡るらしい。霊魂が街に戻ってきても、死人がぞろぞろと通りを歩いていれば、悪霊は喜び、楽しんだ上に、何もせず帰ってくれるだろうという、実にアメリカ人らしいもてなしの発想である。
こうしたパーティがアメリカ人は大好きなので、欧州で興ったハロゥウインだが、今はむしろアメリカのものの方が有名になった。ついでに言うと、だから欧米人は、日本の幽霊が夏の宵に出るということが理解できない。どうしてそんな暑い時に出るの? 秋にすればいいのに、となる。
日本にも、秋は秋でお盆のお祭があるのだが、これがまたいかにも日本的というか、儒教的というか、ひたすらに礼節を尽くし、礼儀行儀をよくして、ご先祖さまのご機嫌を損ねないように平身低頭する。日本人の感覚では、自分も幽霊の格好をし、額に三角布など貼りつけて、ハイと言ってご先祖さまに肩など組んだら、「ぶ、無礼者!」と激昂され、骨の髄まで呪われて、発狂死などするのであろうか。このように、米西海岸でハロゥウインなど考えるのも、なかなかの日本人論となりそうである。
ハロゥウインというもの、述べた通り、その発想にもともとア・センス・オブ・ヒューモアが内包されているから、これを読んだアメリカの子供らが、悪霊の扮装を利用して、お菓子をせしめようと画策した。扮装のままで近所の家のドアを叩き、出てきた人に、「悪戯されたい? もしも嫌ならお菓子をちょうだい」とやった。
首尾よくお菓子をせしめたこの名案は、たちまちアメリカのちびっ子連の間に広まり、彼らはハロゥウインのたび、これをやって近所を廻るようになった。この時のセリフももうすっかり人口に膾炙して、日本人もよく知っている。「トリック・オア・トリート!」と言う。「もてなしてくれないと、悪戯しちゃうよ!」というもの。
しかしこの習慣は、そんなに昔からのことではなく、どうやらほんの40数年ほど前から始まったらしい。ということは犯人はまだ存命で、現在50数歳代のアメリカ人の内に、こういう切れ者がいるということだ。
あるアメリカ人によれば、この夜、ちびっ子は山のようにお菓子をもらうが、ママが食べてもいいと許可するのは、この日だけだったらしい。だからこの夜だけは、ご飯も食べずにもらったお菓子をむさぼり食べる。しかし翌日になったらすっかり消えている。ママが施設に全部寄付してしまったのだ。
アメリカでは、この宵のため、ハロゥウイン専用のお菓子が生産されている。甘いものがそんなに好きではないから、詳しくはないのだが、どれもあまりおいしいものではないようだ。上下の歯が並んだ口を型どったお菓子があって、これはゼリーなのだが、センスが少々気味が悪いし、口に放り込んでもさしておいしいとは感じない。子供もまた同様らしく、そこはおとなの戦略で、少々味が落としてあるらしい。今宵はあちこちがだまし合いなのだ。

ハロゥウインの宵、LA中津々浦々までが大騒ぎかというと、そんなことはない。たいていの住宅街は、いつもとほとんど変わらず、ひっそりしている。クリスマスに似た照明が、庭先や、玄関先を飾っている家がたまにあるくらいで、こういう家はお菓子を用意しているから、ちび連は押しかけてよい。
大騒ぎになる場所は決まっていて、サンタモニカ・ブールヴァード上、ラ・シェネガ・ブールヴァードと、ロバートソン・ブールヴァードの間あたりである。サンタモニカ・ブールヴァードは中央に大きなグリーンベルトを持つから、この上に簡易トイレが並び、食べ物やドリンクの売店がずらりと並んで、車を遮断した道にはバンド用の特設ステージができ、FMの中継車も繰り出して、歩行者天国の巨大版となる。車でここに向かえば、キスFMが、ここで何が今起こってているかを刻々と伝える。普段は割合閑散としたこのあたりが、自慢のメイクや扮装で繰り出した人々を中心に、人人人で埋まる。
LAにやってきた頃は、ものめずらしくて何度か行ったが、今はあきてしまってもう行かなくなった。しかしこの夜はちょっと思い立ち、けれどあんまり混んでいるのは嫌だから、少し遅めに行って、歩いてみた。
ハロゥウインは、時代とともに徐々に変遷してきている。ペストなど、流行り病の原因が解らない時代、軒に魔よけのランタンを掲げた民の心は真剣だったろうが、そういう時代が去り、血まみれの死者の扮装を、みなが楽しんでするようになれば、子供が近所の家々を、お菓子をねだって廻るようにもなる。今はこれがもっと進んで、外観や体が自慢の娘たちが、着飾って見せたり、過激な露出を楽しむ場にもなった。ハリウッド予備軍の、デモンストレーションの場のような性格も帯びてきている。
ヴィクトリアズ・シークレットという下着メイカーがこちらでは有名で、そのパンフレットをよく見かけるが、そこから抜けてきたようなほとんど裸の美女たちが、ふらふらとさまよう死人に混じってサンタモニカ・ブールヴァードを闊歩している。これはもう原点の思想は消滅して、ただの自己顕示大会となっている。見せる相手は悪霊ではなく人間のオトコで、死人がこんな娘を見かけても、別段悪戯を抑える気分になるとも思われない。親しみはおろか、煩悩に火がついて、よけいに悪さをしそうだ。
ハリウッド予備軍と言ったのは、メイクや扮装だけでなく、演技も一線級で、イラクで昇天した米軍人にしか見えないうつろな表情を作って道を行く男、魂が抜け、体が腐りつつあるような死体が、実に上手な演技とともにふらふらと道を行く。誰が評価の声をかけるわけでもないのに、マイペースで演技を続けているその様子は、大したものだと感動する。女の子たちも、カメラを向ければちゃんとポーズをとってくれる。照れるふうは全然なく、言ってみれば、カメラが自分に向けられることが評価なのであろう。しかしみな、ごくあっさりとしてべたべた感がない。この様子は実にアメリカ的だ。

こういう時に思うことだが、こうしたスター気取り、露出趣味、夜っぴての大騒ぎ発想に、子供たちの菓子ねだりなど、わが道徳国民にとっては、鳥肌ものの不道徳であったろうと思う。日本でこんなことをしたら、21世紀の今でさえ老人の一部は激怒し、婦人の一部は眉をひそめて不快感をあらわにしたり、はっきり立腹するかもしれない。そーんなことないよー、と大いに反論するだろうオトコの一部は、ひたすらのナンパと痴漢行為に走り、交番のお世話になるかもしれない。いずれにしてもわが民、なかなか自然でなく、こうした振る舞いに未だ馴れていない。
アメリカ人の日常生活における、少なくとも表面上の人懐こさ、誠実さや、陽気な人柄のよさは、こうした常日頃のスター気取りや自己顕示、パーティ志向、大騒ぎ志向の、心的裏面であるように感じられる。そもそもヒトも動物であるから、メスは、より優れたオスの遺伝情報を子宮に取り入れ、自らの子供の人格を作って、厳しい競争に勝ちたいと発想している。これはメスの本能というもので、そのために、もしも体や自分の外観に自信があれば、これをオスに見せて気を引きたいと発想するのは自然だ。オスもまた見たいと感じる。これは自然の摂理である。
こういう発想を不道徳として押さえ込むのは一定量正当である。が、ひとカケラたりとも許してはならじと、封じ込めを完璧にすれば、無理が発生して人格はゆがむ。北朝鮮に見るように、外郭部からさまざまな価値観を拾ってきてつなぎ、自己道徳化のストーリーを組むようになるし、2人とすることが許されない後のない性行為なら、失敗もまた許されなくなって、強烈な道徳観と緊張がレンアイを売春に近づける。オトコの方は盗撮がブームになったりもする。去勢でもしない限り、性欲までは留められない。そんなことができると思う道徳はニセものであり、幻想である。
スター気取りへの不快が、道徳と膾炙されて暴走すれば、理由は問わず、目立つこと自体がイクオール不道徳となる。以降はこの平等主義の道徳が大いに活用され、見せしめの嫌がらせはあっさり道徳と化す。こうしたことは、坂の上に置いた岩のようなもので、「留め」をはずして転がりだしを容認すれば、大岩の驀進を誰も留められなくなる。嫌がらせや脅迫を道徳と言いくるめながらの、事態の好ましい方向への誘導は、あちこちの局面で起こってきて、誰もこれを制御できなくなる。
平等主義的価値観を楯にしての、目立った人間への心おきない嫉妬雑言の快感。儒教価値観を使用しての若者の押さえ込みの喜び。男女同権価値観を使用してのオトコ嘲笑の愉悦。これらはすべて道徳と化し、誰も文句が言えなくなる。オトコが若ければ、儒教で補強して、嘲笑はさらに安全方向にと正当化され、彼女が母親なら、わが息子を眼前の若者に負けさせてはならじの母性愛が、虐め嘲笑をさらに美化する。
教師の正しい脅迫によって生徒に勉強は強制され、教室内の虐めっ子は、この教師の方法を拝借活用することで虐めの道徳化は達成される。ゆととり教育がこれにからめば、未履修教科が続々と現れて、生徒思いの教師の、正しい不正は進行する。これらが早々と道徳になってしまっては、軌道修正の価値観は、もう日本にはない。
虐め嘲笑の道徳化傾向は、子育ての母親にこそ顕著で、教師の大半は彼女らによって、場末の飲み屋に迷い込んだしょぼくれサラリーマンのように嘲笑され、軽蔑される。校門に仁王立ちして待つ母親に、子供をもっときちんと勉強させよと罵倒され、恐怖で声が出ず、体の震えで授業が不能となったベテラン女性教師が、ついに学校を去っていく。これに少子化と、学校の自由選択制度が追い討ちをかけて、東京周辺では生徒が1人も入学してこない不人気校が続出、統合廃校が相次いでいる。母親たちのこうした暴力団型の仕打ちは、教師へ不手際への強烈な道徳叱咤であり、完璧に正しい。
学校の消滅で不審者が出没し、街の治安は悪化し、廃校に追い込んだ母親たちは、教師にいよいよ道徳の罵声を浴びせる。これもまた、1度しか許されなかった女のレンアイ道徳の反映で、成功のイメージはわが子の高学歴、たったひとつしか用意されず、後がないのである。わが正しい道徳は、常に脅迫によって絶命の危機をセコく言いたて、高齢層を自殺させながら、ついにこのような殺伐を、祖国に現出せしめたのであった。あんまりにも正しいから、背筋は凍りつき、なかなか楽しくない。
日本人の誤解に、アメリカの教育はみんなスポーツを奨励し、ゆとり教育をしていると思っているふしがある。が、これはとんでもなくて、学力全米最低のカリフォルニアでさえ、1部の受験校の生徒は、睡眠時間5時間である。日本よりもずっと厳しい。
そもそも日本人は、アメリカ人と自分を、猫と魚くらい、全然別の生き物と思っているふしがある。こちらで暮らしてみれば解るが、そんなことはまったくなく、いい加減で自己本位で、下品な発想根強い、完全に同じ人間である。生じた違いにはきちんとした理由があり、アメリカ社会の方がよいといった局面がもしもあるならば、それはアメリカ人が意図的な努力と、適切な判断とによって、制度的に作り出したものである。ハロゥウインとはいえ、お尻を出した娘が街を歩けば、かつては大半の親が怒った。今でもそういう道徳家の親はいる。しかし、裸で歩く娘への道徳行使に慎重なだけだ。今ではそういう娘らに混じり、「われわれはワイルドで危険な男たちだぜ」と書いた紙を背中に貼って道を行く、老いた父親たちの集団もいる。
日本社会に駄目なところがあるならば、それは日本人自身が、正しさ判断の盲目によって、この上なく正しく作り出したものだ。きちんと探すならば、その理由は明確に指摘できるはずで、これは断言してもよい。
アメリカ社会、理想などとはほど遠い。なるほどハロゥウインは楽しそうだが、以前からこの祭の夜には、たいていどこかで殺人事件が起こる。ただしこれは、そう指摘すればリオのカーニヴァルも、リスボンのフェスタも同様だと反論は戻りそうだ。
ハロゥウインの喧騒を歩いて感じることは、日本人らしい男女が多いということだ。ここ数年で、非常に増えた。禁止罰則、抑制抑制の母国の反動かも知れない。彼らの多くは楽しんでいるが、やはり一部は、笑顔に戦闘の気配がにじみ、選民意識や軽蔑の準備が唇に見え隠れする。扮装は厳しい計算決意の産物であって、まだアメリカふうの能天気のゆえではない。1度きり、後がないという緊張。選択肢のない、逃げ場のない、画一道徳の厳しさでもあろう。
だが、以前よりはよくなった。教育の現場は、以前よりも殺伐が進んでいるのかもしれないが、少なくとも若者層は、以前より、こうした楽しみが自然になってきている。
 
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