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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第290回
島田荘司のデジカメ日記
10−20(金)、百田まどかさんから、「犬坊里美の冒険」の、表紙原画をいただく
A井N充さんから、百田まどかさんの絵が送られてきた。「犬坊里美の冒険」の出版の記念にと、まどかさんが表紙の原画をくださったのだ。これをA井さんがわざわざ銀縁の額を見つけ、収めた上でこちらに郵送してくれたのである。
この絵は格別に気に入ったものであったから、たいそう嬉しかった。里美ちゃんのイメージにどんぴしゃりだとか何だとか、そんなこちらの瑣末な都合は超越して、この笑顔がとてもいい。可愛くて、華麗で、特殊感もある。子供っぽいようでいて、同時に大人の女性の華とか、色気も感じさせてくれる。
余談だが、特殊感というのはスター女優たるの条件だと、よく思う。オードリィ・ヘップバーン、マリリン・モンロゥ、エリザベス・テイラー、ソフィア・ローレン、こうした女性たちの顔だちは、似た顔がない。美人というだけではなく、世の中にふたつとない顔で、一瞥で誰だか解る。ニセ者は現れても、類似品というものがなく、とび抜けて変わっているのである。
だからこの顔が画面にぱっと映れば、映画だ! という感じがする。またヘップバーンの映画は、ソフィア・ローレンに代わりが勤まるというものではない。「クレオパトラ」の役をモンローが狙っていたのは有名な話だが、モンローがエジプトの冠をかぶって登場したら、試写会場が失笑の渦だろうと言われたのもよく知られている。しかしこれは、モンローを馬鹿にしているのではなくて、彼女には、彼女でなくては成立しない映画がある。
こうしたことは、ポルシェ911とか、ヒッチコックの中・後期とか、70年代のジョン・レノン、ピカソ、ミロ、すべてそうだ。最近のハリウッド・ムーヴィが、どれも文句なくすごいのに、どこか粒が小さいように感じてしまうのは、定食型の、類似品の群の中にいるからであるように思う。

まどかさんの絵は、ひと筆描きのフリーハンドだから、当然魅力的な曲線がふんだんに現れ、これは女の体の表現に適して、裸体の稜線としてうまく機能する。だから東京で、「官能小説の挿画にもなじみますよね」と言ってみたら、「ありますよ、そういう仕事」、といった彼女の返事であった。
これは間違いなくそうであろう。だから紙の上に現れた着衣の女性も、抽象的な表現ゆえにかえって布の下の裸身を感じさせる。こうしたことは、現実世界ではまずないことなので、思えばとんでもなく強力なことである。それはまどかさんの絵の、いうなれば官能力で、こちらを緊張させ、どこか寡黙にさせる。
里美ちゃんという人は、作者のこちらからすれば、痩せぎすで、ボーイッシュな女の子といった高校時代のイメージしかないのだが、まどかさんの絵を通して見ると、実はかなりなものなのでは、といった妄想も湧く。
読者は、作家は自身の描くヒロインについて、何でも知っていると思うかもしれないけれども、そんなことは全然なくて、ちょうど父親と娘の関係で、何でも知っているように思えたら、それはもしかすると娘の側の演出で、実は何も知らされてはいない。普段、どこで何をしているのかまったく解らない。作中に入れば久々の再会で、「やあ元気だった?」という感じ。向こうが勝手にしゃべりだすから、その台詞を通じて、こっちは彼女を解ったような気になるだけである。
だから、これは何の粉飾表現でも作家的嘘でもなくて、特に女性の登場人物の場合、本当にどこかに存在しているのである。これは実感だ。こっちは何もしていない。ただ彼女を見て、話す言葉を聴いて、それをそのまま書いているだけだ。
これまでを振り返ってみるに、特に女の場合、次にどんなことを喋らせようか、などと考えたことはただの一度もない。向こうから勢いよく言葉が飛んでくる。

ともあれ里美ちゃんのこの原画、表紙に使用した際は、京友禅の柄などをコンピューターで合成して背景としたが、白いバックの原画には、白バックゆえのシンプルな味わいがあり、格別好ましい。
とりたててブルーの壁を選んでかけてみた。そうしたら、予想通り、たいそう引き立つ気がしてしばし見入った。里美ちゃんの笑顔が、日本ではあまり見かけない一面ブルーの周囲を、ちょっと喜んでいるふうに見えた。
まどかさんの絵は、シンプルで大胆な、色彩空間がよく似合う。色彩計画の中にぽんと納まって、全然戸惑うふうがなく、受身的に輝いて、互いを高め合う。小説世界に填まって、挿絵として輝き、物語世界を高めてくれるのと同じ構図だ。
これが、通常の油彩画と違うところだろう。通常の油絵は、定型の装飾的な額、そして美術館的、あるいは応接間的な壁面を選んでかかりたがるが、百田さんの絵は全然違って、ピンクの壁でも真紅の壁でもOKで、透明アクリルの壁だって具合がよさそうだ。もっと言えば、スライドになってどこか風変わりな壁に投影されたってよい。その壁がルーブルの石の壁でも、新宿の場末のトタン壁だっていい。それでももつというのではなくて、そうした環境に置かれたら、さっとなじんでしまって、通常の観られ方以上に輝くような、不思議な力がある。
これは、描かれている人物が女性だからかもしれない。魅力的な女性は、王冠付きで豪華に着飾ろうが、全裸になろうが、どんな環境に置かれようとも、その環境を用いてしたたかに光るような強さがある。これが保守的な政治家の顔なら、まったくそうはいかない。やはり応接間の壁にかかる以外にない。
そもそもまどかさんの絵は、概念アート的なのかもしれない。絵の骨組みがシンプルなので、どんなものでも受け容れてなじむ。あるいはどんな環境にでも入り込んでなじんでしまう。自己主張が強い、きわめて特徴的な絵なのだけれど、反面全然自己主張をしない、控え目なところもあって、まことに不思議だ。
これは作者のまどかさんの様子とも似ている。派手な顔だちで、ぱっと人目を引くのだが、また話させればぐいぐい場をリードもするのだが、じっと静かにしていれば、それもまたOKで、いつまでも静かで、場の邪魔をしない。
百田さんの絵は、だから挿絵になっても光るのであろう。原画であっても、印刷されても、変わらずに力を発揮する。光文社の応接間のデスクの上に載っていても、こうしてはるばる海を越え、アメリカの家までやってきて、壁にかかってもいい。全然場所を選ばない。見事なものだ。
 
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