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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第287回
島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
(写真提供=新潟労災病院
10−4(水)、軍艦マンション
都営大江戸線、東新宿駅の階段を登って地上に出ると、大通りをはさんだ目の前に、異様なビルがそびえる。ビルが建て込んだあたりだから、建物に沿い、足もとをぐるりと巡りながら見あげることはできないが、付近に駐車場があり、ここに踏み込んで眺めれば、その姿は軍船にしか見えない。それもSF作家か画家が空想したような、雲を突く、小山のように巨大な軍艦だ。
上空高くにずらりと並んだ窓は小さく、見るからに密閉タイプで、太平洋の荒々しい波頭を受ける覚悟をしているように思われる。灰色に塗られた壁は、あちこちがごつごつと張り出して、鋼鉄製の艦橋だ。砲弾の嵐にも堪え抜くと、静かに決意をしている。
新宿の猥雑な、そして平和な雑踏には、どう見ても似つかわしくない。民が生存に汲々とするこの世俗の巷に、戦闘の厳しい気配を持ち込んでそびえるようであり、同時にまた、うずくまり、眠る怪物のように、異様に静かな佇まいでもある。
次第に暮れていく夕暮れのうちで眺めれば、その異様さ魁偉さはさらにきわだち、決して明かりがともらぬその無数の窓は、得体の知れぬ暗がりを、都市の上空に並べる。新宿のアスファルトに、東京湾から続く巨大な裂け目ができ、今とてつもない大きさの軍船がしずしずとそれを分け入って、大小のビルひしめく谷間に、ビル壁と艦橋を接するようにして着岸、錨を降ろしたように見える。
それとも遠い銀河の彼方から、腹に響く轟音とともに飛来した、小惑星のような雄大な宇宙戦艦か。眩暈のするような眺めのうちに、街中に轟く霧笛を聴く心地がして、急いで視線を上げれば、すっかり没した夕陽の手前で、あり得ない軍艦は、暗い巨大なシルエツトに変わっていた。続いて生じた真空に似た静寂の中、道行く人たちの無数の視線が、この巨船にはじめて気づき、息を呑んで見あげる──。そうした幻想のただ中、シュールな黒塊は悪夢の始まりのようにも思え、同時にこの怠惰な地上の、ようやくの終焉を宣するようでもある。
建物前まで歩き、New Sky Bldg.と書かれた入り口に立って玄関先を覗き込めば、奥に向かう廊下は、波のしぶきに今濡れたばかりのようにつやつやと緑に光り、間違いなく艦内の始まりだ。廊下は狭く、階段はもっと狭く、エレヴェーターは旧式で古く、これも狭い。老朽化が進み、セメントはひび割れて、しかし廃虚ふうのよい味が漂いはじめている。耐用年数が切れたか、空室が目立つが、入居者は募集していない。
屋上こそが戦艦だ。後方には銀色の司令塔が立ち、横にした給水タンクを両脇に抱える。へさきの先端に立てば、老戦艦は、明かりをいっぱいにともしたひと握りの高層、新宿新都心に船首を向けていた。
ノアの箱舟だ。不安でいっぱいの都会の人々を乗せ、コンクリートの海原を、光のユートピアを求めて突き進む──。

この船を見つけてくれたのは、007号氏であった。「糸ノコとジグザグ」を読み、「樹海都市」に現れる諸事件の、散在MAPを作ろうとしてあちこちネットサーフィンしていたら、こんなビルにぶつかった。これこそは樹海の軍船だと驚き、感動して、ぼくに教えてくれた。
写真をひと目見てぼくも大いに驚き、こんな軍艦を新宿のど真ん中に現出せしめた建築家とは、いったいどんな背景の人物かと猛烈な興味が湧いた。建築家はいろいろと知っているつもりでいたが、こんな建築家の存在は、そして創りだしたこの異境めいた風景も、まったく知らなかった。優れた建築家は、常に才能ある詩人で、こちらが思わず立ち尽くし、時に息を呑み、しばらく目が離せないような風景を創りだす。バイエルンの狂王、あのルードヴィッヒ二世のようにだ。
建築家は、渡邊洋治氏という名の日本人だった。一般にはまったく知られない異才で、狂気の建築家とも、異端の建築家とも称される。まったく謎めいた人間で、詳細な伝記も、自身の理念を語る書物も、存在してはいない。
したがって、その生涯もまた、箇条書きふうの簡単な年表からあれこれ想像を働かせるほかはない。ゆえにいろいろな噂が飛び交うが、はたしてそれらがみんな真実か否かは不明だ。海軍出身の狂気の才という噂だが、多くの資料には「海軍」の文字はない。この新宿の第3スカイビルは彼の代表作らしいが、軍人というのは、このビルの外観からの連想かもしれない。敗戦を超越し、旧軍に心を残して、要塞めいた建物を次々に地上に遺し続ける天才──、そうしたストーリーは、確かにとんでもなく魅力的だ。
確かなことは、38歳という遅いデビューであること。ル・コルビュジェを崇拝し、生涯独身を通し、1983年に61歳で没した。したがって、建築家として活動した期間はわずか22年間にすぎない。
第3スカイビルは、1970年に完成している。そうなら、もう36年が経過しているから、確かに古い。しかしマンハッタンの高層ビル群はもっと古い。取り壊さなくてはならないのか。そうした噂もあるのだが。壊せば、このようなビルは、もう2度と建つまい。

このビルは、幻の傑作として好事家にはとみに有名で、隠れたファンは世界中に広がり、しばらくでもこのビルに住みたくて、わざわざ来日してくる人もいるそうだ。まことによく気持ちが解る。ぼくも住んでみたい。しかし、ぼくにとってはさらに大きな衝撃があって、それはなんとこの人の作品に、「斜め屋敷」があるというのだ。
直江津に建つ田中邸というもので、藤森照信氏の「原・現代住宅再見2」という本に、写真が載っている。拙作「斜め屋敷の犯罪」に現れてくるような豪壮なものではなく、住宅街にひっそりと建つ、一見ごく普通の民家である。が、見れば壁の稜線があきらかに傾いていて、異様だ。平らなテーブルに置いた枡の、片側だけをちょいと持ちあげたような外観をしている。どうやらこの斜線壁の内側に廊下があり、斜路になっているのであろう。さらに驚いたのは、この家が建ったのは1976年で、この頃というのは、ちょうどぼくが「斜め屋敷の犯罪」の着想を得た時期にあたる。
ぼく自身は当時、こんな家の存在など全然知らなかった。だいたい渡邊氏自身、当時はまったくの無名で、こんな作品紹介の本など存在しなかった。やはりストーリーというものはあらかじめ空中に存在して、有資格者の誰かが、それを受信するのであろう。あの時はたまたまぼくが受信できたが、まごまごしていれば、誰か別の人の脳裏に飛び去っていたかもしれない。
直江津の田中邸は、渡邊氏の妹さん夫婦の家らしい。1923年、新潟県直江津(現上越)市の出生だという渡邊氏の経歴からも、それは納得できる。兄は東京に出たが、妹さんは直江津市内に残ったのであろう。そして結婚し、兄は当時もう52歳になっていたが、破天荒な建築設計ばかりしていて、さして仕事がなかったのではないか。だから妹さんが兄に依頼した──、とそんなような空想が広がる。あるいは全然違うかもしれないが。
この人の作品では、「龍の砦」と呼ばれるものがどこかにあって、これも有名らしい。嶺崎医院という開業医の建物らしいが、はたしてどこにあるものか、その写真はとうとう見つからなかった。
この人の作品で、もうひとつ特筆的なものは新潟の労災病院だ。これは上空から見れば、完全に航空母艦のかたちをしている。屋上は広々として前後に長く、セスナ機などは着陸できそうだ。しかしその後の建て増し建て増しで、現在の労災病院からは、空母的な外観は失われたらしい。残念といえば残念なことだ。

渡邊洋治氏は、新潟県立の高田工業を卒業しているが、どうやら大学には進学していない。卒業の年が1941年、真珠湾開戦の年なので、進学をしなかったのは、あるいは戦争のせいなのかもしれない。こういうあたりは、今をときめく安藤忠雄氏に少し似ている。渡邊氏もまた、建築はどうやら独学だ。卒業後は日本ステンレス株式会社という、およそ建築設計とは関係がなさそうな会社に就職。それから6年後の47年に、ようやく久米建築事務所というところに就職している。
そこで建築の才に目覚め、一念発起して勉強、52年、29歳のおりに一級建築士の資格を獲得している。そして55年に早稲田大学の理工学部建築学科、吉阪研究室の助手になった。この吉阪隆生氏こそは彼の師匠で、ル・コルビュジェの、これも異端の弟子であったらしい。非常に泥臭い作風の人で、これは渡邊氏の作風にも共通する。2人とも、決してモダンな人ではない。これは、人柄は泥臭いふうなのに、作品は異様なまでに美しくモダンな、安藤氏の作風とは対照的だ。渡邊氏は、現代に生き延びても、決してコンクリートの打ち放しなどはやらなかったろう。
軍艦マンションの中に、渡邊氏自身の住まいもあった。遺った写真で見るとそれは畳敷きで、それもなんとなく潜水艦の中に畳を敷いたような狭苦しい印象の空間で、何故なのか、大きく身をかがめなくてはくぐれないような扉が壁にある。室内までが軍船で、徹底している。扉は襖のような和風の意匠に作られ、その横には和箪笥が鎮座してさらに部屋を狭く見せ、その上には仏壇までが載っている。
昭和というより、暗い戦時のシンボル・デザインのようで、この人の心象風景が、何となくここから垣間見える。新潟、直江津、どんよりとした雪空、シベリアからの寒風と、絶望的な日米開戦。暗いが、しかし個人的には好きな世界だ。
生きていれば今年83歳。健康裏に長らえていたなら、はたしてどんな破天荒な作品を遺してくれたか、大いに気になる作家だ。安藤氏の一方のライバルにもなり得たろう。しかし83年の11月2日、日大の駿河台病院で1人逝った。
 
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