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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第274回
島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
8−27(日)、ミラノのファッションデザイナー船橋氏に、30年ぶりに再会
大学卒業間もない頃に、上石神井の街で、早稲田の友人たちと頻繁に会っていた時期がある。あれは1970年代だったろうか、街は学生闘争の余風で騒然としていて、オイルショックでトイレットペイパーの買いだめ騒ぎがあったり、長島の引退劇があったりしていた。そんな中、彼らの西武線の安アパートを点々としてギターを弾き、酒を飲み、歌を歌い、喫茶店で何時間も粘っては芸術論を闘わした。当時こちらは音楽をやっていて、たまに乞われてどこかに雑文を書いたり、週刊誌にイラストを描いたりしていた。
早稲田の学生たちはひとつのグループをなしていて、あまり他の大学の学生とはつき合っていないふうだったが、ぼくはよく受け入れてくれた。彼らはムサビの友人たちとは毛色が全然違って、みんな文学部の学生や卒業生だったと思うが、話はそれなりに噛み合って面白かった。
当時の文学部学生の興味の対象は、恋愛感情等は別格として、一に左翼思想と革命闘争、二にジャズやジャズ喫茶というふうで、これに「灰とダイヤモンド」などの渋い映画や、演劇の趣味が続き、当時の彼らの感性は、だいたいそうした成分でできあがっていた。だから彼らが一念発起、同人誌を組織して作品を書けば、いかに抑えても、そうした要素がにじんで連なった。
しかしジャズの演奏となるとなかなか手軽にはいかず、簡単に扱えるギターで、ロックとかフォークの演奏ということになって、この部分で彼らと話が合ったということだろう。ギターとかビートルズは、ジャンルやプライド意識を越えて、当時の若者の共通言語だった。また彼らの内にもデッサンの上手な者がいて、ムサビと早稲田文学部というのは、当時、どこか似た気配があった。
自分としては、ムサビの学生たちよりも、どちらかというと早稲田の学生の方が気が合ったような気がする。今思えば、自分の内にもの書きとしての体質があったゆえなのだろうか。ムサビの学生はハイカラで、アイビーで外観を決め、平凡パンチのグラビアから抜けてきたような格好で原宿あたりを歩いていた。実際にファッション・モデルをやっているような学生も、キャンパスにはいた。しかし早稲田の連中はどこか泥臭く、ただ伸ばしただけといった長髪で、新宿あたりをうろついていた。
当時は小説家になることなど考えもせず、彼らが読む文学となると、こちらはあまり興味がなかったので、小説や文学の話は全然しなかった。けれどどうした皮肉からか、こちらが小説家になってしまい、当時の彼らのうちから作家になった者はない。

そうした早稲田グループの中に、船橋芳信君という人がいた。いつも思いつめたような真摯な目をして、その真剣な表情と、常にシリアスな、そしてやや攻撃的な言動は、維新の獅子たちもかくやと思わせるようなところがあった。
船橋氏は当時、やはり早稲田大学で学生闘争をやり、バーミヤン・ギルド社という前衛演劇団を主宰していた浅利誠氏という人物と、最も親しくしているようだった。学生活動においても、演劇の活動においても、彼は常に浅利氏の仲間としてそばにいた。
この浅利氏ともぼくはけっこうつき合いがあり、彼が東大全共闘で、当時やはり前衛演劇をやつていた芥正彦という人物が、「ホモフィクタス」という難解な書物を自費出版した際、街の小売書店と一軒ごとにかけあって、店頭に置かせてもらうという販売活動をやっていて、自動車を持っているのはぼくたけだったから、愛車ホンダZに「ホモフィクタス」を満載し、重いからパンクの恐怖と闘いながら、浅利君が中央線沿線沿いのあちこちの書店に売り込んで廻るのを、手伝った記憶がある。
芥正彦という人物は、当時のわれわれの間ではなかなかの有名人で、三島由紀夫氏がロックアウトした東大構内に単身入り、全共闘と議論したおりに相手をした、東大の論客の1人だった。当時ぼくは三島氏の小説などはほとんど読まなかったが、彼の「文化防衛論」や、この全共闘との討論本、またこれらに言及した現都知事、石原慎太郎氏と野坂昭如氏との対談本などは面白くて、よく読んだ。
その「ホモフィクタス」に、思想的な共鳴から漫画作品を提供したのが、当時プロで売れっ子だった宮谷一彦氏だった。こうした事実からも、ぼくは宮谷一彦という男に好感を持った。以前にこの日記でも紹介したが、ふとしたことで宮谷氏と会ったおり、この「ホモフィクタス」の話になった。そうしたら彼は、あの仕事はこっちがいい加減な気分だったから、恥ずかしい思いをした、と回想していた。

ともあれ、その船橋氏から、突然SSKサイトを通じてひょっこりメイルが舞い込んだ。今はミラノに暮らしていて、ファッションのデザイナーとして成功しているという。ちょっと会わないかという連絡だった。8月末に長崎の活水大学に講師をやりに帰国するから、もしもぼくと会えるようなら、ひと晩東京に廻る。あまり時間はないけれど、ひと晩だけでも会えないだろうかと言う。びっくりしたが、そのおりならちょうど東京にいるので、会おうという返事をした。
しばらくメイルのやりとりをしたが、それでいろいろと彼の周辺の者の情報が入った。当時船橋君と一緒に演劇をやり、闘争をやっていた浅利誠氏は、今パリにいて、ソルボンヌ大学の哲学科の教授だという。ぼくのことを思い出したのは、パリで彼と会った際に、彼がぼくの名前や著作のことを話に出したからだという。
これには驚いた。確かに浅利という人物は、どちらかというと容貌魁偉、黒いロングコートをマントのように翻し、肩で風を切って東京の街を歩いていた。大きな体の上に載った髯面は、いささか威圧的で、心根は優しい男なのだが、街の暴力団も避けて通った。実際あの頃、ちょっとした暴力沙汰は、暴力団よりも闘争学生の方が馴れていたろう。到底勤め人におさまるような人物ではないと思っていたが、ソルボンヌ大の教授とは恐れ入った。
日本人知的階層は、不思議なもので、中江兆民以来の伝統なのか、アメリカやドイツというよりも、何故かフランスでの成功をもくろむようなところがある。あるいはパリ万博からアールヌーヴォーというジャパニズムの文化経緯があるから、フランス人の日本文化受け入れ体質とでもいうものを読むせいなのか。
知り合いを見廻しても、フランスで一定量の成功をおさめた者はけっこういる。原書房のT橋虫麻呂編集長も、いうなればそういう1人だ。しかしソルボンヌ大教授というのは、間違いなく出世頭である。浅利教授にはちょっと会ってみたい。またその頃の上石神井連中とも、もしも連絡がつくものなら会いたいと言ったら、では探して、連絡をつけてみると船橋氏は言った。

かくして東京は吉祥寺駅の構内で、30年ぶりに船橋氏に会った。髪は白くなっていたが、当時の面影は変わらず、すぐに解った。向こうもこちらを見て、変わらないねと言ってくれた。功なり名を遂げたという思いのゆえか、若い頃に見せていたような戦闘的な態度は影をひそめ、ひたすら温和、柔和な印象の男になっていた。
急なことで、浅利君とは連絡がうまくつかなかったという。替わりに今井氏を伴っていた。当時デッサンが上手だった文学部学生というのが彼である。当時の彼は絵を描き、アルトサックスを吹き、ある意味で自分に最も近い存在だった。当時新宿の、今はない御苑スタジオでデモテープを録音した際、彼にも来てもらって、サックスを吹いてもらった。今は印刷会社を経営しているという。
しかし当時、むしろ彼ら以上に親しくしていた早稲田系の友人は別にいたのだが、探してもらっても、もうこの人とは連絡がつかなくなっているという。
家のバーにビールをたっぷり用意し、2人を連れ込んだ。拙宅に向かって井の頭公園を抜けている時、芥正彦氏のことを聞いたら、彼はガンになってしまったとかで、体がよくないのだという。しかし往年見せていたような知的活動への意欲は衰えず、相変わらず頑張っているというので、これはよかった。
ビールをつぎ、再会できた幸運をビールで祝して、飲みながら3人で上石神井時代の思い出話と、ミラノに渡っての船橋氏の成功譚を聞いた。なかなか興味深いものがあった。以下は、この時彼に聞いた話である。固有名詞などは後でメイルによって確認し、正確を期した。

東京時代の船橋氏には、ファッションのデザイナーという印象はあまりなかった。しかし言われてみたら、高円寺の服飾のデザイナー、Kさんという人物のところでいっときミシンがけをしていた。そういう風景を目撃した記憶が、なんとなくある。
聞けば、これは事実だった。彼の話によれば、高円寺のKさんのところには、6ヵ月間住み込みで手伝いをしていた。これは単に彼がミシンを使えたからで、その理由は、彼の実家が長崎で洋服屋を経営していたかららしい。長崎が故郷と聞いて、若い頃の彼の、維新の獅子ふうの気配も、ゆえあることかと知った。竜馬の、亀山社中のある街だった。
Kさんのところに行ったのは、浅利氏の紹介ゆえで、浅利氏の劇団に入ったのは、演劇に賭けていたというよりも、これも単にミシンが使えたからで、舞台衣装が縫えるだろう、とみなに思われたから、そして自分もそう思ったからだという。当時の彼は、若者が常にそうであるように、自分が何を目ざして生きるべきか、全然目標を見つけられず、途方に暮れるような気分でいた。自分にものを創る才能があるとは到底うぬぼれられず、日々、ただ流されるような時間をすごしていた。しかし彼は、そうした者たちの群を抜け、名を成した。彼らとどこが違ったのか。
早稲田にいた頃は、何とはなく報道カメラマンになりたいと思っていた。ロバート・キャパに憧れ、危険に身をさらしてシャッターを切るような仕事に、どこか燃える気分があった。けれど浅利氏の劇団に誘われ、入って地方の大学に公演に行ったりは、それなりに冒険の日々の始まりで、楽しかった。貧乏旅行で、必死でキセルしたりして生活費を工面した。でもその浅利氏の劇団が突然解散することになり、とりあえず生業が必要になった。責任を感じ、浅利氏は劇団員の身の振り方に心を砕いていた。この時彼の紹介で、先のKさんのスタジオに入った。ミシンがけの技術が、この時も彼を被服の道に導いた。結局彼は、手についたその技能ゆえに、実家の職業方向に導かれたのだ。一方浅利君は、そうしておいて、飄然と日本を去った。

Kさんのところで、しばらく住み込みで働いていたが、こんなことをしていても駄目だと思いはじめた。やるならばいっそ、きちんと基礎から被服を学びたくなった。そこでまず型紙の技術を習得しようと、伊東茂平衣服研究所というところへ通うことにした。そしてここを終了し、ファッションメーカーというものに就職した。パターンを外注で請け負う「マイ」というデザイン会社で、非常によい待遇をもらったのだが、5年も経過した頃、ストレスで精神状態が悪くなった。
ファッション業界は、デザイナー、パタンナー、裁断師、縫製師、アイロン師と、細かい職種が歯車のようにかみ合わさって成りたっている。それらひとつひとつはとても大事なもので、やりがいもあるのだが、歯車のひとつとして来る日も来る日も目先の仕事をしていると、だんだんにフラストレーションが溜まる。個からは全体が見えず、ストレスに陥る。たぶん彼には、総括デザイナーとしての欲求があったのであろう。しばしば強い胃痛に襲われるようになり、これが慢性化、持病化して、新宿から中央線に乗って、阿佐ヶ谷の胃腸科に通院する羽目に陥った。
気分は日々鬱々とし、ある日の医者帰り、阿佐ヶ谷駅から事務所のある新宿方面に乗らず、ふらと高尾行きの電車に乗ってしまった。車内はがらがら、窓の外は晴天で、いつもと違う動きがとてつもなく新鮮に感じられ、関東平野の眺めは広々として、風景は開放感にあふれて感じられた。たったそれだけのことでずいぶん気分が救われ、いかに自分が強い圧迫感を感じて生きていたかを思い知った。この時、東京生活との決別を密かに意識した。
三鷹で下車し、駅前の公衆電話から事務所に電話して、休暇を願い出た。そしてまた中央線の、今度は上りに乗り、その足で羽田へ行って長崎行きの飛行機に飛び乗った。故郷でしばらく気分を休めたかったのだ。その時、弟の幸彦がローマで放浪生活を送っていて、両親はいたく心配していた。彼の父親は、弟が長崎に戻ってきて洋服屋を継いでくれるのを心持ちにしていた。
そこで船橋氏は、自分がローマに行って弟を連れ戻してこようかと提案した。日本を脱出したいという思いがやみがたくなっていたし、どうせ服を作るなら、本場のヨーロッパで勉強したいと思いはじめていた。父親は一も二もなく賛成し、欧州行きの段取りが整った。パリには浅利君もいるはずだったし、弟を連れ戻したのちは、浅利君を頼ってパリに落ち着き、ファッションの道を探ろうと考えていた。こうして彼は新宿の事務所を辞め、ヨーロッパに旅立った。これが、1980年7月のことだった。

1980年、はじめて降り立った夜のローマは、よく憶えている。夜中にローマ空港に車で迎えにきてくれた弟や、そのイタリア人の友人たちが、ローマの名所旧跡をもの凄いスピードで連れ廻してくれた。ある場所で目を閉じさせられ、急ブレーキとともに車が停まり、ゆっくりと目を開けさせられると、眼前に巨大な石造りのサンピエトロ寺院が、覆いかぶさるようにして建っていた。ああ、これが都市というものかと思い知り、ローマ以降の歴史にすっかり圧倒され、言葉を失った。そして、東京生活で抑圧されていた感情や感覚が、いっせいに解放される感動を実感した。
以降、毎日街を歩き、芝居を観てすごした。劇場に通ったのは、自分も以前にやっていたから芝居に興味があったことと、イタリア人の観客の衣裳、ヘアースタイル、アクセサリーなどを観たいと考えたからだ。服というものは、壁にかかっているところを見ても何も解らない。デザイナーとしては、人が着て、動いている様子を観ないと評価はできない。その場所が劇場なら、これは最高だ。
けれどこの頃はイタリア語が未熟で、内容が全然解らず、ひたすらに辛かった。特に芝居が喜劇だと、笑えない疎外感から、悲劇観劇以上に辛い。ある時ふと、音楽なら言葉のハンディがないぞと気づき、それでオペラ観劇に切り替えた。
はじめて観たオペラは、Giuseppe Verdiの「運命の力」だった。これ以上の悲劇はないといってよいくらいの重い悲劇で、そうしたら、本場のテナーとバリトンの二重唱に、鳥肌がたった。オーケストラは、こちらの魂を絶えず、根底から揺り動かしてくるようで、知らず涙が出ていた。ああこれが本場のオペラというものかと知り、オペラに強く心を動かされたこの時の感動が、今イタリアにいる理由のひとつになっている。

以来、自分自身にオペラ観劇を義務づけた。舞台上の衣裳、演出を観ること。観客を観ること。そして自身、声楽を楽しむことも目的としてあった。そんなふうにして、ローマには約1年半暮らし、その後はミラノに移って、Enzino Mitoloというデザイナーと一緒に仕事をした。
エンツィーノは、Corso Venezia 16番地に住んでいて、彼の家には約4ヶ月居候したのだが、家はPalazzo Servelloniという、ナポレオンがミラノに入城した際、またその後エマニュエル2世がイタリアを統一した時にも居城とした由緒ある館で、ミラノの中心街にあり、スカラ座まで歩いて5分という最高の場所だった。
スカラ座の切符売り場のボスを彼に紹介してもらい、80年代は3日とあげずスカラ座に通った。1986年にヴェルディの「ロンバルディアの十字軍」を天井桟敷で聴いていたら、ソプラノの日本人歌手、林康子さんの声が、彼のすわる桟敷席まで一直線に飛んできた。そして指揮者、Gianandrea Gavazzeniのタクトの動きによって刻々と音楽が生まれているのが実感でき、帰ってその感動をエンツィーノに話したら、「ああ、ピーノのお父さんだな」と言って、次の日に息子のPino Gavazzeniを家に招いてくれた。こうして彼は、思いがけずGianandrea Gavazzeni、Pino Gavazzeniという親子と、知己を得た。
指揮者、Gianandrea Gavazzeniは、イタリア第2次オペラブームと呼ばれた、1950年代の大スターで、ベルガモに住み、ドニゼッティ・オペラの第一人者だった。1996年2月に亡くなるが、マエストロがスカラ座で指揮した「ラ・ボエーム」、「アドリアーナ・ルクブール」、「蝶々夫人」、「フェドーラ」は、それぞれ20回以上も通って聴いた。オペラに詳しくなり、オペラファンであるがゆえに、仕事が入ってきたりもした。マエストロGavazzeniの子息で、Baguttaというシャツメーカーの社長、Pino Gavazzeniという人からだった。
この頃、知り合いになったブリュセルの国立音楽院教授で、ヴァイオリン奏者の堀米ゆず子さんに、「あなたのキャラクターは、音楽家にアピールするわよ」と言われたことがあり、そういうものなのかなと思っていた。彼女にチェロ奏者のMischa Maiskyを紹介してもらったり、パバロッティの娘さんTittI(Tiziana)を紹介してもらったりして、音楽家の知り合いがだんだんに増えた。このほかにも、Verdiの生まれ故郷Bussetoには、テナーのCarlo Bergonziとその家族など、オペラを通じて知り合ったたくさんの友人がいる。
ローマ郊外のオペラフェスティバルで、レコード・コンサートがあり、若い歌手の下手な歌で、つい寝てしまっていた。しかし歴史上の有名なテナー歌手、Tito schipaの「若きウェルテルの悩み」が流れはじめたら、強い感動で目が覚め、背筋を伸ばして聴き入った。
そうしたら、その後のパーティで、ティートという人物が声をかけてきてくれ、さっきの君の様子を後の席で見ていたよと言った。彼は、Tito Schipaのジュニアで、70年代のイタリアで、一世を風靡した有名なロックシンガーだった。以来意気投合し、彼とは親友になった。ティートは今、映画音楽、舞台音楽、テレビドラマの音楽の作曲家をし、オペラの演出家でもある。堀込ゆず子さんの言ったことは、どうやら当っているらしかった。
船橋氏の声楽の知識は、このTito Schipa を中心にして体系づけられている。今でもSPレコードで、たびたびTito Schipaを聴いている。ホセカレーラスも、自分の歌が見失われたような時、Tito Schipaのレコードを出してきて聴くという。すると、ついと原点に帰れるのだそうだ。
ふとしたことから、花巻の野村胡堂、あらえびす記念館の野村晴一氏に会う機会があり、Tito SchipaのSPレコードのカタログをもらったことがあるという。これは大変貴重な資料なので、野村さんには今も感謝している。ぼくのデジカメ日記のバックナンバーを見ていたら、花巻のあらえびす記念館や野村氏が出てきたのでびっくりしたと言った。

こうして船橋氏は、いつしか弟を長崎に連れ戻すことを忘れた。イタリアとオペラに、そして何よりかの地のファッション・フィールドに、激しく魅せられてしまったからだ。
ローマに着いてから3ヶ月経って職にありつき、以降フリーランスとして、ずっと仕事をしてきた。15年間はパターンナーとして、1995年頃から自分の意識もデザイナーのものに変わって、そういう仕事をするようにした。今ではミラノの地に、自分のスタジオ、「イプシロン」というものを持って活動している。
1980年、上陸当時のヨーロッパのファッション界、特にパリのそれは、川久保令、山本耀司、三宅一生、山本寛斎等々、力のある日本人デザイナーたちが、パリコレに一大衝撃を与えていた時代で、パリのジャーナリズムも大いに騒いでいた。コムデギャルソン、ワイズなどのブランドは、パリのモードであるかのように思われているが、彼らがパリで作ったものだ。当時ジャパニーズ・ファッションを表現できる日本人なら、仕事はいくらでもある時代で、船橋氏はこの流れにうまく合流し、乗ることができた。非常に幸運であったともいえる。
けれど不思議なことに、自分の才に気づいたというような意識は、今でもないと語る。けれどこの職業に就いて30年、ようやく個としての存在にストレスを感じないですむようになった。仕事は楽しいし、イタリアの陽気な環境が、そんなふうに自分を導いてくれたと回想する。
そして気づけば、弟幸彦氏もまた、ファッション・デザイナーとして成功していた。船橋兄弟は、今やイタリアで有名になった。

現在船橋芳信氏は、日本人の声楽家であり、ピアニストでもある渡辺明美さんに、週1回のヴォイス・トレーニングを受けている。発声と呼吸法を習うのだが、この発声法はベルカント唱法といい、イタリアのベルカント・オペラ、ドニゼッティの流れを正当に引く歌唱法なのだそうだ。
胸部上部の力を完全に抜き、腹筋を使い、横隔膜の開閉による息の流れに載せて発声する。この唱法を持った歌手は、今はもう少なく、メッゾソプラノのTeresa Berganzaとか、ソプラノのLuciana Serraくらいらしい。レッスンでは、奥歯に箸を咬む。顎とか、喉に力をかけないためだ。
立つ姿勢も大事で、背を壁に密着させて歌う。背骨をしっかりと伸ばすためだ。そうして呼吸を整えるため、まず息を長く吹き出す。これを5回。それから音階を声で出す。これを自分の音域に合ったところで3〜4回やり、それから歌の練習に入っていく。こうした練習を始めて、もう1年半が経過した。12月17日には発表会があって、ナポリ民謡2曲と、オペラのアリア1曲の、計3曲を歌うのだそうだ。
拙宅のバーで長々そんな話をしていたら、やおら立ちあがり、鞄からノートを引っ張り出してきて、今からドニゼッティの「人知れぬ涙」をぼくのために歌ってくれると言う。彼に、「溺れる人魚」送っていたからだ。ぼくが「人知れぬ涙」を好きと知ったので、ちょっとばかりミラノでこの歌を練習してきたと言う。そして酔った喉ながら、ろうろうと歌って聴かせてくれた。
それは、30年ぶりのわれわれの再会を喜ぶ調べであり、上石神井を起点に、イタリアにアメリカにと拡散し、またファッションと小説にと道が別れたわれわれの、立つ地点を示しながら、同時に過去のある地点にと導いて、結びつけてくれる友情の調べともいえた。

その夜はそれで別れたが、後日船橋氏から、白い麻のスーツの上下が送られてきた。イタリアの、知り合いのブティックのおやじの体形に合わせて作ったというが、着てみたら、ズボンがまるで図ったようにぴったりだったから驚いた。近く京都と大阪でサイン会があるから、これを着て行こうかと考えた。
 
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