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島田荘司のデジカメ日記
第272回
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8−5(土)、チャンドラーが死んだ街
現在、仮題だが「本格ミステリー創作講座」といったふうのタイトルの本を 作っている。これはかなり以前に文京区でやった講演録に、南雲堂会議室で新人を集めて行った質疑応答会、それに個人的にもらった質問とか、サイトで公募し た創作上の質問にこちらが応えたもの、などなどをすべて1冊にまとめ、本格のミステリー創作を目指す新人たちのために上梓しようとするものである。  その中にこんな質問があった。

Q 黄金時代のヴァン・ダイン、クイーン、クリスティ、カーなどの作家に対する、島田先生の評価を教えてください。

 これは、おそらくは質問者の意図とはまったくの別方向から、個人的に非常に重要と感じるQ&Aになった。その点を説明する前に、当方がなした答 えを、まずは読んでもらうことにする。

島田 読んでいたのはもうずいぶん昔になりますから、記憶が不確かになり、異論が出るかもしれませんね。しかしこれらの才能たちの歴史を、私は以下のよう なストーリーで理解しています。
ポーから始まったミステリーの隆盛は、英米の覇権争いという趣きがあると思うんです。ポー、ドイル、クリスティ、ヴァン・ダイン、カー、エラリー・クイー ン、というふうに巨匠輩出が続いたと言って、大方の異存はないと思います。これら六人の全盛期を見てみれば、順番もほぼこれでよいと思います。ポー、ドイ ルは十九世紀末に一時代を作りましたが、クリスティ、ヴァン・ダインは、双方ともに代表作は一九二〇年代に現れている。つまりこの二人は同時期の人です が、クリスティの方がデビューは早い。その後のカー、クイーンは、ともに全盛期は三〇年代で、この二人もだいたい同時期になります。
面白いのは、これらの大物たちのうち、イギリス人はドイルとクリステイだけなのですね。ポー、ヴァン・ダイン、カー、クイーンと、すべてアメリカ人です。 カーはイギリスの作家と思われていますが、アメリカ人ですね。つまりこの小説ジャンルは、アメリカで生まれ、イギリスで完成するが、たちまち覇権をアメリ カに奪い返され、もしも今は死んでいるとすれば、アメリカで死んだ。
ここには、何ごとか教訓めいたものがあるのかもしれない。アメリカでピュア・ミステリーが失速したのは、ハリウッドというもののせいがありますね。ホーム ズはともかく、ファイロ・ヴァンスやエラリーや、ドルリー・レーン型の名探偵、そして彼らの書斎型の謎解きスタイルは、あまり映画になじまなかったと言え ます。ハリウッドになじむのは、派手な活劇をともなうその後のフィリップ・マーローや、マイク・ハマー、リュウ・アーチャーたちですね。さらに時代が下っ てそれ以上になじんだのが、目覚しく発達してきた特撮技術を活用できたところの、スティーヴン・キング系のゴーストということになって、今日にいたってい る。
隆盛がずっと大英帝国で続いていれば、つまりヴァンスやギデオン・フェル博士たちが英国に登場していれば、今の状況は多少違っていた。どういうふうにかと いうと、覇権をアメリカの作家が奪い返した時、彼らアメリカ人は、この新文学ジャンルをイギリス系とみなし、イギリス人以上にイギリス的なるものに押し込 めた、という感じがあるからです。これが、このジャンルの命を縮めはしなかったかなと、今の視点からは考えています。退屈にしてしまって、そののち、映画 という根アカなアメリカ流エンターテインメントと衝突させてしまった。覇権を奪ったアメリカにはハリウッドという超強力なものがあって、この勢力が、ク イーンの時代以降急速に台頭する運命にあって、出を待っていた。アメリカ人がミステリーを論理志向に縛ってしまったがため、この文学は、この新しいエン ターテインメントの波に乗りそこねたかもしれない。

もう少し細部を説明し、各々の才能の評価も語ると、ポーのデュパンは学究の徒という魅力的な雰囲気があるが、作者のポー自身は、なんだかマイク・ハマーか 太宰治みたいなところがある。ジャンル創造主としてのポーの功績は、すでに述べました。彼の科学者としての精神、そして霊的な幻を見る、夜の詩人としての 圧倒的な幻視力。これに陪審制度というアングロサクソン社会の美点が共振して、新ジャンルをスタートさせる。この仕事は、奇才の名に恥じない慧眼です。し かも彼の創作には、社会派あり、詩作あり、さらには海洋冒険小説ありで、まことに多種多彩であった。無限の可能性を持っていたんです。
ドイルも実は同じなんですね。彼の功績は、シャーロック・ホームズというスターを世に送り出したことです。ホームズの人となりの魅力は、その後のどの作家 創造の名探偵も、結局誰も追いついていない。ポーなしではこのジャンルは発生しなかったが、ドイルのホームズなしでは、到底ジャンルを定着させ得なかっ た。そのくらいにホームズの人柄には、とてつもない魅力があった。
その魅力の質を言うと、類いまれなユーモアですね。そして勇気と男気、そしてそれを決してひけらかさず、さりげないものに押し隠す好ましい騎士道精神。ほ どよい人嫌い癖と変人ぶり。そしてむろん圧倒的な論理思考の力ですが、もうひとつ忘れてならないものが、スポーツマンとしての彼の行動力、アクティヴな運 動神経なんですね。ボクシングの達人でさえあった。
つまりホームズまでは、本格ミステリーのスーパーヒーローは、決してハリウッドになじまないような、青白い書斎の虫ではなかったんです。フィリップ・マー ロゥはまったく別ジャンルのヒーローのようにみなが言いますが、私に言わせれば、彼こそがホームズの息子です。こういうヒーローたちを年寄り臭くして、陰 気な暗い館の奥深くに押し込めたのは、実はヴァン・ダインなわけですね。
けれど私は、別にダインの悪口を言いたいわけではありません。彼の登場によって、ミステリーの論理がより高度に、より教養的になって、物語が圧倒的に面白 く、それも歩留まり高く傑作が現れるようになったと思う、これは確かなことなんです。彼は、ポー以降、クリステイまで続き、発展してきたこの新文学を、彼 一流のやり方で徹底的に観察し、分析解体して、最も美味なる部分を抽出、彼が信じる最大級に面白い形態に、再構築したんです。
こうした舞台、こうした条件網羅のストーリーが最も面白いのだと、彼は自信を持って世に提案した。今観察すると、彼のなしたことは、要するにそういうこと ですね。グリーン家は、摩天楼群が現れる以前のマンハッタンに登場した、英国以上に英国的な閉鎖空間だった。彼の語る世界の面白さを圧倒的で、彼の後続い て現れたカーもクイーンも、彼ら自身はどうやら否定しているようですが、ヴァン・ダインの流儀を受け入れて書いたんです。つまり彼らも、面白いミステリー を歩留まりよく生み出すためのダインの提案に、結局賛同したわけです。そして公平に見て彼らは、それによって大きくなった。迷いを捨てて、繰り出す論理を 高度に、先鋭化させていけたわけです。そのくらいヴァン・ダインの提案は圧倒的に正しく、登場は強力な影響力を発揮した。
これがさっき、本格の説明の段で述べたことです。「本格」というミステリーの用語は日本人の発明ですが、この新しい語彙を甲賀三郎が構想した時、彼の脳裏 には、あきらかにこのヴァン・ダインの流儀があったはずです。つまりヴァンダインが実作で提唱し、さらには二十則で厳密に限定条件化したこの網羅主義とい うものは、ひと言で言えば、「徹底的に論理的小説であれ」ということですが、こうした論理至上主義を求める発想を、甲賀は本格的な探偵小説だと理解したわ けですね。
これによって、ポーの産んだミステリーは高度なものに成長し、駄作出現の可能性は低くなり、多くの後継者を育んで発展するのですが、他方で、奔放な躍動感 や、駄作の危険はあっても無限の可能性を秘めていた、ポー、ドイルの流儀、幻視力を、ミステリーは失うわけです。「カリブの海賊」だって、「ジュラシッ ク・パーク」だって、ポー、ドイルが構想、創り出した世界です。
しかしヴァン・ダイン以降、ミステリー世界はまことにイギリス流の行儀に閉じこもり、書斎の椅子にすわり込んで、ポーやドイルが体質として持ち、また常に 求める姿勢でいた最新科学への畏敬の念を失って、やや傲慢にもなっていくわけです。新しい情報のとり入れも、どこかで嫌う体質を持ってしまった。ヴァン・ ダイン流の、強い呪縛下に入ったと言っても言いすぎではないと思う。
そしてマーロゥというホームズの息子を、異端児扱いするようになり、まもなく台頭してきた、映画芸術という体力派とは相性が悪い存在になっていることを露 呈して、徐々にフェイドアウトしていくわけです。
近年日本に興った新本格のブームは、別所でも説明していますが、人物表現記号化という方法によって、日本文学流の湿った人間描写から脱し、およそ七十年遅 れで実現した、ヴァン・ダイン・スタイルの輸入、踏襲ということができるでしょう。近代自然主義の日本文学体質とか、貧困と戦争体験への思い入れといった 趣味が、ヴァン・ダイン流の実現を、いわば長く邪魔していたということです。まあミステリー史、そして各偉人の評価は、ざっとこんなふうにとらえることが できます。

多くの本格ミステリー志向者たちは、フィリップ・マーロゥを全然無関係、別ジャンルのヒーローだと考えている。しかしここで述べている通り、ぼくはマー ロゥこそを、ホームズの息子だと感じている。遺作「プレィバック」におけるマーロゥのあの有名なセリフ、「強くなければ生きられない、優しくなければ生き ている資格がない」は、そのまま英国におけるホームズの人となりにも当てはまる。
デュパンはまあいいとしても、ホームズものを本格ミステリーの範疇に入れることにはかなりの抵抗感が来る、というのが日本の読み巧者を自認する本格マニア たちの、偽らざる気分であろうと思う。何故そう感じるかといえば、まずはホームズの、アクティヴにすぎる行動力のせいがある。彼は奇妙な石造りの館に外来 し、終始この器の内部で推理をして、屋敷内の住人たちのうちから、予想外な犯人を指摘する、というような、英国紳士を感じさせる定型行動を、英国人のゆえ にとらなかった。霧のロンドンを、御者に特別料金を糞発して暴走族のように疾走し、ダートムアの草原を駈け巡った。ボクシングの達人で、時には悪漢に拳を ふるうことも辞さず、こうした本格ものとしてのルール破りに加えて、黎明期らしいトリックの簡易さ、推理の単純さ、さらにいえば、時としてトリックの実行 不能性などが読者をして、ある種の軽視をさせたように思う。
爆発的に本格の隆盛を作り出したヴァン・ダインの方式だが、日本の文壇においては、威圧人情の厳しさが特有の自然主義文学を育て、高級をもって任じるこれ が、ヴァン・ダインのゲーム流儀をリアリティ欠如、非文学的と感じさせて、輸入を許さなかった。しかし、登場人物の記号化という方法によって、こうした日 本型の威圧や、嫉妬感情などのどろどろとした人間描写を切り捨て、館コード型がアメリカに70年遅れて一時代を作ると、ここにまたすかさず日本型の人情が 取りついて、いわば異端審問会が組織され、人物記号化を高級なふるいとみなし、人を記号的に描かない書き手は不道徳として厳しく糾弾、違反者には罵詈雑言 や、嘲笑言動によって処罰を下すという、これまた厳しい日本流の威圧監視が発動した。
かくして日本でもまたこの流儀は一段落の兆しを見せ、本格ジャンルの危機的な気配も現れて、ぼくはホームズやマーロゥ流の、館を飛び出して街や野を疾走 し、損得を度外視して命を賭け、何故なのかと問われれば、「If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive……」、とつぶやく、あのなんとも言えず心を打つ、市井の者への感動的な視線を、本格においても取り戻したいと考えるようになった。今自殺の時 代、本格の作家もまた、書斎の虫でばかりいてはいけないと感じる。
このところそんなふうに考えていたら、なんだか、晩年にかかったレイモンド・チャンドラーが、LAから越していったサンディエゴの街に、むしょうに行って みたくなった。とりわけ彼が暮らし、そして没したラ・ホヤの街を見たくなって、早朝フリーウェイの5号に乗り、すっとんで南下、海沿いの高級住宅街、ラ・ ホヤに向かった。
レイモンド・チャンドラーは、1888年7月23日に、アメリカ中西部、イリノイ州シカゴで生まれている。8歳の時に両親が離婚、母とともに母の故郷のイ ギリスに渡った。そしてロンドン郊外のダルウィッチ・カレッジ公立学校に入学する。
ダルウィッチ・カレッジを卒業したらフランスに渡り、言語学の研究をし、その後ドイツに渡ってさらに研究を続ける。19歳のおりにイギリスに帰国して、海 軍本部に奉職する。だから彼はこうした時期を通過することで、英国人としての体質を身につけることになる。
1912年、24歳のおり、チャンドラーはアメリカに渡って、カリフォルニア州ロサンゼルスに居を定める。詩人として創作しながら、手当たり次第の職につ いて、なんとか生計を立てる。
1924年、35歳の時に母が死去し、チャンドラーは、18歳年上のパール・セシリー・ハールバト、愛称シシーと結婚する。シシーは二度離婚していたが、 美人で、その後の結婚生活30年を通じ、主婦としても仕事上の助言者としても、チャンドラーのよき伴侶であった。 
1933年、チャンドラー45歳のおり、中編の処女探偵小説がパルプ・マガジン「ブラック・マスク」誌に掲載され、彼は作家としては遅いスタートを切る。
1939年、50歳の時、私立探偵フィリップ・マーロウものの処女長編推理小説、「大いなる眠り(The Big Sleep)」を書いて出版する。
1940年、52歳になったおり、フィリップ・マーロウものの長編推理小説第2弾、「さらば愛しき女よ(Farewell, My Lovely)」を上梓する。
二次大戦を通過した1953年、チャンドラー65歳の時に、名作「長いお別れ(The Long Goodbye)」が、マーロゥものの長編、第6弾として出版される。
順調と見えていたが、1954年12月、チャンドラー66歳の時、愛妻シシーが83歳で死去する。と同時に、絶望したチャンドラーに、アルコール浸りの生 活が訪れる。この時期、朦朧とした意識のまま浴室でピストルを発射、警察沙汰になったこともある。
推測だがチャンドラーは、「The Long Goodbye」を最後に、読者の前から去るつもりでいたのではないか。このタイトルは、このいかにもアメリカらしい自分の文学を愛してくれた読者への、 彼一流の、気取った別れの挨拶だったのではないかと、ぼくは考えている。
彼は筆を折り、お迎えを待ったのだが、神は彼から命を奪わなかった。そこで彼は1958年、70歳のおりに、もう一度フィルムを巻き戻さんとばかりにマー ロウもの第7弾、「プレイバック(Playback)」を上梓する。
この作品は、チャンドラーがハリウッドで映画の脚本書きの仕事をしていた頃、ユニヴァーサル映画のために書いた脚本が下敷きになっている。だから、その意 味でも「プレイバック」だった。この脚本には当初マーロウは登場していなかったが、小説化された作中に姿を現わしたヒーローは、あの有名なセリフを吐く。
「プレィバック」上梓直後の3月、チャンドラーはアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長に選ばれ、ニューヨークに赴くが、以前からいためていた呼吸器 を、東海岸の悪天候のせいで害し、即刻ラ・ホヤの自宅に戻るが、3月26日、気管支肺炎のために死去する。享年70だった。
チャンドラーはこうして、この名セリフを遺言にして、世界中の愛読者の前から永遠に去っていった。

ぼくはラ・ホヤの入り口でデニーズに入り、食事をして、料金を払う際に、レイモンド・チャンドラーの家を探しているんだけど、知らないかとレジの女の子に 訊いた。すると彼女は、家どころか、レイモンド・チャンドラーという作家の名を知らなかった。同僚の若い男性にも声をかけ、尋ねてくれたが、彼もまた同様 だった。
チャンドラーほどの大物なら、日本なら間違いなく記念館、博物館の類ができている。日本にいて、多少なりともできる男を自認する者で、チャンドラーやマー ロゥを知らない者など一人もいなかった。日本で、チャンドラーはかくも有名だ。ところが、本場ではみなが忘れかけている。特に若い層はまったく知らない。 これは衝撃だった。彼らが知っているのは映画スターや、ミュージシァンの名前ばかりだ。
しかしラ・ホヤは、実に居心地のよさそうな、海沿いの集落だった。目の前に広々と太平洋が広がり、清潔そうな高級住宅が並んでいる。陽射しは強く、明る く、木々の緑は鮮やかで、背後にはちょっとした山肌も見えるから、砂漠ふうの荒涼感もない。暮らしやすそうだ。
けれども車でいかに走り廻っても、「チャンドラー」の文字などどこを探してもない。「長いお別れ」に現れるギムレットを、シシーと2人でよく飲んでいた バーが、この街のどこかにはあると聞いたのだが、どこなのか見当もつかない。ふらりとやってきた者には、チャンドラーの住んでいた家など、調べようもな い。
来る前にざっと検索もしてみたのだが、こちらのネットのフィールドにも、そうした情報や、チャンドラーの暮らした家の住所など、まったく公開されてはいな かった。家や、行きつけのバーを知りたいなら、事前によほど下調べをしてから来るべき、ということらしい。

ざっと街を見てから、帰路についた。ラ・ホヤはいい街だったが、チャンドラーとはまるで無関係に存在していた。
5号をまた延々と北上、家に帰り着いてメイルを見たら、予想もしなかった訃報が入っていたので愕然とした。
宇山日出臣氏が亡くなったという。
講談社Y田部長からのもので、「突然のことですが……」というタイトルの下に、「大変残念なことですが、実は、宇山さんが亡くなりました」、という字面が 並んでいた。
一瞬意味が脳裏に届かず、困った。何のことだ? と思った。
しかし、徐々に解った。あの宇山氏が死んだ。八重洲のブックセンター、そしてその後の一の蔵で会ったのが最後になった。あんなに元気そうだったのに。
そして、どうして自分は今回、これほどラ・ホヤに行きたかったのだろう、と考えた。

それから今年の1月に、彼と、彼の家で対談したことを思い出した。あれは全集の投げ込み用にお願いしたものだったが、あの時もまた、チャンドラーについて 彼と話したのだったな、と考えた。
チャンドラーの死んだ街を歩きにいき、戻って盟友の死に接した。訃報に接するための、準備をさせられたということか。(続く)
 
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