島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第265回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
6−14(水)、国立文楽劇場で、津駒太夫氏と歓談
大阪の国立文楽劇場に、高校時代の旧友たちに会いにいく。
というのは、文芸春秋本誌冒頭に、「同級生交歓」というグラビアページがあり、9月号のここに、福山誠之館高校の同級生3人で登場して欲しいと言われたからだ。文楽義太夫の津駒太夫こと藤田千尋氏、それから大阪大学の、大学院基礎工学科教授の大垣一成氏、それにぼくの3人で、写真におさまって欲しいという。場所は、一番絵になるであろう、大阪の国立文楽劇場がいいというので、文春のI井編集者と2人、新幹線で大阪に向かった。
大阪には、文楽専用の劇場がある。これは日本にひとつきりで、東京にはない。だから東京で公演する場合は、お堀ばたの国立劇場あたりになる。この文楽劇場で、高校時代の同級生藤田千尋君が、義太夫の津駒太夫としてスターになっており、大いに活躍しているというのだ。
ぼくは義太夫というものにとんと疎くて、いきなりそう言われても、その芸域の音が聞こえなかった。歌舞伎と言われても、落語と言われても、その世界のたてる音がなんとなく耳に聞こえるのだが、義太夫となると皆目見当もつかない。しかし人形浄瑠璃の文楽だと言われ、ようやく合点がいって、音が聞こえた。
人形が演じる江戸の頃の人情劇を、その脇で、三味線をバックに言葉で語る者がなくては、人形は無言劇になってしまって内容が解らない。そうか、あの語りが義太夫か、とようやく思いがいたった。
考えてみれば不思議なことで、いっときあれほど江戸に熱中し、江戸の街を語る本を片端から読みあさった時期があったのに、この時も浮世絵や草子絵、歌舞伎とか落語という発想にはなっても、文楽には届かなかった。人形にはけっこう興味があったはずなのに、文楽についてはほとんど何も調べなかった。まあそうした素人の江戸芸能への興味の持ち方の順位といったものも、のちに述べる津駒太夫氏、藤田君のこの世界への身の投じ方の理由になっていたわけだが。
たどり着いてみれば劇場は大変立派なもので、日本で唯一、ということは、世界でも唯ひとつの施設ということになる。東京でなく大阪にできたということは、上方、くだりものという、江戸期の感覚か。
入って2階のロビーにあがり、しばらく待っていたら、和服の男性が遠くに現れ、フロアのずっと彼方からぼくをすかし見るようにしながら近づいてくる。唇に笑みはあるものの、少々怪訝なふうで、あれが高校時代の島田荘司か? でもなんか感じが違うな、と思っているふうがよく解った。
しかし目の前に来たら、「おお、いやいや、お久しぶり!」ということになった。風貌に、かすかに覚えがある。向こうも同様らしくで、固く握手をかわした。
それから彼に、劇場の応接間に招じ入れられ、久方ぶり、ほとんど30年ぶりの歓談となった。藤田氏は、記憶はもううろ憶えだけれども、高校時代、自分は3組だったと思う、と言った。担任教師は小野さんで、小野先生はあれから広大の教授になったはずという。小野先生は好きな先生だったから、ぼくもよく憶えている。現代国語の担当で、ぼくの場合は、1年生時の担任だった。私は何組でしたかね、とこちらの方はまことに情けない話になったが、全体が8組あって、島田君は7組じゃなかったかな、担任は末永先生だった、と向こうで説明してくれた。
それで思い出した。われわれは異様なベビーブームの落とし子で、何をやるにも行列させられる世代だった。母親が弁当を作るのをさぼってくれたから、学校で昼食のパンを買うのも大行列なら、記念切手が発行されたと訊いて、早朝郵便局で切手を買うのにも大行列であった。ベルリンの壁崩壊前の東ドイツ国民みたいなもので、行列に馴れていて、世の中そういうものかと思い、それ以上別に何も思わなかったが、今少子化で、目黒の区立中学が各学年ひとクラスのみ、そしてそのクラスに女の子は一人きり、というような時代だそうだから、それを思えば隔世の観がある。だから目黒区では現在、区立中学同士の合併が始まっているらしい。
クラスの数といえは、割りと受験校であったのにも関わらず、各学年8組もあり、しかも各クラスに生徒が50人もいた。こちらは後半の端の7組、藤田君は前方の端の方で3組となれば、校舎も違って、あまり交流というものもなかった。だから彼とは非常に親しい同窓生同士とはいかない。四百人も生徒がいれば、いっとき同じ町内に住んでいた者同士といった程度の感覚である。
しかし藤田君は、間もなく来るであろう阪大の大垣君とはクラスが近かったらしい。だから彼とは在校時代からよく顔を合わせ、親しかったし、藤田君が大阪にやってきたから2人は交流が復活して、教授は時々文楽劇場の客席に足を運ぶらしい。しかしそうは言っても、藤田氏の風貌には記憶がある。はて何故憶えているのだったか、そう考えながら、彼とずっと会話していた。
藤田氏が、どうして文楽、義太夫の世界に身を投じることになったのか、といった話にまずはなった。なにやら冗談めかして彼が語るには、中央の法科に進学したのだが、自分の感性や頭の仕組みが、どうしても法律に向いているとは思われなくなり、世間には左翼闘争の嵐が吹き荒れ、それやこれやですこぶる虚無的になってしまって、生活者としては死ぬことにした。だからともに死んでくれそうな、近く死亡が確実な世界に身を投じたいと願い、選んだのが文楽だったのだという。
また風変わりな職業選択もあったもので、生まれてはじめて文楽の楽屋に入り、とある師匠に会って、
「ぼく文楽やりたいのですが」、と言ったら、
「あんた、文楽観たことはあるのかい」と問われた。藤田君は、
「いやー、一度もないです」と正直に応えた。
行儀にうるさい伝統芸能だから、普通の師匠ならそんなことを言えば怒るであろうが、その師匠は偉くて、
「まあそんならちょっとやってみなさい」と言った。
「だがしばらく見ておって、やっぱり辞めなさいと言わなきゃあならなくなるかしれんよ」、と言った。
藤田氏は、今思えば当時の文楽、後継者がいなくて存続が危うくなっていたから、そこいらへんでゲバ棒振っとるやつでもええから連れてこいや、と言っていたような時代だった、だからよかったのだろうと言う。
ところが文楽、その後国が立派な劇場も建てて援助を開始したから、死ぬどころか、こんなに発展してしまった。文楽は、今や押しも押されもせぬ国を代表する芸能で、日本よりも欧米での公演の方が多いくらいになった。気づけば藤田君もこの世界でスターになってしまっており、死ぬあてははずれた。
文楽を選んだのはたまたまだと言うので、それでは落語でも歌舞伎でもよかったのかと尋ねたら、いやそれでは駄目だった、当時も歌舞伎や落語はそれなりに陽が当って輝いており、とても死にそうではなかった。文楽はというと、どこでやっておるのか解らんような、当時は日陰の存在だった、だから選んだのだという。
70年前後、ケネディが殺されたのちも海の彼方ではヴェトナム戦の泥沼が続いていて、ウォーターゲート事件で、大統領のニクソンが恥辱にまみれたりもしていた。アメリカは史上最悪の時代をすごしていたが、そのあおりを受けてか日本も、青息吐息の殺伐に沈んでいた。
東京の街は、革命闘争の余風に終始さらされ、夢も理想も、新宿の埃の下敷きになっていたような時代で、他者を楽しませる誠意や、陽気な好ましさなどどこを探しても見当たらず、上手な嘲笑や他人見下し、巧みな威張り技量ばかりが街を闊歩していた。おそらくは文楽世界もまた、そうした時代の失速感のうちにあったのだろう。
今語れば笑い話だが、当時は藤田君も、それなりに気分は深刻だったに違いない。
忘れていたが、ぼくもまた思い出す。ヴェトナム反戦デーの集会に出かけて、新宿と高田馬場の街で、生まれてはじめて催涙弾の洗礼を浴びた。白い煙をあげてアスファルトを転がってくる催涙弾は、アイスホッケーの球に似ていた。
そこに、大阪大学の大垣教授が登場した。 (つづく)
 
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved