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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第264回
島田荘司のデジカメ日記
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6−11(日)、有隣堂、ルミネ横浜店でサイン会
雨模様の空の下、講談社S村編集者と2人、東横線に乗って横浜に向かう。有隣堂、ルミネ横浜店で、「帝都衛星軌道」刊行のサイン会を行うためだ。
子供の頃、休みのたびにお婆ちゃんに連れられ、福山市から両親の暮らす学芸大学の家に上京した。六中の塀に接した小さな家で、窓辺にいたら、校庭でキャッチボールをしている生徒たちの交わす声が聞こえた。その丁寧で優しい東京弁に、祖母が感心して、あんなふうに話していたら、喧嘩にもにならんじゃろなと言った。
日曜日には、東横線に乗って、入港しているプレジデント・ウィルソン号に乗りに行ったり、中華街に食事に行ったりした。当時は桜木町から延々歩いたものだが、今なら関内は地下鉄になって中華街に直通だ。六中も少子化の波で、各学年一クラス、そのクラスに女の子は1人だけ、などという時代になって、五中と合併、というような動きが出ているらしい。ずいぶん時代も変わった。
有隣堂は、横浜には何軒もあって、今日のサイン会は、横浜駅前のルミネに入っている書店で行う。サイン会は、運営が若者に任されているらしくて、着いてみたら、終始若いスタッフが相手をしてくれた。ここでは、若者らしい、他の店にはないプレゼントの趣向が用意してあって、「有隣堂スタッフが語る、島田荘司先生と私」と題する印刷物をくれた。各町に散らばる有隣堂チェーン店販売員のうちの、拙作が気に入ってくれた人たちからの感想文が、寄せ書きふうになったものだ。
これがとてもよくて、感激した。みなさん非常に表現が上手で、才能がある。もしも拙作を読んでの感動が、こうした表現を引き出したのだとしたなら、これは大いに書き手冥利である。何枚かコピーして、知り合いとか、ふくやま文学館にもあげようかなと考えた。
各コメント、それぞれ琴線に触れる表現があって嬉しい。引用すれば、お世辞を間に受けての能天気と思われるであろうが、志が共通する人には是非読んでもらいたくなって、以下にほんの一部を書いてみる。

たとえばエスト新宿店の浅川さんの御手洗観。「人との距離を異常にとるわりに、一度許してしまえば、際限のない包容力で大切にしてくれる」感じ──。なるほど、あの男はそういうところがある。こちらが意識していないことを、外部から指摘してもらえる。
アトレ恵比寿店の内山さんからのコメント。飲み会の帰りにランドマーク下からタクシーに乗ったら、運転手に、「暗闇坂を通っていいですか?」と訊かれた。この時はじめて、自分が、「暗闇坂の人食いの木」のそばで働いていたと知った。以来、暗闇坂は散歩コースとなったけれど、夜遅くにぞくぞくしながらタクシーで通ったあの夜の坂が、「一番暗闇坂らしく感じられます」。
ルミネ横浜店の上村さん、「たぶんボク、本屋じゃなかったら読まなかった。だから本屋でよかったなぁと。ありったけの気持ち込めて言います、島田荘司、読んでみてください、面白いよ! と」。
小田原ラスカ店、佐伯さん、「何年か前、有隣堂の友達に、『一冊も読んだことない』と言ったら、『書店員のくせに!』となじられたことがあります」。「まだ島田荘司未体験の書店員たちに、『えーっ、一冊も読んだことないの?』と、今度は私がなじり返す番だと思っています」。
エスト新宿店、安田さん、「同じファン同士でも時間を共有し、出会えたということは、モノクロになりがちな人生の中でも、数少ないカラーの時間なわけです」。「先生に豊かな思い出をいただいたことに、最大限の感謝をいたします」。

こういう何気ないコメント群に、作家がどれだけ心打たれるか、たぶん言っている人たちはピンと来ないであろう。読んだこちらは、よし、と思い、気分が他愛なく新たになって、ここで触れてくれているのに、何故なのか過去に書いたものがすっかり忘れられてしまい、よし、今までのものなどただのウォーミングアップ、これからが本気だ、見ていて欲しい、などと燃えてしまう。
帝都衛星軌道」という作は、ぼくにとってはジョギングだった。「摩天楼の怪人」などは、全力疾走が随所に入った。これは「帝都」は手を抜いているという意味では全然なくて、料理人でたとえたら、摩天楼は和食の料理人がアメリカ料理に挑戦したようなもの、まだ作った経験がないタイプだから、随所で必死にもなる。「帝都」は、これまでに何度か作ったタイプの料理だから、リラックスして仕事が楽しめたという感じだ。そういう態度での料理が、必ずしも出来が劣るとは決まっていない。
これは例の自己弁護ではなく、むしろそう決まっていてくれる方が、こちらはよほど楽なのだが、過去全力疾走したものより、ジョギング仕事の方が高い評価を受けることはしょっちゅうあった。ただ全力疾走の形跡だけがよく解る人はいて、中身というよりも、全力か否かの部分だけを取り出し、機械的にジョギング態度をなじる人はけっこういる。これはやはり和風行議論の感性に、心が鍛えられてしまっているのだ。こういう人への先廻り気分もあって、「正直言って自信作です」、と今回は言ってみた。

会場のデスクに行ってみると、目の前の階段に、やはり大勢の人が並んでくれていた。ずうっと階下に向かって、階段を下りながら並んでいる。だから最後尾は見えない。壁にもたれかかり、文庫本を読んでいる人もいる。
この日も、印象に残った人たちはたくさんいた。年配の女性たちとの会話が楽しかった。このような人たちで国が埋まってくれれば、自殺者は止まると実感する。そうかと思うと、あきらかに女子高生が、友人とも連れだたず、単独で並んでくれていて感動する。群れず流されず、1人で為したこの日の決意行動は、近くきっと意義ある行動に結びついてくれそうな予感がする。
ちょっとスリルがある熟年男性もいて、「中編の『帝都』を、どうして前後編ふたつに割ったのですか?」と問うて来る。それで、切った場所で、6年という作中時間が経過すること、こうしたことの表現と、封印された帝都の秘密が、ああすることによって接近し、より印象が強まるのでは、と予想したからだと説明した。
すると笑って、「ああそうですか」と言ってすませてくれた。少しでもみなと違うことをすると、行列からのそのはみ出し具合が不行儀だぞ、とばかりに、即刻噛みついてくる人がいるが、この人はそういう人ではなかった。しかしやはりわが画一教育の成果で、前例破りはかすかに不快、と無意識、反射的に感じる日本人はなかなか多い。予想通り、今回もこうした声は聞く。
横浜暗闇坂に引っ越したというライターの阿波木伸さんが、新婚の奥さんと2人、並んでくれていた。奥さんも可愛い人だったが、阿波木さん自身、学生のようなういういしさを維持した人で、大変好感を持っている。世間のルポライターという人は、著名人には常に意地悪なやっかみ視線を持ち、ただ騒ぎを起こしておいて嫉妬大衆に阿諛し、日銭を稼いだり、名前を売ったりする人がままいるが、阿波木さんはそういう人ではないと信じている。大衆阿諛の騒ぎなどは起こさず、関らず、自身のペンや活動が、日本人総体にとってどういう意味があるか、困っている人たちをどのくらい救えるのか、そういったことをきちんと考え、判断のできる人と思っている。
今ぼくは、あんまり自殺者のことが頭にひっかかっているから、今人の価値は、眼前にした自殺者を止められるか否かではないか、とだんだん思うようになった。一番止められない人が、「自殺なんぞしたらいかん、遺された家族がどう感じると思っているか!」などと説教をはじめて、相手の「申し訳ありません」の演技を期待するような正しい日本人で、止められる人は、ただ雑談をするだけで相手の気分を楽しませ、生の意味をふいと思い出させるような人ではないかと思う。
この日のエポックは、天さんという人と再会できたことで、目の前に1メートル90近い、雲をつくような大男が立ったなと思ったら、これが天さんだった。彼はもともとN大の応援団だった猛者だが、非常に穏やかな人柄で、いっとき、大変親しくしていた。あれはバブル全盛の頃で、彼と一緒にヨーロッパ中を股にかけ、自動車取材紀行に駈け巡った。
ルマン24時間レースの観戦にも何度か行ったし、ポルシェやベンツの工場を見学し、その後、パリに向かってアウトバーンを疾走したり、当時国連の査察官をしていた久保田N大教授を、ジュネーブで紹介してもらったりもした。この時教授が、たまたま近所に住んでいた読売新聞記者を紹介してくれたのだが、この人こそが、かの「三浦和義事件」で、情報公開法を楯に、「現場に白いブァンがいた」、の大スクープをものにした人物だった。このあたりのことは、拙著「三浦和義事件」の巻末に書いた。
久保田教授は、その後国民総選挙の監視でナミビアに入り、思いがけず命を落とすことになるのだが、狛江市で行われた彼の葬式に、ともに行ったのも天さんだった。日本列島に縦貫道が開通したというので、青森から九州まで、一気に疾走したのも天さんと2人だったし、イタリア半島を疾走して、モナコ王妃の娘が事故死したつづら坂をくだり、モナコでF1を観戦したのも彼とだった。
やっている当時は、格別どうとも思わなかったが、今思い返せば、あれこそは作家生活華の時代であったかもしれない。あの頃は、わが車文化もピークに花咲いていたし、F1は、今のサッカー以上に、みなを興奮させるスポーツだった。そういう意味でもあれは、二度と味わえぬ、楽しい日々だった。
その後、こちらが車の仕事から離れたせいもあり、彼とは疎遠になっていたのだが、彼の住まいは、そういえば横浜だった。ルミネを歩いていたら、タテ看に「島田荘司」の名を見つけたので、懐かしくなって並んでくれたのだという。あの頃の毎日が楽しくなければ、彼も並んではくれなかったろうから、こちらもとても嬉しかった。
くれた名刺を見たら、日本メディカルサーヴィス株式会社の専務取締役となっている。知らない間に、ずいぶんと偉くなっていた。さっそく酒場に直行、一献酌み交わして、尽きぬ昔話でもしたかったのだが、残念ながら後がつかえているので、また後日、連絡を取り合うということにした。

今日もまた、少しも疲れを感じず、とても楽しいサイン会だった。控え室に入ってひと休みし、店頭用「帝都衛星軌道」に何冊かサインして、世話してくれていた若いスタッフたちと記念写真におさまったりしてから、握手をして別れた。
雨の中、S村氏と近くのホテルのタクシー乗り場まで歩き、タクシーで中華街そばの喫茶店まで移動し、SSKのいつものメンバーや、原書房I毛氏などと喫茶店で落ち合ってから、中華街の翠香苑に繰り込んで、うずらひき肉の、レタス包みを食べた。I毛氏が個室をリザーヴしておいてくれたのだ。そこに講談社文三部長の蓬田氏も合流し、みなで紹興酒とビールで乾杯した。今回のサイン会の予定はこの2つだけだから、これで終了、一段落である。
食事が終わって表に出ると、小雨はまだ降り続いており、陽は落ちていた。店の前で記念撮影、それからみなてんでに傘を広げて元町方向にそぞろ歩き、ミントンハウスに行った。
マスターが歓迎してくれ、気をきかせて「エアジン」をヴォリウムをあげてかけてくれた。快い疲れの中、雨の中からやってきた店内で聴くウェス・モンゴメリィは、また格別である。店内の棚を見ると、まだ文庫版「異邦の騎士」があり、「ネジ式ザゼツキー」が加わっていた。横浜在住の誰かが持ってきてくれたのだろうか。こっそりと、これにもサインをしておいた。
みなでまたビールのジョッキを持ち、飲めない人はコーヒーカップで、「異邦の騎士」の舞台でもう一度乾杯した。
 
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