島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第259回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
4−8(土)、原宿の軍艦島
乱歩さんの「陰獣」であったか、もう少々うろ覚えだが、上野の民俗学博物館の館内を歩いていたら、読者だという魅力的な女性に声をかけられ、楚々としたその美貌もさることながら、このような教養的な場所をさりげなく歩く趣味も好ましくて、自分はこの女性に興味をひかれた──、といった表現があったように思う。
上野の博物館の、冷え冷えとした暗がりのような風情はぼくも好きで、割合よく歩く。ガンダーラの石彫り仏像の置かれたあたりは特に好きで、別に熱心に観るでもなく、何となくぶらする。この館内の様子は、ロンドンの博物館と似ている。カイロの博物館も思い出す。何故なのかアメリカ、特に西海岸の博物館は、この様子がない。床はたいていカーペット敷きで、壁の色は明るく、もっとモダンな印象になる。
これは館自体に骨董品的な雰囲気があるからだろう。床は時に波うち、壁はただ古い石の色で、もう今となっては昔となったある時期、必死の本気で作ったという気配が漂う。まあわが街にもこのようなものをひとつ、といったものではなく、無教養のそしりに追い詰められ、施設の必要性に真剣になっていて、全身全霊で建設したといった、不器用な熱気が感じられる。
それと、あるいは関係があるかもしれない。博物館地下にある、土産物のコーナーがとてもよい。ものによっては高価にすぎて手が出ないが、非常に出来のよい、趣味のよい品が並んでいる。これは昔から、ずっと水準が変化しない。上野の博物館に行くと、ここを覗くのが楽しみである。いにしえの古器、名品の持つ美への理解が正当で、それをよく生かした品を作っているから感心する。
やはり日本人、大したものと思う。目もくらむような変なこともするが、こういう趣味の追及、そのセンスも熱意も本物だ。博物館の意義が、ある意味でここに結晶している。本気の真剣が導いた成果が、ひっそりと並ぶ。こういうことは評価しなくてはいけない。ここにも物づくりのヒントがある。大昔にここで買った状差しなど、気に入ってアメリカに持ってきて、今も使っている。
もっともこれは、世界中の博物館に共通はする。ロンドンの博物館の土産物コーナーにも、趣味のよい小物がたくさんあった。ニューヨークのメトロポリタン美術館にもよい品が多く、あれこれ買いたくなって困った。

まだ桜が咲いている時期なので、ぶらりと上野に行ってみた。好天の桜の下、公園の沿道に延々と青いヴィニールを敷いてすわり込み、酒を飲んでへべれけになっている姿は、江戸以来の伝統だろう。ただし江戸の当時、ここまで組織的、パターン的定型行動であったかどうかは疑問だが。
しかしこういうところ、日本人はしようがないとは思わない。こういう様子はあんまり海外では見ないが、少々無様でも別にかまわないと思う。酒を飲んで日頃の我慢がぽんと裏返り、オレ様の歩いていく前から身をよけなかったからこっちの面子が立たない、といった重大知的な理由から殺し合いになるという、例のみっとみなさよりは平和で、無根拠の威張りに発展しない限りは、あらゆるわが無作法も、それなりに楽しい。
不忍池の、中の島に向かう沿道に、露店が軒を寄せてぎっしり並んでいる。これがまた江戸的な風情だ。江戸の頃、まったく同じ様子で、ここに出会茶屋が並んでいた。出会い茶屋というのは要するにラヴホテルで、性行為のための場所を公けに提供した。しかし中は、表でするよりは多少マシといった程度のもので、衝立の並ぶ間にただ褥が述べられていた。衝立から顔を出せば、隣のカップルが見える。これは火事で焼けた際の、吉原の臨時営業所もそうであったらしい。今でも会員制のデート喫茶でこうしたものがあると聞くが、そうならこれもまた、江戸の伝統である。
江戸というのは、今日の東京と変わらない喫茶店ブームの街で──、と話しはじめたら停まらなくなるし、作品化の予定もないではないから今は辞めておく。ともかく人間、DNAの命じるところにはなかなかあらがいがたく、江戸、明治、大正、昭和、平成と、ジェットに自動車、携帯電話にPCの時代になっても、日常やっていることはたいして変わらない。出版物のブーミングも、乱歩さん、横溝さん、塵劫記的「頭の体操」に、近松ふう「失楽園」と、「江戸」をキーワードにすれば、読み解けるものは多い。

上野を後にして、原宿へ行く。以前から気になっていた安藤作品、「表参道ヒルズ」を見物にいく。こういう自分の行動もまた、なかなかに江戸的である。
「六本木ヒルズ」に「表参道ヒルズ」のネーミングに文句をつけるのももう飽きた。かつての淀長さんのように、決まり言葉を徹底して口にし続ければ、声帯模写の方が真似疲れして去っていくという、これもあれであろう。しかしこのヒルズにはむろんもっと深い意味があって、そうした批判自体が集客につながるという読み、ほかのもっと妥当な、よいセンスの名前をつけた際にさがる収益の数字と比較して、やはり安全なところを採るという、経営戦略上の高度な判断であろうから、これは致し方がない。
これも江戸鎖国の発想で、海外からの見え方は考慮、計算されていない。この格好悪さは、日本人にのみの絶対的好印象、高得点で、結局長い目で見れば、海外での日本製品のイメージ低下につながって、販売収益はさがる。しかしこれもまた承知の上なのであろう。下がったその頃は、自分はもう退職隠居している。もっともそうした先人のつつましいたしなみのツケで、自動車産業はかつて、えらい苦労をさられた。イメージというものは、金に響くのである。
ヒルズの中に入ると、例によって制服警備員があちこちに立ち、「立ち停まらないでください!」、と上から言わされており、手すりには撮影禁止のマークがぺたんと貼られている。こういうわが信長、秀吉的大衆威嚇の習慣、お客に来ていただく商売施設にもかかわらずの、相変わらずの迷いのなさ、喧嘩国家、人情殺伐国家、自殺国家ぶりをよく示すが、そういうことは考えないようにして歩いていたら、なんだか妙な既視感が来たから驚いた。だから、この作品にはそれほどの衝撃は受けなかった。まあすでに内部の景観をよく知っていたせいもあるが。
ぼくは建築ファンで、安藤氏の作品はとても好きなのだが、安藤作品に、時に要塞的魁偉さを感じる時があり、またそれがこちらの意表をうまく衝いてくれて好きなのだが、なかなか具現化はむずかしいそうしたアート発想の部分が、このヒルズには、直島に続いてよく出たように感じられて、面白かった。
巨大トーチカのように地下に沈んでいく多数店舗と、その中央に開いた舟形の巨大亀裂、その大空間に沿う回廊をぞろぞろと行列してくだって、最底部の大階段に立ったら、これは京都駅ではないかと、ふと思いついた。
京都駅のあの思い切りのよさ、雄大なまでに無駄な空間の使い方は、大きな衝撃だった。人間の作り出した人工物に、あれほどのショックと感動を受けた憶えは、後にも先にもあれ以外、なかなか記憶がない。
京都駅の建築コンペでは、安藤氏もあのアイデアに敗れた。地底の階段室に立ち、そろそろと段を登っていくと、安藤氏もまたあの京都駅には思いが残り、このヒルズの底部で遺恨試合をやったのではという気がしてきた。むろん安藤氏はもうそのような立場ではないから、女々しい意味(これは男に対してしか使わない、女性には誠に失礼な用法だが)でではなく、あの京都駅の大階段建築、そして全体としては、雄大な岩場のようなRC構造物現出の成果への、安藤流の敬意の示し方があるような気がした。
そして、底部の階段から見上げさせて現れるこのユニークな高層建造発想は、これは軍艦島だ、と思いいたった。既視感の最大の理由は、京都駅を思い出させる階段室ではなく、この軍艦島的な異貌だった。

軍艦島はとても好きで、2度ほど訪れた。廃墟好きの人間としては、住人の生活臭が残る前の訪問の方がよりよかった。70年代、島が放棄された直後に行けたらもっとよかったろう。
この表参道ヒルズは、よく知られているように、同潤会アパートの跡地に建てられた。表参道のけやき並木よりも背を高くしないという発想から、地上は3階、地下に向かって跡地の中央部を掘り下げ、地中へ向かう高層階として、こんな風変わりな多層建造物とした。一般に日本のRC(鉄筋コンクリート造)高層建築物は、この同潤会プロジェクトが最初のもののように思われているが、実はそうでなく、日本最初のRC高層建築は、軍艦島である。これは大正5年に、すでに地上7階建ての鉄筋コンクリート集合住宅を、清水組が島に完成している。理由はむろん、島が狭くて、土地がなかったからである。
軍艦島、正式名称、長崎県端島は、灰分や硫黄分が少ない、日本随一の品質の石炭産出を誇った。したがって石炭産業最盛期には、島には5000人を超える炭鉱関係者が暮らしていた。しかし土地がないから、住居は空に向かって伸びるほかはなく、わが高層建築は、この僻地の島に早々と出現した。
この狭い島に、映画館、床屋、飲み屋、パチンコ屋、本屋、神社に野球のグラウンドと、すべてが揃っていた。目抜き通りは、長崎の孤島に出現した都会で、緑は屋上の植木として並び、屋上緑化のはしりで、高学年児童の野球場も屋上だった。公道といえば大半が鉄筋アパートの狭い廊下で、採鉱の仕事は24時間勤務の3交代制だったから、いつも誰かが廊下を歩いていた。
表参道ヒルズ、底部大階段からの眺めは、軍艦島の眺めによく似ている。高層廃墟の隙間から上空を見上げれば、大半がこうした光景で、製図的に整頓された線分に拠らないヒルズの設計ポリシーも、未熟だった軍艦島初期、RC構造物を思わせる。ぼくはもう廃墟になってからの島しか知らないが、最盛期の頃、島は超過密地帯で、1ヘクタールあたり1000人の住人が折り重なって住んでいた。それらの人たちが、公道たるアパートの廊下を、ぞろぞろと折り重なって行き来し、暮らしていた。軍艦島は、いわば天草灘の黒潮が洗う蟻塚だった。
安藤氏の仕事のある部分は、一種の既視感から導かれているように感じる。それは安藤少年が軍事施設を実際に見たというのではなく、時代が少年の脳裏に幻想の像を結んだ、その像の記憶である。これは、宮崎駿氏にも感じる。安藤氏が地上の施設、宮崎氏の残像は、兵搭乗型の兵器である。
これがまたDNAのなせる仕事かもしれない。傾斜生産方式(OTP参照)下の長崎の炭鉱、そして軍国時代の要塞残像、日本人が無理を重ねてあえいでいた時代の体験記憶が、安藤作品にぼうと像を結ぶのは、いつも不思議である。
 
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved