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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第258回
島田荘司のデジカメ日記
1−18(水)、東京大空襲の夜
激動の幕末、ペリー率いる黒船は、長崎でなく江戸湾に姿を現し、久里浜に上陸して日米和親条約、続いて修好通商条約を強引に締結して、鎖国の扉を蹴破った。以前にこの日記でも書いた記憶があるが、以来幕府は異国勢力の江戸湾来襲にそなえ、湾内の海防施設を徹底補強し、鉄壁のものとする。これを引き継いだ薩長系の新政府は、「帝都衛星軌道」で触れたような、皇居周囲にひそかに地下壕を巡らせ、敵の上陸侵攻にそなえる。日本の降伏という戦争ゲームの終了は、皇居に白旗が立った時、という考え方からである。
しかし世界大戦が開戦し、欧州での戦闘の推移から、夷荻の本土侵略の手順は、東京湾からでなく、上陸用襲艇を用いて九十九里浜に上がるものになりそうだと考えて、急遽松代地下に大本営を移す計画をたて、中仙道にトーチカを構築などする。
しかし昭和20年になった黒船再来襲は、それらのどれでもなく、大本営には意表を衝く空からだった。アメリカ軍による日本の白旗要求は、かつて英戦艦、プリンス・オブ・ウェールズや、レパルス、また真珠湾に対して日本軍が為したようなやり方で、徹底空爆だった。これがついに広島、長崎への原爆投下に発展して、日本は敵の首都上陸作戦なしで降伏するという、当初は予想もしていなかった結果になった。

昭和19年3月10日未明の東京大空襲は、後年われわれが認識しているよりも、遥かに悲惨な事件だったようである。アメリカ側からの発表によって、それらが徐々に明瞭になってきた。
これまでアメリカ軍は、人道的見地から、日本の軍需産業をピンポイントで空爆していた。しかし日本人の徹底抗戦の決意は硬く、その意識は一種の信仰心にまで高まっていたから、降伏の気配はさらさら見えない。そこで業を煮やしたアメリカが、日本早期降伏の切り札として太平洋に送り込んだ司令官が、欧州戦線で数々の戦果をあげた、カーチス・ルメイだった。ルメイは、女性や無垢な子供も大量に殺すことが日本人の戦意をすみやかに削ぎ、降伏を促して、結局は日本人民の幸福につながると周囲を説いて、前例がないまでに徹底した、日本本土の焦土作戦を立案する。
用意したものは、M69焼夷弾という兵器だった。これは長さ50cm、重さ2・7kgほどの小型、六角柱の鉄の筒で、中にはゼリー状にしたガソリンの袋が入っていた。この焼夷弾を38本ずつの束にしてB29から投下する。するとこれは空中でばらばらに分解し、1本ずつになって地上に落下する。日本民家の屋根を貫通し、室内に飛び込んでのち、数秒後に破裂して、火のついた粘性のあるガソリンを室内に撒き散らす。畳や襖の日本家屋はたちまち燃えあがって、中から家を焼く。そしてこのガソリンは、水をかける、布団をかぶせるなどといった個人レヴェルの対処では、どう頑張っても消せない仕組みにできていた。
最初の空爆は、人工密集区域を狙うのがよかった。そうすれば犠牲者の数は多くなり、その悲惨さは風聞になって島中を覆うから、国民の厭戦機運が煽られて、世論は一挙に降伏に向かうだろう。そして、東京の浅草や、本所、深川など下町が、見せしめに選ばれた。ここには1平方マイル、つまり1・6km四方の中に、10万という日本人が折り重なって紙と木の家に暮らしている、そう米軍は考えていた。鉄筋の建物はごく少なく、しかもこれが日本の首都であり、一撃目にはまさに理想の場所だった。実際東京下町には、当時から100万人という市民が暮らしていた。
ルメイは、隅田川をはさんで東西に2ヶ所ずつ、計4ケ所の攻撃目標を設定した。そして空前の量の焼夷弾を用意した。これにより、4ケ所を中心とした28・7平方kmという下町の四角形を、焼失予定区域に想定して絨毯爆撃を行い、完璧な焦土と成す計画だった。米軍は木製の日本家屋の原寸大模型を作り、これに向かって種類の異なる焼夷弾を投下して、着火燃焼や、延焼の具合不具合を、事前に入念にチェックした。その中で最も効果をあげたものが、新開発のM69だった。

かくして昭和20年3月9日、マリアナ諸島の基地から発進した300機を越すB29の大編隊は、7時間をかけて東京上空に雲霞のように襲来した。迎撃してくる国防戦闘機は、日本にはもうほとんどなくなっていたから、B29は燃料を往復ぎりぎりしか積まず、できるだけ多くの焼夷弾を搭載して、悠々と最短距離を飛来した。
最初の1発は、3月10日になったばかりの零時7分、深川区の本所に投下された。そして2次隊、3次隊と次々に来襲して、2時間53分に渡って、32万7千発に及ぶという空前の絨毯空爆を敢行した。
当時東京の民家の地下には、政府の指導で穴が掘られ、防空壕が作られていた。こうした防空壕は往来にも点々と掘られ、上には畳や板、トタンなどで簡単に蓋がされ、空襲があればこの中に逃げ込んでしばらく待っていれば安全と、政府に指導されていた。総武線沿線の南北は民家が取り壊され、火よけ地帯と称する空き地がベルト状に作られて、ここにも整然と、そうした防空壕が掘られて並んでいた。
ところがこの夜の空襲は、これまでのものとはまるで規模が違った。ルメイの想定した焼失予定区域は、文字通り火の海になり、それに加えてこの夜、米軍にとっては神風、日本人にとっては神に見捨てられた地獄からのもののような、北西からの強い煽り風が吹いていた。この風は焼夷弾の熱気によってやがて風速40mという火事場風に変わって、焼失想定区域は業火が覆ってとうとうと流れる、炎の濁流となった。
空爆に飛来した米軍パイロットの証言では、遅れて到達した後発の編隊は、攻撃目標に焼夷弾を落とすことができなかった。地上の炎によってとてつもない上昇気流が生まれており、区域上空はまるで火山の上空のように乱気流にもまれていた。飛行機は、床が抜けたかと思うような急降下をする。停まったかと思うと吹き上げられ、乱下降を繰り返す。到底目標には近づけず、高度を保つのがやっとで、周辺に焼夷弾を投下して、ほうほうのていで基地に戻るしかなかった。地上からは安定した空の王者と見えていたB29も、内部はそんな様子だった。
まして地上の地獄は、これは筆舌に尽くしがたいものがあった。当時の本所区には鉄筋建ての国民学校がいくつもあり、なかでも双葉国民学校というものは、当時としては堅牢な鉄筋3階建ての校舎で、いざ空襲という際は、逃げ込む目標とみなされていた。しかし風速40mの火事場風にあおられ、ある瞬間、この鉄筋校舎のすべての窓ガラスが粉々に砕け散って、それらのすべての窓から、炎が滝のように流れ落ち、地上を濁流のように走ったという。
双葉国民学校周辺の人たちは校庭に集まってきていたから、そうなったら多くの人が、校庭にあったプールに飛び込んだ。沈んだり、水上に顔を出したりを繰り返して九死に一生を得た人が、そうした光景を語り継げる人になった。しかしこのプールでもまた、折り重なって、多くの人が溺死した。
床下や、往来の防空壕に避難した人たちは、これほどの業火では到底助からず、空しく蒸し焼きとなった。出てはいけないと厳しく指導されていた人たちのうちに、いち早く防空壕を飛び出し、広めの往来を走って、総武線のガード下で助かった人もいる。しかし火よけ地に着いて、並ぶ防空壕に入れて欲しいと頼んだら、もう満員だからと断られて石積みのガードの支柱前に立っていたら、火よけ地の空き地に無限の火の粉が飛来して散り敷き、真っ赤な砂浜のようになった。これらがみるみる炎の流れとなって火よけ地を覆い、大河のように流れて、たった今自分が入れなかった目の前の防空壕に、次々に火がついていったという。
何もないと見えた場所にも炎が走る現象は、不思議だったと多くの人に証言されている。たとえば浅草地区の言問橋の上は、水の上でもあり、火がつくことはないと考えて、みな橋の上に集まっていた。ところがある瞬間、轟音とともに橋の上を炎が走って、たたずんでいた人たちに火がついていった。彼らは断末魔の叫び声をあげながら、欄干にもたれていた人々を乗り越えて、川に飛び込んでいった。何もないと見えても、橋の上には荷車とか、人々が手に持った荷物などがあって、これに火がつき、着衣に燃え移っていったのだろうという。
ルメイの想定は、さまざまな意味で誤算があった。しかしそれは、米軍にとっては悪くない結果だった。地上に強い北西からの風があったこと、老朽化した日本家屋は、米軍が実験のために作った木造家屋より遥かに燃えやすかったこと、述べたように後続の空爆隊は、到底攻撃目標地区上空には入れなかったこと、「帝都衛星軌道」で述べたような事柄も、あるいはこれに加えてよいかもしれない。これらの要因から、焼失区域は米軍の想定よりも遥かに大きく広くなって、28・7平方キロの予定が、41平方キロに及び、この一帯での一夜の死者は、9万人とも10万人とも言われる。

1月18日のこの日、旧友寺本幸司氏に渋谷で会った。安井ひろみプロデューサーや、香月プロテューサー、文春のA俣氏やI井氏も一緒だった。
寺本氏は音楽プロデューサーで、浅川マキとかリリー、桑名正博の育ての親として知られる。しかしまだ現役で、業界には依然、隠然たる勢力を保っているらしい。ぼくにとっては高田純氏などとともに30年来の友人で、かつて「ロンリーメン」というLPを、ポリドールで作らせてくれた恩人でもある。最近、吉敷もののテレビ化で高田氏とつき合いが復活したので、寺本氏とも会おうという話になって、この日会って、香月氏、安井氏などを紹介した。
香月さんが、拙作「暗闇坂人食いの木」を東映で製作することなったと聞いて、それならその前売りのティケットを千枚買うよ、などと相変わらず頼もしいことを言ってくれていた。また彼は、「夏19歳の肖像」がいたく気に入ってくれていて、これを映画化するなら、さまざまな面で協力すると約束してもくれている。彼は青春映画が大好きで、最近の作では「パッチギ」がいい、あれは是非観て欲しい、などとぼくに言っている。
寺本氏は、昭和13年8月の生まれだが、月島生まれの月島育ちで、つき合いがあった当時から、月島での体験とか、勝鬨橋体験などを聞く機会があった。なかなかに貴重な証言と情報を、よく得させてもらった。たとえば勝鬨端は彼の少年時代、日に2回程度開いていたが、そのたびざーっと砂が落ちてきて、時にもうもうと土ぼこりが舞うことがあったといった話など、なるほどそんなものだろうと思って聞いた。
彼の青少年時代、橋があってもまだ渡しは残っていて、女性に会いにいくのも、振られて、オレはもう男として一生立ち直れない、この先生きていけるのだろうかと落ち込みながら帰宅したのも、勝鬨橋ではなくて、渡し舟だった。
彼は日大文学部の出身で、書ける人である。当時仲間と作っていた同人誌を、昔読ませてもらって感心したから、ミステリー寄りの短編を書いてもらって、昔立風書房で「奇想の復活」というアンソロジーを編んだ際、収録させてもらった。業界に入ってからだが、彼はアメリカの高名なマジシャンと組んで仕事をしたことがあり、その時の体験や、彼から聞いた話をもとにして書いたトリッキーな作品で、悪くなかった。もっと書けとさんざんに進め、編集者まで紹介したのだが、とうとう書かなかった。この日もそんな話になったから、以前に聞いた、中国地方三瓶山疎開時の体験談が面白かった、あの話も書くべきだとまた水を向けたら、この日は思いがけず、東京大空襲の時の体験が聞けた。

もっともこの日、彼はまだ6歳だったから、はっきりとした記憶があるわけではない。ただこの日の未明、子供なのに彼は起きていた。彼の家は瀬戸物屋をやっていたが、いざという時は逃げなくてはならないから、親も何も言わなかったのであろう。
彼の話は、述べたような話とは違って、なんだかのんびりした様子である。月島は、ルメイの想定した焼失予定区域からは、隅田川の水域分、わずかに南にはずれている。またこの日の空襲前は、それまで毎日来ていたB29だが、4日間ほど襲来してなかった。またそれまでの空襲は、3月10日のものほど大規模ではなかったから、当時の月島住民の危機意識はそれほど切羽詰ってはいず、子供たちものんびりしていたのであろう。しかしこの日の深夜、寺本氏の家から隅田川のわずかな水域分を隔てた北寄りの四辺形では、地獄絵図が展開していた。
寺本氏には兄がいた。下町一帯に絨毯爆撃が始まった時刻、彼らは寝床を飛び起きて表に出た。猛烈な轟音が轟き、北の浅草、本所一帯は火の海になっていて、煌々と夜目にも明るかった。きな臭い匂いとともに、風に乗って猛烈に火の粉が飛んできた。
その時、寺本氏がふと屋根を見ると、兄貴が自宅屋根の上にあがっていて、箒で降りかかる火の粉を掃いていた。雪のように降る火の粉と、兄が屋根から履き降ろす小さな滝のような火の粉を、寺本少年は美しいと思って見たという。
乱歩さんも、どこかの作品に書いていた。戦争は悲惨なものだが、見ようによつては美しいね。轟音とともに飛来するジュラルミンの巨大な機体、悪魔の帝王のようなその下腹に、地上の業火がちろちろと映じて、その様子は悪夢のように美しい──。そんな乱歩さんの一説を、聞いていて思い出した。
ただしこういうものは、安定した歳月のうちに脳裏で脚色された記憶の光景で、米軍パイロットの証言では、乱気流で実際にはそれほど低くは飛べなかった。地上7千mがせいぜいだったという。
寺本氏の兄のこの時の対処は、正しかったように思う。この頃は、そうした指導が地域であったものかもしれない。焼失想定地域を充たして濁流のように流れたという炎や、火よけ地に並んだ防空壕に何故次々に火がついていったのか、言問橋の上に、何故突如炎が走ったのか、これらの理由は、飛来して地上に散り敷く、無限大の量の火の粉であったように想像する。したがって屋根の上に堆積する火の粉を、炎になる前に履き棄てるという対処は正しい。
それから夜が更け、火勢がやや衰えたふうだったから、寺本氏は、兄に手を引かれて隅田川べりを歩いて北上した。そして、今となっては人類が二度と目撃体験のできない地獄絵図を見た。無残な焼死体、隅田川に浮かんだおびただしい死者の姿。
子供心に、恐怖心というものの記憶がない。ひどく無残な死体を、近づいていって、じっと見つめた。何故なのか、そうしないではいられなかったという。何をするでもなく、ただじっと見つめて、その地獄を脳裏に焼きつけた。いや地獄も何もない、恐怖も、怒りも、悲しみも、そうする必要性も不必要性も、何ひとつ感想や感情は持たず、ただじっと見つめた。見つめては歩いていった。
そうしているうちに、果てしなく同じ光景が繰り返されるゆえか、それとも二度と家に帰れなくなりそうな不安がつのったのか、6歳の子供は兄に向かって、兄ちゃんもう帰ろうよ、と言った。そのことを妙によく憶えているという。そうしたら兄は、うん、そうだなと言った。それで2人で家に向かって引き返した。

このような体験は、われわれの世代にはできない。うらやましいという気もするが、飛来したB29が目標地点の乱気流に恐れをなし、手前の月島に焼夷弾をばら撒いて帰っていたら、彼ら兄弟も命はなかったかもしれない。そうなら寺本氏も、後年成人してアメリカン・ポップスが大好きになり、音楽プロダクションを開いて、ニューミュージックのレコードを作る仕事はしてはいなかった。この夜更け、隅田川の水域ひとつを隔て、彼は死とすれ違った。それは7千メートルの上空からは、まさに紙一重のことであったろう。
家に帰り着き、翌日、本所、深川、浅草の惨状が伝わってきて、寺本氏の両親は親戚を頼って疎開をする決心をした。それが中国山地の山裾にある、三瓶山の近くだった。これはぼくが高校時代、キャンプ旅行に行った場所である。
寺本少年は、ここでも歴史的な惨事を目撃する。ある朝、校庭で鉄棒をしていたら、どーんという音が広島方向でして、きのこ雲が見えた。情報がない時代だったから、この日はそれで終わりだった。
後日、草原にある好きな大木によじ登って遊んでいたら、広島方面からうねって続いてくる小道を、まるで行列するようにして、ミイラのように包帯だらけの人たちが、三々五々歩いてきた。原爆の犠牲者たちだった。
こういう歴史的な光景を目にした文学部出身の者が、それを文章にしないでいるのは怠慢だ、と会うたびにぼくは責めるのだが、彼はまだ書かないでいる。
 
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