島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第255回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
12−22(木) 法科学鑑定センター
精神科教授の岩波明さんと2人で、横浜市旭区柏町にある、法科学鑑定センターに行く。「秋好事件」再審請求のための、新証拠についての相談のためだった。
法科学鑑定センターというのは、警視庁の科学捜査研究所のOBが中心になり、設立された民間の会社で、訴訟事案に関わる法科学分野の鑑定を業務にしている。たとえば筆跡の鑑定、音声の異同識別、録音テープの解析、ポリグラフ、画像解析、指紋の鑑定、化学分析など、業務内容は多岐にわたる。
業界では有名な会社らしく、先日ある法律専門家に会ったらここを知っていたし、「報道特集」という民放の番組を見ていたら、現在のオウム信者の約半分が麻原絶対信奉の境地に回帰している可能性が疑われており、村岡達子氏を中心としたこの派閥信者の集会に、ある説法テープが流され、この集会全体の録音テープを番組スタッフが入手したのだが、流されているかすかな説法テープの声の主が、麻原氏本人の声であるか否かを問題にして、この識別を、法科学鑑定センターの音声担当者に依頼していた。

法医学鑑定センターは、相鉄いずみの線の南万騎が原駅から徒歩数分という場所にある。南万騎が原は、訪れてみれば静かな地方都市であった。ここを見つけてくれたのは岩波さんで、彼が加わってくれたことで、「秋好事件」の救済活動は大いに進んだ。
「秋好事件」の内訳は、たびたび説明しているからもうみなさんはよくご存知であろうが、秋好英明被告が、飯塚市の川本(仮名)一家4人を単独で殺害したとして死刑判決を受けている事案である。しかし実際には彼は1人しか殺していず、その1人を殺害している際に、他の3人を殺した彼の内縁の妻が、後方から彼を羽交い絞めにして行為を押し留めたという事実がある。自分も岩波先生も、また秋好氏を支援する多くの人たちも、この「抱きつき」行為の存在を信じているが、司法はこの行為を不存在と認定し、共犯者の存在自体も否定している。
netのフィールドにおいてはすでに述べたかもしれないが、ぼくはこの「抱きつき」行為の存在を、繊維など、「微物」の探索と発見によって、立証し得るのではないかと考えてきた。以下でこのもくろみを具体的に説明したいと思うが、そうなら、事件の進行経緯全体を説明する要がある。
われわれが信じる真相を、まず述べてみる。事件の夜、現場の家の1階に、努、玉子という夫婦が並んで眠っていた。これを秋好氏の内縁の妻が、出刃包丁を持ってふいに襲い、双方ともに首や喉を突いて殺害した。この時の内縁の妻の服装は、スカイブルーのネグリジェの上に、以前秋好氏と2人で勤務していたTY化学から支給された紺色上着を、前ボタンをはめずに羽織っていた。内縁の妻は、こういういでたちの前部に、努、玉子2人の頚動脈から噴出させた、大量の返り血を浴びた。
この時秋好氏は、そばにすわって凶行を見ていたのだが、内縁の妻による行為が終了すると、出刃包丁を受け取り、持って2階にあがっていって、内縁の妻および玉子の母親を、布団越しに刺殺した。やや遅れて2階にあがってきた内縁の妻は、これを見ると、「もういいじゃないね!」と叫びながら、秋好氏の後方から、自身の体前面を密着させるかたちで羽交い絞めにし、手を伸ばして秋好氏の腕を掴むなどして行為を押し留めた──。
これが大筋の経過であるが、司法は、内縁の妻は終始2階の母親の横に眠っており、こうした凶行のいっさいに参加していない、犯行は、秋好被告の単独であったとしている。
こうした司法の判断の根拠のひとつに、内縁の妻が、その後被害者を装って交番に駈け込んだ際、着衣の白ネグリジェ前面に、血の付着が少なかったという事実がある。これは秋好氏が、内縁の妻を助けるため、着衣を着替えさせて、血に染まった方のスカイブルーのネグリジェと上着は、近くの川に棄ててきてやったことによる。
もしも認定のように、秋好被告単独の犯行であったならば、被告の着衣前面は、階下の2人の頚動脈からの返り血で、どろどろに濡れていなくてはならない。またこの血は、噴出を直接的に浴びたのであるから、大量の「しぶき」も伴うはずである。
ところが被告の着衣、白カッターシャツの前面には血の付着が少なく、いわゆる「飛沫痕」、つまり返り血の特徴であるところの「しぶき」がまったく見られない。のみならず、背中には血の付着がきわめて多い。これは単独での複数刺殺犯としては、かなり異例のことである。しかもこの血も飛沫痕、「しぶき」を伴っていない。さらには両袖に、最も大量の血が付いている。
こういう証拠の状態は、司法認定の単独犯行のストーリーによるよりも、最初に述べたように、内縁の妻がまず着衣前面に大量の返り血を浴び、羽交い絞めになってこれを被告の背中に「転写した」、また血にまみれた両の手で、「被告の両袖も掴んで」被告の腕の動きを留めた、とする方が、遥かに合理的に説明する。
こうした主張は、過去にも行われているが、司法を納得させるにはいたらなかった。そこで、後方よりの「抱きつき」の存在を、【微物の調査】によって、科学的に証明できないかというのが、今回のわれわれの法科学鑑定センター訪問の目的である。
こちらの想定するストーリーは、大意、以下のようである。内縁の妻による「抱きつき」が事実存在するならば、証拠シャツの背中への「転写物」は、階下の被害者2人の血液のみではないはずである。血に混じり、内縁の妻の着衣前面の「微物」もまた、被告カッターシャツの背中に、血に埋まるようにして移動しているはずだ──、こういう考え方である。
具体的にはそれは、内縁の妻が羽織っていたTY化学支給の紺色上着の繊維、そしてスカイブルー・ネグリジェの繊維、まずはこの2つである。これらが縦方向に3列を成していて、左右に紺色繊維の縦の列、中央にスカイブルー繊維の縦の列、こういう縦方向に並列の3列が、顕微鏡レヴェルの調査で発見できないか、ということがメインだった。
この2種の繊維が、推察通りの位置で見出せるならば、これをもって「抱きつき」の存在を立証できないだろうか、というのがこの日の相談の主旨である。「抱きつき」の存在が立証されるならば、共犯の存在もまた、立証が射程に入る。

こういう相談内容は、岩波先生によってすでにセンターの取締役に伝えられていたから、この日は、もと山梨県警科学捜査研究所の主任研究員、木下新一氏が、はるばる山梨からセンターに足を運んで、われわれの相談に対してくれる手はずになっていた。木下氏は、いわゆる「微物調査」の専門家である。
木下氏は、もう定年退職されたという話であったが、非常に若い印象の人物で、テレビの科学捜査ドラマのアドヴァイザーも勤めた経験があり、西村和彦氏主演のTVシリーズ、「鑑識班2004」などは、彼の監修下での制作だったそうだ。
この番組の収録では、科捜研の施設内部、あるいは解析装置の一部などは本物を使用した。しかしそれでは、オウム犯罪関連者等に手の内を見せることにつながって危険だという意見が出され、途中から控えられたという。そんな裏話も聞くことができた。しかし肝心の再審請求に向けた新証拠の発見に関しては、なかなかの難物であることを知らされ、気重な気分になった。

微物鑑定の具体的な段取りを、まず木下氏から説明された。これは犯行当時被告が着用していた白色カッターシャツそれ自体が、直接微物探索の対象となるわけではないらしい。どのようにするかというと、片面に粘着性の物質を塗った透明なアセテート紙を、証拠シャツの背面なら背面全体に、隙間なく敷き詰めて並べ、圧着することによって、シャツ表面の微物を接着採取する。いわば移し取る。
このアセテート紙は、いってみれば、透明タイプのガムテープのようなもので、大きさもおおよそそのくらいである。1枚のサイズは、幅約10センチ、長さは20数センチといったところで、これが表面がつるりとした黒い台紙に貼りつけられている。
調査開始となると、このアセテート紙を黒台紙から剥がし、証拠シャツの表面に圧着し、表面の微物をできるだけこの粘着面に移し取り、すんだらこれをもとの黒台紙の上に載せて貼り戻し、周囲四方向は別種のテープで厳重にシールして、これ以上の微物の侵入(これをコンタミネーションと言う)は防ぐ。台紙の裏には、採集場所を逐一、詳細に記しておく。そうしてこのアセテート紙を顕微鏡前に持ち帰り、丹念な顕微鏡検査を開始する、こういう段取りである。
しかしこのアセテート紙は、顕微鏡下レヴェルでいえば広大な平野のようなものだから、これを数ミリ幅単位で左から右にくまなく探索していくのは、気の遠くなるような根気作業になる。したがってアセテート紙1枚の調査に、1週間というまでの時間がかかる。証拠シャツの表裏、また袖の表裏までをくまなく転写すれば、このアセテート紙は3〜40枚にも及ぶから、そうならこの全体の調査には、1年近いまでの時間がかかることになり、単純にこの労働時間を人件費として費用計算しても、相当な額にのぼることになる。

しかも、話はこれだけでは終わらない。この調査には、先に大変なハードルが存在した。木下氏の話によれば、証拠物の血とともに付着しているものは、共犯者の着衣の繊維、あるいは着衣表面の微物だけではない。空中に漂っていた塵も降下し、併せて付着する。その中には、共犯者の着衣からではない繊維も自然に混じる。こうした浮遊繊維には、何故か紺色のものが少なくないのだそうである。
この鑑定の場合、自然に降下して付着したような、血の表面の繊維は除いてもよい。圧着によってアセテート紙に移動する血は、顕微鏡下では「血の餅」のような固形物になっている。そうならこの「餅」の中に、深く食い込んでいるような繊維のみが対象でよい。そのように述べたが、しかしそうした繊維ということであっても、紺色をした繊維は、比較的自然界には多いのだという。
したがってこれら紺色繊維を区別排除するためには、どうしてもTY化学支給の紺色上着、実物が必要だという。この上着から繊維の現物を実際に採取し、見比べながら、これと同じ繊維以外は対象外としていく。こういう作業ができれば、効率はきわめてよい。
しかしこれは到底無理な相談である。何故なら、TY化学支給の上着現物は、事件当夜に内縁の妻と協力して秋好氏が裁断、付近の川に棄ててきてやっているからだ。では最悪、同年に同会社から支給された、同型の紺色上着、これなら成分は同じと考えられるから、これがあれば微物調査を行う意味は生じる。逆に言うと、この同型上着が存在しなければ、調査をする意味はないと言ってもよい、という話である。
闇雲に何ものかを発見しても、それだけでは「抱きつき」の存在を証明する証拠能力は出ない。なんらかの手段によって、その発見物が当夜の関係者のものであることを合理的に関連付ける必要があり、そのためには、当該証拠品以外の材料が必要ともなって、これはなかなかに絶望的な宣告であった。

さらに、法廷提出の証拠としての実効性をもくろむなら、もうひとつバーがある。それは「転写の証明」である。すなわち繊維を含む血が付着した布と、何も付着していない布が、圧着し合うことによって血と繊維の移動が起こり得る、という「証明」を、発見物の書面に添えなくてはならない。これなしでは証拠としての能力が生じない。
この「転写の証明」は、実験によって成すことになるが、具体的には、着衣の前面数箇所に血を付け、前の者の背中に抱きつくという実験になる。この時使用する血は、ポイント数箇所でよいから200〜400cc、大量には要らないが、他の液体であってはならず、必ず人血でなくてはならない。そうしてこの抱きつきの際に、前方の者の背中に起こった血の転写を、データにして添える。血の提供は他人には頼めないから、木下氏が自分の血液を採集し、抱きつき実験をやらなくてはならない。これらすべてを懸案して費用の総額を考えれば、500万円というくらいの額になるであろう、という話であった。

500万円という1点でも、これは不可能というまでの高額である。講演や秋好関連の出版物からの印税、岩波先生からの寄付、支援者たちからの浄財、これらすべてを合計しても、現在のところわれわれには、100万円強という積立金しかない。今回もこの相談料として、10万円という支出になった。
さらには、同年にTY化学から支給された同型の紺色上着、これを探し出さなくてはならない。30年も昔の話なのであるから、これもほぼ不可能というまでにむずかしい要求である。当時TY化学勤務の秋好氏の同僚を、ヴォランティア各氏の協力でもって手分けしてあたるか、TY化学自身に当時の上着が保存されてあるか否かを問い合わせるしかない。しかし後者はまず絶望であろう。前者も、当時の同僚の名前くらいなら浮かぶであろうが、この人物が当時支給の上着現物を持っているか否かとなると、これも絶望的と言わざるを得ない。
しかしここで解ったこともある。粘着性アセテート紙の圧着による証拠シャツ表面の微物採集がすんだなら、このアセテート紙だけが重要だということである。顕微鏡探査の対象はこのアセテート紙の粘着面上のみであるから、少なくとも微物検査の対象としては、証拠シャツ現物は用ずみとなる。そうならこれは、もう別種の鑑定作業に廻してもよい。微物検査とは、このシャツ自体が探索の対象になるものかと思い、そうなら作業に入ればもうシャツは別の鑑定には廻せないものと考えて、段取りに苦慮していた。
証拠の血染めカッターシャツは、現在ある著名な法医学者の教室に廻っていて、鑑定作業開始の直前にある。これの費用もまずは100万円ほどがかかるのだが、問題はこの血液鑑定が行われてしまうと、証拠シャツが破損してしまって、微物調査が不可能になるのでは、ということだった。かといって、微物調査を先にやれば、血液鑑定の作業ができない。
アセテート紙圧着がすめば現物が空くのであれば、A先生の血液鑑定作業の開始前に、アセテート紙への転写をすませておけばそれでよいことになる。そうならアセテート紙への転写作業の実費だけを支払い、その後はゆっくり鑑定資金調達に挑戦するなり、上着探しをやれはばよいことになる。これをやらずにA先生の血液鑑定のみをやってしまって証拠品を消費しては、後になってもし同型の上着が見つかったとか、金が工面できたとかとなった場合に、非常に悔しい思いをしなくてはならなくなる。
そこで木下氏に、相応の費用を支払ってこのアセテート紙への微物転写作業のみをまずやってもらうことは可能か、と切りだすと、非常な難色を示された。そういう作業はやったことがないし、始めてしまえば作業は停められない、という話であった。ではまあとりあえず今日はこれで退散し、今後の動きをスタッフと相談して、また連絡しますということにした。
一方、アセテート紙圧着を先にやれば、これによって証拠物の表面が破損してしまい、A先生の鑑定作業に支障が出るという可能性もまたあり、優先順位の判断はむずかしい。

もう1点、凶行に使われた出刃包丁が還付されてきている。これの柄から、いわゆる「潜在指紋」検出の可能性はあるか、ということも木下氏に尋ねた。
4人の被害者のうちの3人を、実際には秋好氏でなく内縁の妻が殺しているのだから、使用したこの凶器の柄から、内縁の妻の指紋も多く出てきて不思議はない。最近の指紋検出は、銀粉添付による単純なものだけではない。シアノアクリレート法、ニンヒドリン法など各種があり、これらの薬品によって、一見何も見えない場所からでも、付着した微細な脂肪分、かすかな蛋白質分の検出によって、指紋を浮かばせる方法が確立されている。しかしこの包丁は、行為直後、内縁の妻が現場前のどぶ川に棄てているから、一昼夜水に漬かっている。そういう状態の証拠物からでも、潜在指紋の検出はできるのか、という質問であった。
一昼夜水に漬かっているなら、これは無理だという回答になった。包丁の柄など、木材の粗い表面には、ただでも指紋が浮かびにくい。それに加え、長く水に漬っており、しかも30年も時間が経過している事物となれば、各種成分は拡散していると考えられ、絶望的だという話であった。

さらに1点、こういうことも考えている。1階での努、玉子の殺害には、秋好被告は関わっていない。そうなら、夫婦の褥付近には、秋好被告の毛髪はいっさい落ちていず、実行者たる内縁の妻の毛髪が、少なからず落ちていた可能性がある。鑑識班がこれをリストにしてはいないか。
毛髪というものは、意外に突破口になることがある。38年前の、茨城・利根川町、布川(ふかわ)で起こった殺人事件で、冤罪被告2名が再審無罪を勝ち取った決め手となったひとつが、現場に落ちていた被告以外の毛髪だった。
ただし、「秋好事件」においてはこれもそう単純ではない。被告の毛髪は確かに現場に落ちていなかった可能性が高いが、内縁の妻もまた、髪にカーラーを巻き、ネットをかぶっていた。これもまた、髪が落ちにくい状態である。ただしそれはネットが新しい場合であって、このネットが彼女の専用で、何年も使用していたというなら、やはり落ちた可能性はあるとぼくは考えている。
これに関しては、鑑識が拾っていたならば、書面リストにしている可能性はあるだろう。ただし確定した今となっては、検察から担当の警察署に戻されている。処分されている可能性は高いが、残っている可能性も、ないではない。もしも残っているならば、今はぎりぎりのタイミングであろうという話であった。これは裁判所を説得して、提出命令を出させる以外にない。これは、弁護団に頼んでみるほかないであろう。

といったような、この日の首尾である。冤罪者の救済活動は、並大抵の忍耐ではたちゆかない。あらゆる方向に知恵を絞っても、それらすべてにたいてい厚い壁が立ちふさがる。TY化学支給、同型の紺色上着の心当たりに関しては、秋好氏自身に尋ねてみる必要がある。
 
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved