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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第253回
島田荘司のデジカメ日記
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11−3(木)、Trick+Trapでお忍びサイン会
吉祥寺のミステリー専門書店Trick+Trapでも「摩天楼の怪人」のサイン会をやろうかという話になっていた。正式なものではなく、お店の常連のお客さんたちにサインをしてあげようといった趣旨になる。
Trick+Trapは、ミステリー書籍を専門に扱うという、全国でも珍しい店で、ぼくは帰国のたびに行くことにしているが、それは東京創元社の戸川会長が、店番にすわっているからでもある。行くとたいてい彼の友人たちが遊びにきていて、それは新進の作家であったり、大学のミステリー研のメンバーだったりした。それでこういう人たちと、店の隅にすわり込み、自著にサインしたり、話し込んだりすることになる。特に親しく話せたのは、明大ミステリー研の人たちだった。これは創元社の長谷川社長に以前話した通りである。
明大ミステリー研のメンバーの内に、必ずミステリー作家になってやる、と宣言する女子大生が一人いて、この人のことは、もうひとつのサイン会や、ホテルでのサインを手伝ってくれた新入社員の女性に話した。そうしたら、ちょっと会いたいということで、この日も彼女は駈けつけてくれる手はずになった。
戸川会長が店番にすわっているのは、本を売る現場の手ごたえを得たいということがあり、読者の声を直接聞きたいという、出版社トップの勉強心もあるのだが、ヴォランティアである。一円ももらわず、松戸から電車で、はるばる吉祥寺まで通ってきている。
この店は吉祥寺駅からは近すぎず遠すぎず、とある瀟洒なマンションの中2階、下は半地下レストランという、脱亜入欧的洒脱な環境にあって、ぼくは大変好きなのであるが、オーナーの持ち物ではなく、月々家賃を払っているので、どうしても商売にはなりにくい。そこへおめでたとなり、店長がレジにすわれなくなった。そこで、おっとり刀で戸川会長の出番となった。
東京創元の会長じきじき、助っ人に駈けつけざるを得ない非常事態を、まあ会長としてはけっこう楽しんでいて、連日嬉々としてレジを打っていたが、ぼくの方もそういうことならと出かけていって、この店が置いてくれているぼくの著作に、行くたびせっせとサインをしていたら、このサイン本を片端からみんな買ってくださる人が現れて、行って書くほどになくなる。とうとう店に一冊も自著がないという、嬉しいような寂しいようなことになってしまった。
そんなような経過の中から、では近く出る戸川さんのところの「摩天楼の怪人」、I垣さんがどこかでサイン会をすると言っているので、そうならここでも小規模なものをちょっとやってみるのがよくはないですか、ということになった。そうなら、この店の売り上げにも多少貢献できるであろう。経営が厳しいと聞くから、少しでも力になれればと考えた。
本の収集家で、宮田さんという謎の紳士が友人にいるのだが、彼がこのTrick+Trapの所在地を教えて欲しいと言うので、一度ご案内したら、店内で、ぼくのサイン本をまとめて買ってくださっていた安食さんという、こちらも読書と書籍コレクションを趣味にしている女性とばったり邂逅した。ぼくも初対面であった。2人とも本の収集者で、net上では何度も会っていたが、オフラインでの会見ははじめて、宮田さんとしては、もっと年配の女性を想定していて、安食さんが若くてスタイルのよい女性であったから、びっくり仰天していた。

お忍びサイン会では、この安食さん、宮田さん、そして明大のミステリー研のメンバーたちも、すべて駈けつけてくださった。当日は、店内のややスペースがあるあたりに椅子をたくさん並べ、一番先頭に出ると、ぼくが会話をしながら「摩天楼」にサインする。後方で待っている人たちは、椅子を少しずつずれながら、先頭に向かって進む。
もちろん全員はすわれないから、後方の人たちには立ってもらうほかないが、かなり前方に出れば、すわって待てる。何となく、無医村にヴォランティアの医者が来た、年に一度の健康相談日のような按配になった。以前に福山市で似たことをしたが、まああのようなものである。しかし、人数はずっと少ない。
大々的に告知はせず、Trick+TrapのHPに載せただけである。だから集まってくださった人は、全体としては30人くらいであったろうか、手ごろな人数で、この日は読者の一人一人と割合親しく話すことができ、楽しかった。
ここでも、嫌な人は1人もいなかった。他の作家たちと、自分のサイン会体験の会話をしたことはないが、一度でも激しく不快な体験をしたり、心底がっくりと来させられたりすれば、たぶんもう二度とやりたくなくなるであろう。理屈ではサイン会の必要があると考えても、また周囲からどのようにおだてられても、気分がついていかなくなるに違いない。しかし幸運なことに、ぼくはまだ一度もそうした体験がない。だからサイン会と聞いて、反射的に腰が引けるというような体質は、まだ得ていない。これからも、こうした楽観的な気分が持続できることを願っている。むろんこちらの今後の活動次第、発表する自作品の質次第であることはよく自覚している。自分としても、サイン会をやるなら、一定量以上の自信作をもってでなくてはその気にならない。
この日も、みなさんあいあいとして、楽しんでいただけたように感じている。こちらもまた大いに楽しみ、力をいただいた。もうずっとデビュー以来、親子でファンです、今日は**から来ました、と言ってくださった女性二人、これは桜子さん母娘と似たスタイルだ。こういう方が割りといてくださり、嬉しい。作品が相当気に入らなくては、子供には進めないであろう。情操教育上の優劣、好ましいか否かという判定も、親なら知らずしてしまうはずで、ジョニー・デップであったか、自分が過去出演したDVDのかなりの部分は、子供が手に取れないように納戸に入れて扉に鍵をかけている、と言っていた。
自作品がこういう判断をされたら、やはり寂しいであろう。むろんデップの場合は単に性的なことで、またちょっと事情が違うが。日本の親子間は儒教型行儀強制があるので、逆説的に親子間にうまく誠意が現れないケースが目立つ。自作がこうした親子世代間の、やむを得ない分離の垣根を取り払い、親世代の格好つけ意識を不要、無効にしているなら、と考えると感動にうち震える。日本においてこの種の「陽」気分が、いったいどれほどに貴重なことか。自殺道徳に打ち込む、いかに決定的なくさびであるかを、自分はよく知っている。
こういう読者の読書環境も、直接読者と話すことで知る。たとえ知っていても、印象が強まり、忘れなくなる。やはり貴重な体験だ。サイン会というものは、読者にとって貴重な機会なのであろうが、こちらも同じである。母娘で楽しみにしていて、先に読んだ母親が、これは子供には読ませたくないなぁと、そんなストレスを感じるような本は、今後書いてはいけない。
安食さんとも話し、これまでのお礼を言った。彼女は本の収集家だから、たいてい車を運転してあちこちに出向く。今日も車だと言っていた。安食さんも含め、サイン会というとどうしても女性が多いが、彼女たちのもっか最大の関心事はというと、やはり「暗闇坂の人食いの木」の映画化進行状況、御手洗さん、石岡君、レオナさん役者が誰か、ということになる。これは香月さんに口止めされているから、なかなか奔放には語れないが、お答えできる範囲で、応えておいた。
明大のミステリー研の人たちは、以前に台湾3メディアからの質問に応えたファイルを差しあげていたので、これを掲載した同人誌を持ってきてくれていた。必ずミステリー作家になると宣言している女子大生は、横で助手をしてくれている創元社の女性社員に紹介できた。今後彼女も精進し、創元社に原稿を持ち込むのもよいであろう。まあぼくが審査員をしている間に、鮎川賞にも応募してきて欲しい。とはいえ、えこひいきはできないが。

サインをすべて終え、宮田さんと一緒に、まだ店内に溜まっていた人たちを誘い、喫茶店に行った。いや行こうとしたのだが、休日の吉祥寺は、喫茶店の類はどこも満席で、あれほどに広いアウトサイドスペースを持つ東急デパート裏のスターバックスも、すべてのテーブルがぎっしり詰まっていた。そこで仕方なく、散文的なお馴染みルノアールの、しかも喫煙席に向かうことになった。
そこでしばらく、やんごとなき血筋の出、宮田さんの話などしていたら、Trick+Trapオーナーの女性が、赤ちゃんを抱いて駈けつけてくれ、お礼を言われた。ああこの子が、戸川会長を松戸から連日通わせている存在か、と思った。賢そうな顔をしていて、ミステリー作家になりそうであった。
それと知らず話していた女性たちの内に、時々SSKサイトでHNを見かけるChatoさんがいて、ああ、あなたでしたかという話になった。建築関係の仕事をしているのだということだった。友田さんのような、建築CGの方向を目指しているらしい。

楽しい一日であった。後日店番ヴォランティアの戸川会長からお礼のメイルが来て、おかげさまで、自分の店番が始まって以来の売り上げを記録しました、と言ってくださった。
しかしTrick+Trapの存続はというとなかなかむずかしいらしく、オーナーの女性は、「本は愛しています、でもわが子はもっと愛していて」、と言っているらしい。それはまあそうであろう。
 
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