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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第252回
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11−1(火)、「エデンの命題」の表紙、できあがる
待望のカッパノベルス、「エデンの命題」の表紙ができあがってきたのでルノアールで見せてもらう。まだ中身はなく、表紙だけである。要するに色校が出たというだけで、これをA井さんが、別の著者のカッパノベルスに巻いて、持ってきてくれたのだ。
今回のこの装丁に関しては、全面的に自分の考えでやってみた。その理由のひとつは、大失敗したとされ、現在は引っ込められている、表1・背中・表4の大半を覆う幅広帯という原デザイン・コンセプトを、自分は失敗とは考えていず、本来のポテンシャルを、正当に発揮させてみたかったということがある。
失敗の理由は、常識破りのこの帯などでないことを自分はよく知っていたので、これはキープしたまま、自分の考えでデザインを補強成立させてみたかった。そうしながら、一方で、失敗の最大の要因である、タイトル・著者名活字の、端正で行儀のよい「小ささ」を、下品にゴシック体を用いて拡大した。
こうすることにより、この幅広帯という斬新さは完全に補強され、時代に合ったものになる、というのが自分の考えだった。こういう自分の理解と修正提案を、ぼくはA井さんには繰り返し説明していたが、自分は評論家ではないから、本来こんな説明がしたいわけではない。創作者ならつべこべ言っていないで黙って成功回答を示すべきで、だからそうした。誰かがこれをやらないと、この稀な筋のよいデザインは、誤解から簡単に捨て去られ、二度と省みられなくなる。元が忘れ去られれば、ここから派生したはずの有意義な方向性も、すべて発展の芽を絶たれる。
基本はそういうことだが、今回の中編集「エデンの命題」は、「21世紀本格」というジャンル、未来志向の小説集なので、こういう中身に合った未来型の衣装をまとわせる必要があり、そのためにも、この幅広帯という土台は重宝だった。そこでこの幅広帯を、今回は透明なプラスティック板にして、この裏に、石塚桜子さんの絵を反転させて印刷することを考えた。そして帯にもかかわらず、惹句は短く、活字は最小にして、これも裏から反転印刷、その下に覗く下地は、メタル感覚の銀色とした。裏側に印刷したのは、むろん表に印刷すると、指やものに触れてこすられ、インクが剥落する恐れがあるからだ。

しかし始めてみたら、これだけの基本形の実現でも、随所に相当なハードルが存在した。まずはいかに趣向を凝らそうとも、これは本来「帯」なのだから、帯にはあれこれ宣伝文句を大書するのが常識である。それが帯の使命なのだ。少々下品でも、帯はチラシ広告のようなもので、いずれははずれるという感覚がある。
ところが今回の自分の要求は、帯に入れる文字は「旧約聖書とは何か──」、という一文のみで、W辺編集長が悲鳴をあげた。しかし、絵が白黒風味で、文字のみが赤だから、たとえ米粒くらいの活字であろうとも(実際はそんなことはない)、必ず目を引くのだと説明し、なんとか納得してもらった。
透明プラスティックの幅広帯を付けるのなら、いっそ全面をカヴァーさせてはもらえないか、という要請が現場からあがってきた。これはつまり、この透明板を、もういっそカヴァーに昇格させて欲しいという要求である。これは実によく解る声で、ぼくの幅広帯解釈も、まあそういうものであった。ただこの現場の声は、そのようにすれば、下にもう一枚巻かれている紙を取り払えるというところに主眼がある。透明カヴァーが全面を覆えば、全面カヴァーの紙が二重になるから、1枚はお役御免になる。
確かにその通りで、この発想は合理的なのだが、それは幅広帯を採用した時点よりの宿命的な問題であって、今回それを受け入れると、原コンセプトの美点を示す、という目的と、話が違ってきてしまう。タイトル部分を直接覗かせるというのが、もともとこのデザインを構想した原氏の意図である。さらにはこの分化発想と、その比率が、以前のカッパノベルスが持っていた、伊藤デザインの伝統コンセプトを引くものでもある。また透明板による全面カヴァーなら、もう前例がいくつもあって、興奮性がなくなる。ぼく自身、南雲堂刊の愛蔵本ですでに経験している。
ではいっそ、タイトル部分を覗かせたまま、下の巻き紙を省略するのはどうかと訊くと、それは到底無理な相談だという返答だった。書店に置かれているうち、露出部分ばかりが手垢で汚れる。カヴァーでない本体部分が汚れてしまうと、もう再出荷がきかなくなる。
日本に特有の書籍委託販売制度は、書店から見れば非常に献身的な制度に育っていて、営業が定期的に書店を巡り、汚れたカヴァーを交換して廻っている。カヴァーを交換するばかりでなく、時にはツカ部分にグラインダーをかけたりもする。
カヴァーは手垢で汚れるばかりでなく、蛍光灯の光で退色もする。蛍光灯の光というものはなかなか強力で、印刷色によっては真白くしてしまう。アメリカの日本書店には日本の出版社の営業が来ないので、常設文庫の背中などは真白くなっている。これを避けるため、日本の書物はすべて、と言ってもいいくらいに書籍全面を覆うカヴァーをかけていて、これを定期的に交換している。幅広帯を付けても事情は変わらず、下に露出する部分が少しでもあるならば、いかにそれが狭くとも、これはカヴァーとし、交換可能にしておかなくてはならない。こうした事情は、実のところぼくも熟知していた。無理とは知りつつ、訊いてみたのだ。
さらには、これと思った下地用の銀色の紙は、タイトル文字の黒インクがうまく載らない。文字が太いゴシック体となると、さらに載らない。多少不本意だが、第二候補の紙で妥協するほかはなかった。
他にもさまざまあったが、まあなんとかこれらをかきわけ、かわして製品化にこぎつけてみたら、最大の問題、コスト高に最後に直面した。何十円か程度、定価に跳ね返るだろうと聞いていたが、ここまで来たら、なんと百十円近くもコストに跳ね返ることになっていた。これは聞いて愕然とした。これが最初に解っていれば、透明プラスティック帯にはしなかった。この素材は、機械で折り目の筋はつけられても、実際の折り曲げはすべて人間の手作業になってしまう。これも知っていたが、この人件費がかさんだのだろう。
この点、読者には本当に申し訳ないことをしたと思う。しかしここまで来ては、もう引き返せない。今後、初版が十万部も擦れる時でもあればともかく、もう二度とこの透明帯を使用することはすまいと思う。
仕上がりには満足し、今回の作業で、自分の考えはほぼ確認できた。やはり原デザインは誤りではなく、こうすれば充分に美しく、進んだものであった。この考え方を着想した原氏にもだが、受け入れる英断をしたW辺編集長にも、敬意を評したい。
だがひとつだけ、解けない謎が残った。原デザインは、何故か本を小さく見せる。以前の拙著「龍臥亭幻想」は、新書が、どうかすると文庫サイズに見えていた。これはさまざまな要素の複合で、今回あちこちを補強すれば自然に解消するものと予想したが、「エデンの命題」も、「龍臥亭幻想」ほどではないにしても、やはりやや小さく感じる。これは理由が解らず、不思議だった。

ともあれ、できあがりを見てのこちらの感想は、「おお、ま、なかなかいいではないですか!」、といったところであったが、A井氏は手放しの喜びようで、前例のない、最高の出来だと言って、大いにはしゃいでいた。
ことここにいたり、これまで書き忘れていたことがあったと気づくのであるが、東宝砂原さんと会ったおり、今年の刊行が実現しないとスキンヘッドになる、と言っていたA井氏、自身のこのロジックの持っていき方の誤りに気づいて、次回からは会うたび、
「『エデンの命題』、年内販売にこぎつけさせていただけました暁には、不詳A井N則、感謝の印といたしまして、スキンヘッドにさせていただきます!」と、主張を180度改めた。いっときやる気が萎えていたこちらだが、これを聞いた途端、猛然と執筆意欲が湧き、全力でラストスパート、寝ないで間に合わせたのである。
鮎川賞パーティの回に書き忘れたのだが、この夜の二次会の席上でこちらは、リンコ氏、岸田るり子氏、I垣、I毛、S村各編集者などの衆目が、ビールを持つ手を停め、固唾を呑んで見守る中、
「ところで光文社、A井N則さん、スキンヘッドというオトコの約束に、よもや二言はないでしょうな」と確認をしたのであった。
するとA井氏、阿鼻叫喚の渦の中、突然生じた激しい沈黙に恐れをなし、
「も、もちろんでございます……」といったんは言ったので、その場の全員が続いて安堵の祝杯となったのだが、A井氏すかさず、
「私、上のこの毛とは申しておりませんよね?」と言い出す。
「も、もちろん、し、下の毛をそ、剃るということで、下がスキンヘッド……」と言い出した。
こちらとしてはその場、まあ酒の席のことでもあるし、上でも下でもいいかと思ったのではあったが、ともあれこうして刊行のめどがついた「エデンの命題」、表紙の色校までが出てきたこの日、A井氏は、上にせよ下にせよ、スキンヘッドの話などおくびにも出さないのであった。「手のひら返しのA井」とは、実によく言ったものである。
 
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