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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第249回
島田荘司のデジカメ日記
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10−30(日)、神田三省堂でサイン会
神田の三省堂前に行ってみると、神田界隈は、古本市でごった返していた。三省堂前の通りは歩行者天国になっていて、通りの中央に、古本が満載されたワゴンが、ずらりと並んでいる。そしてその左右を、大勢の人たちがぞろぞろと歩き、流れている。これは、もし雨が降りだしたら大変だろうと思う。
近くの喫茶店でI垣さんと落ち合い、お茶を飲んで時間まで待っていた。そうしたら、鮎川賞前年受賞作家の岸田るり子さんも、I垣さんと受賞第一作の打ち合わせもあって、駈けつけてくださった。
時間が迫ったから店を出て三省堂に行き、階上の控え室に入った。店内の1階は、街をあげての古本市の、メイン会場のひとつといったふうで、ごった返していた。
控え室にあてられた応接室に入ると、さすがに老舗の書店で、なんと愛新覚羅溥傑さん直筆の書が、額に入って壁にかかっている。
控え室に積まれていた「摩天楼の怪人」に、まずはサインをする。この本は硬表紙を開けると黒いページが開けるので、ここに金か、銀の油性ペンでサインを試みる。双方試してみると、銀色の方が断然見映えがよかったから、銀で行くことにする。
ところがこの銀色のマジックはなかなか神経質で、10冊も書くとかすれはじめる。フェルトの頭をぐいと押さえると、それでまたインクが出はじめ、しばらくは続くのだが、やはりまたかすれはじめる。頭を押さえることでインクを再び出せるのは、せいぜい2〜3回までが限度、それをすぎると少々使いつづらい。出る時は線が太くなりすぎ、かすれはじめたら接地角度によってはまったく書けなくなる。これはかなりの本数を用意しておいてもらわないと、具合が悪そうだと予想を言った。
書店用のサインを終え、お茶を飲んでから、一階の会場に向かう。エレヴェーターを降りたら、ちょっとした花道ふうに人垣が割れていて、拍手を浴びた。
書店の女性がマイクで紹介をしてくださり、サインを始める。今日は、町内の大古本市の関係で、非常に大勢だと言われる。

並んでくださっていた方々は、この日も、非常に人柄のよい人たちであった。このことは、後で三省堂書店のスタッフからも特に言われた。ひと癖ありそうな人たち、意地悪そうな人たちがまったく見当たらず、いつになく気持ちがよかったと言われた。これはたまたまであったのかも知れず、別段こちらの手柄でもなんでもないのだが、そのように言われることが、何故だか一番嬉しい。
それでも一度、こちらが失敗したのは、「占星術殺人事件」の袋とじ版を持参した人がいて、ちょっと話してから、そうした方がよいのかと思い、それにもサインしましょうかと言ったら、書店の女性たちどっと2〜3人飛んできて、「お客さん、それはちょっと困ります」と厳しく言われたことだった。古本市の日のサイン会は人が多いので、買い上げ書籍以外のサインは厳禁、という方針にしているふうだった。これはこちらが知らず、申し訳ないことをした。しかし彼はもう袋から本を出してしまったので、これだけ特例ということでお願いをし、急いでサインさせてもらった。
この日も、感動的なことは数々あったが、思わず立ちあがり、相手の手を両手で握ってしまったことが2度ばかりある。一度は、「島田先生のお書きになる本のおかげて、こんな人生も生きていく気になりました」と言われたこと。一気に飛び出したようなその言葉と、少し震える彼の唇を見た時、気づけば立ってしまっていて、彼の手を両手で握っていた。これは本当に感激した。
そしてこの瞬間にいたるまで、自分では気づかなかったが、自分が読者に求めていた言葉はこれだったかと気づいた。自分がこの時に何と言ったか憶えていない。しかし彼の少し俯いていた表情、真剣な目つきは、今もはっきりと憶えている。そして、それからも何度も思い出した。
どうしてこういう言葉に、自分が心動かされるのかと考えてみるに、芥川龍之介の短編に、「蜜柑」というものがあったと思う。もう昔に読んだから、正確なところは憶えていないが、自分の目の前の席にすわった頬の赤い田舎娘が、しばらく三等切符を握り締めていたが、やがて窓を開け、窓外の田んぼに向かって蜜柑を撒いた。するとそこに、見送りにきていた娘の弟たちらしい子供らがあぜ道に立っていて、蜜柑を拾っていた。娘は町に出稼ぎにいく、それを送りにきた弟らに、娘はこんなやり方で労をねぎらったのだ。そしてこれを見た瞬間、「私」は、この退屈で下等な人生を、ほんの少しだけ忘れることができた、という話だった。
あれは、随筆だったのかもしれない。この小編にぼくが深く頷いたのは、「退屈で下等な人生」というこの表現だった。自分の小、中、高校時代もまさしくそんなようで、日本型鬱病のうねりのただ中、意味不明の意地悪や威張りに日々を晒され、行動原理は欲得のみ、ジョークは嘲笑だけ、尊敬も行儀も取引気分の嘘ばかり、そういったこの世界のすべてが下等で退屈な政治に思われ、これらをいっときでも忘れさせてくれるものを懸命に求めた。しかし、得られることなどなかった。高名な文学者たちの思いも、こちらの思いとは何故だか別所に遊離していて、偉くなった自分の地位と格闘してはいなかった。のみならず、そうした下等なるものと、適度に折り合いをつけていた。
あの頃自分が得られなかったものを、もし今の自分が読者に対し与えられているのなら、こんなに嬉しいことはない。むろんそうなふうにうぬぼれてはいないが、作家が、ほかにいったい何を望むというのだろう。地位を保証する勲章など、自分は生涯望むことはない。ぼくにとっての価値のある勲章とは、この日彼が言ってくれたような言葉だ。
もう1人は、もう初老と言ってもいいのかもしれない年配の女性で、デビュー作からずっと読んでいます。今体を悪くして入院していたのだけれど、そうして家族には猛反対されたのだけれど、ここでお会いできるというから、病院抜け出して来ちゃったんです、と言われたことだ。病院への帰り道が気になったが、これもたいそう嬉しかった。
サイン会をやって、いつもはっとさせられることは、書いている時、対象としての若い人の顔は浮かぶ。しかし、年配の人たちの顔は、最近は忘れることが多くなっていた。しかしかつてはそうではなかった。郷里にいて自分の本を買ってくれる父親や、その友人たちはみんな老人だ。その人たちに向かって書いていると思った時期もある。けれど、ふと気づくと、今それを忘れがちになっている。サイン会は、いつも年配読者の存在を思い出させてくれる。並んでくださっている方々には、年配の方も多い。自殺社会の今日、最も悩みを多く抱える人たちだ。この人たちに向かっても、自分は書かなくてはいけないのだと自覚する。

列は延々と続いているふうで、これまでで一番長かったのではと思う。終えてから、今日は何人くらいだったのですかと訊くと、さあ、250人くらいでしょうか、というI垣さんの返答だった。しかし250人ならばこれまでにも経験がある。もっと長かったような印象だった。
けれども、みなさん人柄がよかったから、疲れは全然なかった。司会を務めて下さっていた女性がマイクを持ってこられたので、まだ周囲に残っていてくださっていた人たちに向かって御礼を述べ、神田三省堂でのサイン会は憧れであったこと、そして、来年以降の自分に、もしも期待してくださっている方々がいらっしゃるなら、必ずお応えします、と断言した。
それから残ってくださっていた人たちの拍手に送られ、会場の控え室に戻った。そしてお茶を飲み、しばらく休んだ。
こんなに規模の大きなサイン会したの、自分ははじめてです。とI垣さんは言っていた。自分がおつき合いするのは、たいてい7〜80人くらいの規模ですから、と彼女は言う。
それから長谷川社長も駈けつけてくださり、CGの友田さんも来たので、みなで山の上ホテルに食事に行って、その日はお開きにした。

それからも、ぼくの書く本のおかげて、この人生を生きていける、と言われた言葉を思い返してみた。ここまでの作家人生、そしてたった今も、よくやっているとは思う。駄目だとは思わないが、満足などしてはいない。
自殺者の数は増え続け、人情もさして改善はせず、嘲笑と他者否定の傲慢は世にはびこり、鬱患者が自身の鬱に気づかず、不必要な怒りで周囲の空気を湿らせ、路上生活者は増え続け、病に苦しみ、冤罪者は監獄で涙する。世界には、健康な水さえ飲めない人たちも数多い。アジアには、路上生活の少女たちが増え、こうしている今も、売春と性病の直前に立っている。
こういう中で、作家に生まれて自分はいったい何をしたのか。いったい誰を助けたのかと考えれば、背筋が寒くなり、不快で死にたくなる時もある。日々生活に汲々とし、原稿を書いているばかりだ。金があればと思うが、そんなせいにばかりはできない。早く生活から開放され、他者救済の仕事がしたいものと思う。
しかしサイン会は、そうした自身の焦りを、わずかに慰めてくれる。
 
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