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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第248回
島田荘司のデジカメ日記
10−27(木)、太宰世界の生き証人
石塚桜子さんのお母さんのご尽力で、太宰さんと心中して果てた山崎富栄さんをよく知る方、2人が心中に出ていった部屋の隣室に暮らしていた女性と、幸運にもお会いすることができた。名前もお住まいも、硬く口止めされているので、お名前を仮にXさんとしておく。もうご高齢だが、非常に洗練された物腰の、上品で都会的な印象の方であった。三鷹で育ち、暮らしてこられた人であるから、それも頷ける。
Xさんは、最近豊川悦司氏の主演で放映されたテレビ、「太宰治物語」も録画されていて、このヴィデオは桜子さんのお母さんが預かって、ぼくの分もダヴィングしてくださった。このドラマには、太宰を巡る女性たち、夫人、太田静子、山崎富栄といった各氏も、三つ巴のようなかたちで出てくる。
会見は、もしかすれば文学史上、ささやかに貴重に出来事かもしれないから、ふくやま文学館の小川由美さんにも声をかけた。そうしたら、26日には仕事で福島にいるので、翌27日ならば、東京に3時間程度いられるという。夕刻には羽田から、今度は鹿児島に飛ばなくてはならない。非常に多忙のようだったが、そこで27日に石塚家で、みなで昼食会を、ということになった。
そうなると、わがA井さんにも声をかけなくてはならい。彼がT大文学部を選んだのは、太宰治さんという存在があったためだと、以前に聞いた記憶がある。
しかし電話でXさんに会えると伝えると、A井氏、実に残念そうに言う。
「ああ、まことに申し訳ないのですが、その日は午後から、どうしても抜けられない用事が多々入ってりまして、すいません、ちょっとむずかしいかと……」
しかしぼくはまったく心配してはいなかった。
「小川由美さんも来るそうです」と言うと、「30分程度ならうかがえます」とすぐに話は変化した。
小川さん、A井さん、桜子さんと三鷹駅改札前で落ち合い、石塚家に向かった。
小川さんによれば、TV「太宰治物語」の制作にあたって、ふくやま文学館も取材を受けたそうである。福山の場合は、むろん太宰氏の師、井伏鱒二氏の人となりについてである。ドラマには、橋爪功氏扮する井伏氏も登場する。割合史実に忠実に作られているらしい。

すでにいらしており、われわれを待っていてくださったXさんに挨拶して、石塚家で取っていただいたうな丼を食べながら、お話をうかがう。
Xさんの口調は重く、以前からこういうお話は何回かあったが、できるだけ応じないように心がけておられたという。桜桃忌の集まりにも呼ばれ、何か話して欲しいと言われたが、ずっと辞退されている。実際、私は何も知らないのですから、と言われる。話すことに対しての、家族の抵抗感も根強い。確かに底意地の悪い日本型の詮索世間を思えば、それも当然の判断と同意はできる。この国の常識は、ひたすら目立たないことのみをよしとする。
太宰さんがつき合った最後の女性、山崎富栄さんとXさんが隣同士の部屋で寝起きするようになったのは、山崎さんが三鷹の美容室に勤めたからであった。昭和の20年代、三鷹市内に女性が1人暮らしのできるアパートなどごく少なく、住むところがないからと、Xさんのご両親が美容院の経営者に頼まれたから、X家の一部屋を提供した。それが2階の、たまたまXさんが暮らしていた部屋の隣だった。つまりXさんの方は自宅だった。
自分の部屋も山崎さんの部屋も、双方とも畳敷きで、間は襖で仕切られているばかりだから、これをがらと開ければ、お互いの顔はすぐ見える。けれどそれはしない決まりにして、必ず廊下に出て、廊下側の襖を叩いて声をかけることにしていた。
山崎さんは腕のよい美容師で、父親は御茶ノ水だったかで、美容学校を経営していた。Xさんは、山崎さんとはよく話した。人柄がよく、おとなしい人で、「太宰治物語」に登場した山崎さんのような、あんな足を畳に投げ出して、はすっぱに振舞うような印象はなかった。
太宰さんが隣室に来るようになってからと言っても、憶えていることは少ない。廊下で太宰さんとすれ違うことはあったが、会釈をするくらいで、話し込んだりはしなかった。正直に言って、自分は太宰さんのこれまでに起こした事件や、妻子あることなどを聞き及んでいたから、どうしてそういうことをされるのかと、軽い反発があった。有名作家だと、憧れるような気持ちはなかった。自分はその頃までに、太宰さんの作品を読んではいなかったし、今思うに、その頃はそれほど、誰でも知るというような大有名人ではなかったように思う、そうXさんは言う。
しかし山崎さんは彼を崇拝していて、太宰さんが帰った後で会うと、太宰先生はこう言われたとか、ああも言ってらしたとか、そんなようなことばかりだったように思う。部屋に奥さんが直接訪ねてこられたとか、太田静子さんが来たとか、そんな出来事はなかった。小川さんによれば、山崎さんとのことは、太田さんと終わってからなので、これはそうであろう。
心中にいたるまで太宰さんは、朝日新聞に「グッドバイ」という小説を連載していた。とすれば原稿を、朝日新聞の編集者が毎日のように受け取りにきていたのでしょうか。そういうことの記憶はないので、どうしていたのでしょう、と言う。原稿の受け渡しだけではない、ゲラの朱入れもあるはずだ。これはどこで、どのようにしていたのであろう。
憶えていることは、当時は本を出版すると、巻末の奥付のところに、「著者検定印」というものを著者が自ら押していた。刷ったと報告を受けた部数に偽りがないことを、著者自らが確かめながら、1冊ずつに印鑑を押す、そういう習慣があったのだが、この検定印を押しているらしい、さらさら、さらさらというもの音を聞いた記憶がある。山崎さんに手伝わせて、太宰さんが自著に判を押していたのだと思う。
そしてもう一度は、太宰さんが血を吐いている異音、山崎さんがこれを看病しているらしい気配を、襖越しに聞いた記憶がある。吐いた血の入った洗面器を持ち、階下の手洗いに向かう山崎さんと、廊下ですれ違ったこともある。家にはほかにも間借り人がいたから、病気の伝染を怖がり、個室に「山崎用」と張り紙をした者がいた。トイレはふたつあった。
ただし、どうしたことか、部屋に太宰さんの編集者が訪ねてきていた記憶もないし、医者が来たという記憶もない。編集者も、山崎さんも、医師を呼んでやって診せるということはしなかったのであろうか。当時は往診ということは、割合普通にあったはずだが。のみならず、太宰先生を医者に連れていったと山崎さんが言うのも、Xさんは聞いた記憶がない。不思議だと言う。
山崎さんも太宰さんも、すでに死を決していたからか。「太宰物語」によれば、山崎さんにはしばらく遊んで暮らせるほどの蓄えがあったのだが、太宰さんが飲んでしまったというくだりがあった。あるいはそういうことで、金がなかったであろうか。
晩年、太宰さんは妻子に生活費を入れなかったという。山崎さんの意志ではあるまい。実際に金がなかったのであろう。

2人が心中に出て行った最後の朝、昭和23年の6月14日未明のことだが、この日の顛末も、Xさんは正確なところを憶えていない。あの朝、どのようにして発覚し、騒ぎになったのであったか。そしてあれは何時頃の光景だったのか、もう記憶にはないのだが、隣室、山崎さんの部屋を廊下側から覗くと、卓の上に簡単な仏壇が作ってあって、線香の煙が上がっていた。そして遺書と、小説「グッドバイ」の最後の原稿があったという。そういう記憶の光景が、Xさんにはある。
遺作「グッドバイ」は、こうして未完となった。しかし、遺作のタイトルが「グッドバイ」であるのは、巧みに演出された、太宰氏一流の粋ではあった。
Xさんは、薬包紙に包まれた青酸カリを、生前の山崎さんに見せてもらった記憶があるという。彼女は、押し入れの、布団の下にこれを入れていた。そういうことを思い出した。

その後、山崎さんの日記が世に出たのだが、それはこの心中の直後、山崎さんの父親が、5万円だかで出版社に売ったのだとか、すでにもう売られていたのだといった噂が世間に流れ、ひどい父親だとさかんに喧伝された。これはXさんからでなく、別から得た情報である。しかしこれらは、山崎憎しの思いが父親に向けられた際、生じた言葉であったかもしれない。
この日記は8月に出版され、その後、今度は「週刊朝日」に載ったという。これらの刊行物も、石塚さんのご両親が手を尽くして手に入れてくださり、ぼくにプレゼントしてくださった。これらはいずれ、何らかの創作に生かせればと考えている。

時間がないので、A井氏は途中で退席し、小川さんも飛行機の時間があるので、早めに切りあげた。
会見を終えて、われわれはXさんと、「饗応夫人」の邸宅前で礼をして別れた。Xさんは終始、ぼくが今日の会見のことを書くのかと心配そうであった。
このくらいのことも自由に話せない、日本道徳社会の加虐性を考え、ぼくはなにやら心中複雑な思いがした。
 
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