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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第244回
島田荘司のデジカメ日記
4−27(水)、宇山氏、送別会
宇山氏との関わりを思い返してみるに、彼とはじめて会ったのは、たぶん1983〜4年の頃であったと思う、新宿の、今はもうない喫茶店、西口滝沢の地下であった。
その頃宇山氏は、当時講談社にあった「ショート・ショート・ランド」という雑誌の編集部にいて、ぼくに電話してきて、いきなりショートショートを書いてくれと言った。
この当時のぼくは、これからの自分がどうなるのかも解らない、原稿の注文がずっと入るのかどうかも不安だから、来る話はすべて断らないようにしていた。というより、物書きというものは、依頼を断ってはいけないものと思っていた。しかしショートショートなど書いたこともないから、書き方が解らない。けれどそういうことなので、書いたことないですとも言わず、挑戦してみることにした。
はしめて彼を見た瞬間のことは、よく憶えている。地下フロアへの階段を降りていくと、階段から見て最前列の席に彼はついていて、今まさに、サンドウィッチを口に押し込んだところであった。ぼくが来たものだから、あわてて立ち上がり、膨らんだ口もとを懸命に抑えながら会釈をした。
これはぼくが悪いので、待ち合わせよりも、ぼくは30分も早くに到着していた。本でも読みながら待つつもりでいたのだが、同じく早く来た宇山氏は、まだ時間があるから、その間に昼食をとっておこうと考えたのだ。短時間にそそくさと昼食をとるところを他人に見られる、こういうちょっとした不運、失策は、ぼく自身はしょっちゅうあるのだが、こういう目に遭っている他人は、あまり見たことがない。無論こちらは、早く来すぎたことを詫びたのだが、なんとも、自分によく似た人もいるものだなと思った。
その後、彼とはよく話した。彼の圧倒的な美点は、威張らないということである。当時のこちらは駈け出しの若輩であったし、作家らしい貫禄が全然ないので、相対する編集者の多くは、一定量の威張りをなんとかうまく言動に滲ませなくてはと、身をもんで苦悶する様子がありありだった。ところが宇山氏の場合、そんなわが常識は埒外らしく、いつもきょとんとしていた。
彼は、時おり自分の過去について語った。一流商社たるM物産に見事合格し、周囲からうらやましがられて入社した。上司という存在に、それなりに幻想を抱いていた頃なのだが、たまたま配属された部署で、極端にこれが裏切られたので、ひと月でさっさと退社した。そして講談社の入社試験を受けた。
そうしたら面接で、「君は、何がしたくてうちを受けたか?」と問われたので、「御社においては、中井英夫さんの『虚無への供物』が文庫化されておりません。これはミステリーを愛する者としては許容しがたく、ゆえに私は、これを文庫化するために入社を希望いたしました」とはっきり言った。
これがまた、わが国では行議論上好ましからざる発言であるから、通常は落ちると思うのだが、講談社には偉い人がいて、合格になった。落としていたら、のちの新本格はなかった。そして宇山氏は、のちに「虚無への供物」を実際に文庫化もしている。まさに有言実行、しかしぼくと会った当時は、まだ「ショートショート・ランド」にいた。

この時、ショートショート・ランドに書いた作品が、「数字のある風景」とか、「ガラスケース」であった。後者は、後年友人の石川良さんが戯曲化してくださった。
しかしこの「ガラスケース」も、当時はミステリ研の一部でかなり非難された。熱海で行われた全国学生ミステリー研の集まりに招かれたおり、こちらが前方の壇上にいるような時は、そんなことはないのだが、大広間を埋めた学生の真ん中にすわり、というような状況になった時、近くにいた学生の一人が、「あんなもの書くなんて」と言いはじめて、まったく言語道断、人間として信じがたい、というような激しい嘆き方をしたので、びっくり仰天した。
ショートショートだが、自分としては、それほど悪いものとは思っていなかったから驚いたのだが、彼の言い分としては、と言ってもちゃんと言葉で説明してくれたわけではないので、言の端々からの推察理解だが、謎→解決の構造の問題というより、結局のところ、館や密室、殺人などの定番がないから許せない、ということと、ショートショートを書くなど、前例がないから許されない、ということらしかった。
この、ジャンルの前人が誰もやってないとか、みんながやっているパターンと違うのは許せない、さらには本格作家として遇したくない、といった、言動者当人には無自覚の行議論方向の非難、また罰則気分は、これから延々と続くことになった。自らの見当違いの怒りに、しかしその当人たちは議論無用の当然感覚を抱いているふうを目撃するたび、彼らの背後にいる、中高の教育者たちの威圧姿勢を見る思いがした。
この熱海例会のおりに、京大ミステリー研の綾辻氏と会った。といっても、彼とはこの時が初対面ではなくて、その以前に立命館大に講演で招かれたおりが初対面である。壇上で、近作の「高山殺人行1/2の女」の話をしながら、バイクが好きなのだと言ったら、聴講席からわざわざ手をあげ、「乗っているバイクは何ですか?」と訊いてきた学生がいて、それが彼だった。
熱海ではぼくは、学生みなが集まっている大広間とは別に、控え室を一室もらっていたのだが、綾辻氏はここに何人かのミステリー研仲間と一緒にやってきて、思えばこの時、法月氏、我孫子氏もいたと思うが、こんな「犯人当て」クイズを作ったんです。と言って自作を朗読してくれた。よほど自信作だったのであろう。実際朗読を聴いても、犯人はまるで解らなかった。それがのちに活字にもなった、「ドンドン橋落ちた」である。
以前から顔見知りになっていたから、この熱海の時も、京大ミステリー研グループとは特に親しくして、のちに弁護士になる巽(たつみ)さんなどとは、堤防の上を並んで散歩したりした。

その後京都に遊びに行き、綾辻氏のアパートに泊めてもらった。するとそこに、法月君、我孫子君などが遊びにきて、「こんなん作ったんや」と言って、互いに自作の本格アイデア披露の応酬をやっていた。時には夜っぴてやるようで、こういうことが、当時の彼らの日常らしかった。もっとも、今もそうであるのかもしれないが。
その時、綾辻氏が自信作の長編を書きあげたと言い、読んで欲しいとぼくに言った。それで部屋にいる間中読み、翌朝散歩に出て、彼の案内で喫茶店に入ったのだが、その店で残りを読んで、構造の新しさに感心した。これが「十角館の殺人」だった。
この時受けた感銘は、通常の、いわゆる小説的、文学的な面白さではない。この当時彼は、まだ文章はそううまくはなかったし、叙情的な場面、興奮的な場面、風景描写とか、感傷的な筆致、また登場人物の風貌や、各々の性格の相違説明の巧拙と、そんなような通例的な小説評価軸に持ち出せば、「十角館」は失格だ、と言いだす先達は、まず間違いなくいたと思う。そういう人も、今となっては別のことを言うであろうが、当時を思えば、これは確実である。
「黒革の手帳」であったか、かつて松本清張さんが随筆集で述べていた、「彼らの小説には人間がいない」という批判、これは平成新本格の作風に対して言ったわけではないが、これがそのまま綾辻氏たちにあて填まって、それこそ、この批判の構文は、清張さんという巨人の前例踏襲だから、行儀上安全である。ためにその後、繰り返し繰り返し、彼らに向かって浴びせられることになった。
しかし綾辻氏のストーリーの裏面に仕掛けられた企みの面白さ、そしてこれを導く発想の目新しさは、圧倒的であった。このような小説構造は、これまで清張ブームを通過することで、文壇は一種の「文章主義」とでも言うべき呪縛に陥っていて、だから叙述の企みは盲点になっていた。「文章主義」であるから、文章自体は一種の聖域で、ここに何ものか、ある種の爆薬めいたものを仕掛けるという発想は、誰も思いつけないという時代が、あの時期現れていた。
綾辻氏は、ここに目をつけ、これは間違いなく慧眼であった。語弊を恐れずに言えば、彼は美文とか、文学的良い文章といった発想に、少なくとも当時は、まったく興味を持っていなかった。この方向には彼はまことにドライで、だから何でも行えていた。このドライさが貴重で、新しかった。

ぼくは「十角館の殺人」の原稿を預かって東京に帰り、この頃には「ショートショート・ランド」はもうなくなり、単行本の部署に配置転換になっていた宇山氏に見せた。これは、他の誰でもなく、宇山氏でなくては理解が期待できなかったと今は思う。「十角館」の文章は、これまでの文章主義を信奉するならば、悠々とした合格領域にはなかった。作中世界はパターンといえばまったくパターンで、それゆえに読者はだまされるという構造になっているのだが、しかし勘違いして、このパターン傾向という表層だけを批判する人も出そうだった。
また大学のミステリー研の学生の書いたものを、即座に評価して刊行に努力するなど、それこそ自社の賞の存在、先輩諸作家の思惑、これらから敷衍する行儀や、秩序の発想に照らして非常識である。しかし恐れを知らぬ宇山氏は、作品のよさを正確に理解してくれて、刊行実現に努力をすると約束してくれた。
刊行がほぼ決まり、当の綾辻氏が言ったのか、宇山氏が言ったのだったか、それともぼく自身の意見だったのかはもう忘れたが、ペンネームを考えて欲しいと依頼された。綾辻氏は、「蒼鴉城」という京大系の同人誌に作品を書いていて、この当時の彼は、たわむれにたくさんペンネームを作っては使っていた。たぶん彼としては、そのうちのどれかで行ってもいい気でいたろう。文章主義者でない彼は、ペンネームにもまるで価値を見ていなかった。
今も憶えているもののひとつを挙げると、「明日野京」というものがある。ほかにもいろいろあったが、どれも線が細く、姓名判断理論上も、弱い名前だった。それでぼくも、ぺンネームをつけることに賛成した。あの時「明日野京」で行っていたら、今はどうなっていたろうと時々思う。
ともかく、その頃凝っていた姓名判断の本と首っ引きで、ぼくは完璧な名前を設計した。名前は画数だけでは駄目で、音も重要であるが、綾辻行人の名前は、その点からも完全だった。また画数の規定も、各部位において細かく決まっており、総画の重要度はうんと下がる。
できあがった名前を京都の彼に電話した夜のことも、よく憶えている。定着した今となっては不思議だが、当時はあまり人の名前らしい感じがせず、自信がなかった。「ちょっと変わっているんだけどね、アヤツジユキトという……」と恐る恐る言うこっちに、文章主義者でない彼は、いとも簡単に「あ、それでいいです」と言った。しかしそれでは悪いと思ったか、「あ、いや、それがいいです」と言い直した。彼にとって名前などは記号で、何でもよかったのである。しかしそれを聞き、ぼくの方は返ってほっとした。

それから、京大ミステリー研出身者を核として、いわゆる新本格ブームが始まった。これはまあ、「お子様ランチ本格だ」だの、「小説以前だ」だの、「講談社だの、島田推薦だのといった、汚い商売戦略にだまされた」だの、予想に十倍する口汚いののしりの海への船出であったわけで、中にはこちらが心身健康でないと、気分のコントロールを失いかねないような、非常にうまく作られた誹謗もあった。
しかし非常識な宇山氏は、これらにはまったく影響されず、反省態度も全然示さず、終始涼しい顔であった。これはサラリーマンとしてはなかなか許されない態度であったろうが、ともに困難を乗りきろうとしているこちらにとっては──、と書いてみるとちょっと違う。別にこちらにはそんな構えた気持ちは全然なかった。始めてみたら、あまりにも大騒ぎになったので、困難に直面していることを、嫌でも知らされたわけだ。ともかくそういう者にとって、宇山氏のこのいい加減な態度はありがたかった。
綾辻作品の刊行が成功し、あんまり誹謗中傷が多いので、宇山氏もぼくも、これはいささかまずいと思って、推薦に本気になった。一般が放っておいてくれたら、あれほど大勢を推薦する展開にはしなかったかもしれない。こちらとしても、賞がきちんとあるのにこのようなことをすれば衆目の反感を買う、くらいのことは考えていた。しかし綾辻氏をはじめとする非文章主義的、それとも登場人物記号主義的な新勢力は、こちらが解ってあげないと、まず従来的な評価軸からは漏れ落ちるであろうと考えた。
その頃ちょうど歌野氏が訪ねてきてくれ、そのほかにもたくさんの有望新人が集まって、彼らを推薦し、筆名を考えるのがぼくの仕事になった。こちらからぱかりでなく、宇山氏の方からもこちらに原稿読みと、推薦文依頼、筆名設計依頼が来るようになった。
それからいろいろなことがあり、書いていけばきりがない。ああいう仕事は、宇山氏とともにでなくてはできなかった。この点で、宇山氏との出遭いはありがたかったし、むろん彼には感謝している。ふと見れば、宇山氏の名前が最も字画がよくないと気づき、「日出臣」という名前を作って彼にも進呈した。
誹謗中傷に鉄面皮のごときタフな宇山氏であったが、先年鬱病に倒れたおりは、さすがに辛かったようだ。しかし結果としてはわれわれは荒海をなんとか乗りきり──、という言い方もまた、書いてみると違って、今ふと見れば、おや乗りきったのだったかと気づくのであるが、しかしあれだけ全力を絞ったふうの道徳体裁誹謗を浴びた体験は、こちらには作家的な財産になった。書くことがたくさんできた。誹謗の海を抜けたら国をあげての自殺ブームで、こちらにすれば、むべなるかなといった思いもする。日本人の道徳観はまことに危険で、われわれはよくこれに自覚的になる必要がある。

その同志、宇山日出臣氏が、講談社を定年退職する。そこで新宿三井ビルの「聘珍楼」という店の個室を借りきり、ささやかな「送る会」をやることにした。こうして振り返れば、勤務態度、まことにいい加減に見えた宇山氏だが──、なにしろ明け方退社し、翌日は午後にならないと出てこない。嫌な会議には出ない、嫌いな作家は担当しない、という信じがたい編集者であった。好き嫌いの激しいあのA井氏でも、ここまでのことはしない。
しかし宇山氏の遺した功績は、振り返ればなかなか大きい。これは講談社に対してというのみでなく、ミステリー文壇や、その歴史に対して、と大きく出てもかまわない。「新本格の育ての親」という実績はむろんだが、文芸第三編集部の部長となって辣腕を奮い──、と書くとどうも違うような気がするのだが──、結果としてはきちんとそうである。退社直前には、重度の鬱と雄々しく戦いながら──、と書くとこれもまた、ちょっと違うような気がするのだが──、結果としては「ジュブナイル・シリーズ」を発案し、立派に育てた。
だから講談社は、鬱で宇山氏の出社がままならなくなると、文三部長のポストからははずしたが、特別のポストを作って女の子を1人つけ、ジュブナイルの編集にあたらせた。こういう講談社の懐の広さは、軽々な行儀主義でなく、大したものである。M物産にいたら、まず許されなかったろう。

「数字のある風景」から始まった、20年にも及ぶ宇山さんとのつき合いだが、彼とのぼくの最後の仕事は、宇山氏が立ちあげたジュブナイル・シリーズの第一陣、「透明人間の納屋」ということになった。それで、たまたまこれを映画化しようとして動いてくれている友人たち、旧友の脚本家、高田純氏、映像美術の部谷京子氏、プロデューサーの安井ひろみ氏、そして講談社の同僚、M澤N子氏、本の美術を担当してくれた石塚桜子氏などとともに、日比谷花壇でささやかな花束を作り、聘珍楼の予約した部屋に持っていった。
「まあ、このところの宇山さん、花束ももらい馴れているでしょうけど」と言って渡したら、
「いやいや、そんことはないです」と彼は言った。
威張らない宇山氏は──、と書くとまた違う気がする。本当に彼は文筆家泣かせである。従来のパターンに填まらない。
彼は、主義として威張ることを自身に禁じているのではなく、天然自然に威張る方法を知らないのである。こういう日本のサラリーマンは、ぼくは彼以外に知らない。
そう聞いたら、宇山氏はただからかわれているだけと思うであろうが、ぼくにとってはこれは、最大限の賛辞である。宇山氏のキャラクターは、日本の21世紀を向いていた。彼こそは正しく、自殺社会の救済者であった。
ミステリー文壇でともに20年をすごした宇山氏には、早く鬱病を治してもらい、嘱託でも、外部編集局でも、形式はなんでもいいから、また日本の本格ミステリーのため、力を尽くしてもらいたいものと思っている。
 
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