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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第243回
島田荘司のデジカメ日記
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10−4(火)、青山劇場「吉原御免状」
細川氏が、自身の主宰する劇団新感線による青山劇場の舞台、「吉原御免状」に招待してくださった。これは隆慶一郎氏原作の小説を脚色したもので、徳川家康が、江戸開府の時点で実はもう影武者であった、とする説を採っている。さらには山の民、平地の民の系譜についても、扱われているらしい。
この考え方には興味がある。隆氏の作にもずっと関心を持っていたのだが、忙しくしていたせいもあり、何故だか今まで読めずにいる。以下は、よって隆氏の作の内容とは、あるいは違っているかもしれないが、自分の考え方を加味した、ぼくの物語理解である。

日本には古来から、山の民の系譜がある。この民は、日本列島の脊梁山脈を伝って、決して人里には降りずに南北を行き来した。このためこの一族は、脊梁山脈中に張り巡らせた道路網や、途中で手に入る食料の確保、その場所、種類、宿泊に適した場所などの詳細情報を、伝来の秘密情報として持っていたと考えられる。
日本民族は、その発生時から畑作稲作を定地で営み、これを生活の糧としてきたように理解されているが、これは誤解で、稲作の伝来は実のところずっと最近、ほとんど有史以来、邪馬台国の3世紀頃からと考えられる。最近の研究では、これより以前から稲作はあったとする説が台頭しているし、三内丸山の遺跡にも、定地農法は確立していたと最近では言われる。が、どうやら紀元前までは遡りそうもない。
このあたりが重要な議論になるのは、まあ簡単に言うと、縄文・弥生の二系譜対立の構図で日本史をとらえたいがためで、平地の民、山の民という対立分布の把握は、渡来の弥生系が農耕に適した平地に住みつき、狩猟採取の縄文系を山地に押し出した、といった考え方からである。
縄文系は日常的に弓矢を使うから野蛮で怠惰、弥生系は農耕民だから平安志向で勤勉、というイメージがある。しかしこれがまた誤解で、発掘される弥生系の遺跡は、吉野がり遺跡に代表されるように、殺戮と戦乱の事情を語るものばかり。一方縄文系の遺跡には、戦争の痕跡は、これまでのところほとんど見出されない。したがって大陸性でいくさ馴れした新参の弥生系が、平和な縄文系を武力で駆逐したという推察は、比較的考えやすい。
この日本先住の山の民、縄文系が、現在北海道に残るアイヌ系であることは、最近のミトコンドリアDNAの追跡調査で,ほぼ確認されている。

山の民は山中の道を行き来していたが、山中は決して生存に厳しい条件とばかりは言えず、山は狩猟採取の舞台であり、日本各地のどの山中にどんな木の実が落ち、どのような小動物が生息しているのかとか、どの川にいつ、どんな魚が昇ってくるのか、といった情報を民族間で共有し、かつ駆使すれば、山中のみで充分に暮らしていける。
山の民の生活圏山の道は、むろん道とは言っても幅数十センチのものが大半だが、本州全土をネットしていた。伊賀系の忍者の修行領域、山伏の山間修行、あるいは義経が金売り吉次に導かれての平泉逃避行とか、南北朝時代の、外人部隊ともいうべき外部勢力の活動範囲はこうした山のルートと重なるので、このノウハウを持つ一族の協力が関わった可能性は充分にある。
しかしこの南北に通じる脊梁山脈の道が、どうしても1個所途切れる場所があり、ここでは山の一族も地上に降りるほかはなく、これが琵琶湖周辺であった。このあたりでは山の民は、道端で歌舞音曲を聴かせ、平地の民から金銭を稼ぎ、女性の一部は売春もした。
戦乱の時代にはそれなりに使い勝手のよかったこの山の民だが、武家安定政治の時代に入った徳川の治世には具合が悪くなった。この時代には士農工商という安定した身分制度が作られ、国民の国内の通行は、要所に設けられた関所によって厳しく制限され、秩序がもたらされた。
ところがこの山の民は、関所を通過せずに本州を行き来できるノウハウを持つ。さらには、民族のルーツが異なり、生活の糧も自然のものから得るので、徳川による士農工商の分類の外側にはみ出す。さらには、戦乱の南北朝時代にはその特殊技能が重用され、天皇に自由に謁見する権利も持っていたともいわれるから、この時代的記憶から、山の民は、自らを天皇と同格身分とも考えていた。幕府側にとっては傲慢至極にしてまつろわぬ民で、管理上具合がよくない。そこで弾圧にかかる、そういう幕府と山の民との対立の構図を、花魁と若武者のロマンスも交え、活劇的に描いたものがこの物語ということらしい。

山の民は、自分たちの自治と自由との砦として、吉原という遊郭を江戸に建設しようとする。そこに家康自身が、このコミュニティの自治制を認可する「御免状」というものを与える。それは、実は家康自身、この山の民出身のもとは影武者であり、家康が死亡したから、江戸開府の時点ではすでに家康に成り代わっていたためである。
説得力のある設定で、充分にビリーヴァブルである。家康は服部半蔵を介して忍者集団を活用したことは史実で、この一族が山の民と関係を持っていたことは充分あり得るし、その中に、家康と似た風貌の人物がいた可能性もあるだろう。こう考えれば、当時としては常識破りの遠隔地、人も訪れない僻地への開府や、異様なまでの慎重さ、謙虚さにも相応の理由が生じて、以前にぼくもそのように考えていたことがある。
しかし幕府側のエリート武装集団、柳生の一族などはこれを苦々しく思っていて、吉原つぶしにかかる。そこに、宮本武蔵に育てられた松永誠一郎という若い武士が関わって、彼に憧れる花魁、その花魁を好きな武士が入り乱れ、舞台上に活劇が展開する。

ぼくは、忙しくしていたこともあり、帰国の日を1日間違えて、細川さんに招待いただいた当日に成田に飛来することになってしまった。空港まで迎えてくれたI毛編集者のSUVを疾走させて青山通りに急行、雨の中に飛び出して歩道橋を全力疾走し、ようやく後半の舞台に間に合った。
舞台のできは見事なものであった。ニューヨークで観た「オペラ座の怪人」にも遜色のない演出が随所に凝らされていて、大いに楽しめた。コンサート並みの音響装置や、刺殺の瞬間、舞台全体をぱっと真紅に染める照明演出、よく統制の取れた群舞、舞台床をほとんど瞬時に充たす白煙や、ちゃんばらの際、刀と刀が触れ合う金属的な音を、動きにぴたりとシンクロさせて場内に轟かせる演出など、非常に進んだものであった。
「オペラ座の怪人」に遜色がないという言い方もあまり正鵠を得てなくて、今日の舞台演出の技術がそういうところまで進んでいるから、グローバル化の現在、これは世界規模の一種の流行、共有技能なのであろう。そうなら、一線級の芝居の舞台が似てくるのも当然である。「オペラ座」では、これに加えて炎の演出が大胆で、これに度肝を抜かれたものだが、日本では消防法の規定があって、これは許されないのであろう。
舞台は、雛祭りの雛壇を観るように華麗であったが、フィナーレにはこれがピークに達し、まったく絢爛豪華なものであった。この舞台のチケットが、今はなかなか手に入らない、プラチナ・ペイパーとなっているのも頷ける。ニューヨークの「オペラ座の怪人」の舞台が、西洋人形のドルズ・ハウスなら、日本の「吉原御免状」は、日本人形の雛壇である。これはあるいは演出家が「オペラ座の怪人」を睨んでそのように意識し、この物語を選んでいるのか、たまたま双方を鑑賞して比較ができた自分は幸運であった。

 ロビーで細川氏に再会し、青山通りを横切って、ZOOGUNZOOというワインの店に行き、苦労話を聞いた。
キャンバラの際の刀が触れ合う音は、これは舞台上を見ながら、キーボードを叩いて行っているのだそうである。たまに観客から、よく音に合わせ、ずれずに立ち廻り演技ができるものですねと感心されるが、これは逆で、演技を観ながら、舞台下で各種の音をたてている。
目を奪う連欄豪華な衣装について言うと、ま、舞台ではそうですね、と細川氏は言う。練習中はみんなジャージ姿だったりして色気などない。昔の知人などから、あんな綺麗な役者さんたちと一緒に仕事ができてうらやましいと言われるが、女優たちに色気や関心を感じたことなど一度もない、公演が終わるまで一瞬も気が抜けないから、それどころではないと言う。
今回の舞台は、まるで誠一郎役の堤真一氏のアイドル歌舞伎のようであったが、確かに今、彼は大劇場を何週間にもわたって一杯にできる数少ない役者の1人だが、本番直前にもし彼が倒れたら、細川氏はたちまち億という負債を抱えることになる。だからいつでも夜逃げができるよう、家族は持たず、家財道具の類は家に最小にしているのだと笑って言った。考えてみれば、大変な職業である。
細川氏とのつき合いができたのは、彼が拙作「透明人間の納屋」を、やはりこの新感線で、パルコ劇場にかけてみたいと考えたからなのだが、現在脚本まで作りあげてみたものの、なかなかむずかしい要素が生じている。彼はあれを純文学として読み、感心してくださったのだそうで、そこで作に忠実に台本化してみたら、トリックの部分が説明的になりすぎて、舞台に馴染まないのだという。これは、こちらにもよく解った。そこで、少年と真鍋さんの心情的関わりの話のみにしてもよいのでは、こちらはそれでまったくかまわないですよ、と言っておいた。
そんな状況だから、まだ実現するかどうかはまったく不明だが、ぼくとしては、「吉原御免状」の舞台が華麗で見事だったから、実現して、渋谷まで観劇にいけたら楽しいだろうと考えている。
 
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