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島田荘司のデジカメ日記
第242回
島田荘司のデジカメ日記
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8−12(金)、月島の今昔
LAサンタモニカに、「ヴィデオット」というマニアックなレンタル・ヴィデオ屋さんがあって、映画マニアの大学生などがよく溜まっている。ぼくも割合ひいきにしていて、以前「聖林輪舞」を書いていた頃は、ここでキートンやチャプリン、早川雪洲などの古い映像を見つけ、片端から借りて観た。
「妖星ゴラス」という古い、懐かしい東宝映画をここで見つけたこともある。21世紀初頭、つまり今だが、この映画の中の東京には航空宇宙局があり、官庁街から車ですぐの場所に広大なロケット基地があって、日本航空宇宙局の隊員たちが、制服に身を固め、このロケットに乗り込んでは頻繁に宇宙に飛び出していた。都心に隣接する東京の宇宙基地は、「ゴラス」に限らず、当時のSF映画や少年漫画に、定番のごとく現れていた。
この種の空想映画をさかんに観ていた中学生時代、米ソは人工衛星を飛ばしているのだから、遥か遠い21世紀ともなれば、わが東京にもこういう時代が訪れるのであろう、と漠然と考えていた。しかし今、気づけば時代は2005年、これらSF群の作中時間にわれわれは追いついたが、見渡しても、航空宇宙局も、ロケット基地も、影もない。東京には、ついにこれらは現れることがなかった。60年代にみなが夢見た未来は、空中にさまよい、迷子になった。
けれど当時も、東京にこんな広大なロケット基地が、それも霞ヶ関官庁街のそばになど造れるはずがないではないか、ビルで埋まった街の、いったいどこにそんな土地があるのか、と子供心にも不審に思ったものだ。大人は、ずいぶん大人気ないことをことを考えるものだと思ったが、これは一概にそうともいえない。当時こういう物語を構想していた作家たちの脳裏に、案外それなりの根拠があったかもしれない。宇宙基地の、具体的な設定場所が存在した可能性はある。

秋庭俊氏の労作群、「帝都東京・隠された地下網の秘密」の2や、「帝都東京・地下の謎86」には、「大東京市復興計画案(『東京の都市計画をいかにすべき乎』より)」という図面が紹介されている。これは建築家、中村順平氏が、内務省主導のもとに、大正13(1924)年に製作した関東大震災からの理想的復興を示した青写真である。一次大戦時の分捕り品である、ドイツ製の高性能カメラで撮影した帝都の航空写真をもとに、理想的な帝都交通網が設計されている。東京は、こうした提案が繰り返し提出されてきた街だが、お役所はすべて事なかれに徹して現状維持、無難な正常進化でここまで来た。
秋庭氏による、東京の地下に対する考察や研究は非常に興味深く、ぼくは以前より注目している。近作の長編「帝都衛星軌道」などは、ほんの少しではあるが、秋庭氏の著作を参考にした。秋庭氏は常に地下に着目するが、この復興計画案図でたちまち目を引くことは、皇居の東南の方角、東京湾に浮かぶ月島の、南面に描かれた謎の巨大円である。面積はほぼ皇居に匹敵する。
皇居の南東角から、あるいは官庁街、銀座の服部時計店の交差点から、この巨大円の中心点を目指して、大通りが一直線に走っている。隅田川は、どうやら現在の勝鬨橋の位置を渡っているらしい。大正13年当時、勝鬨橋などはなかった。当時は、「勝鬨の渡し」という渡し舟があるだけで、勝鬨橋の完成は昭和15年である。大橋の左右には、やや道幅の狭い2本の小橋が、配下のようにつきしたがい、かかっている。
巨大円の西南側には、ホテル群か軍施設か、それともなんらかの研究施設か、いずれにしても整然と並んだ建物群が隣接して、これらが、この謎の巨大円に付属する施設であることは疑いがない。「妖星ゴラス」の作家が、東京のロケット基地として構想していた場所は、この月島の巨大円ではなかったかと気づいた。
この巨大円が正確に何であるのかは、現在ではもう不明だが、おそらくは飛行場か、ヒンデンブルグ号のような大型飛行船の発着場に想定していたのではないか。当時、羽田空港などはむろんなかった。羽田空港の開業は、昭和6年である。
帝都の中心、皇居の正門に陸路到着する者は東京駅宮殿に、空から訪れる者は、その背後の月島円形離着陸場にと、当時の東京人は、軍人、文人を含めて、このように整頓した発想を抱いていたのではないか。とすれば月島は、東京の表玄関、世界に向けた日本の顔となっていた可能性がある。
確かに広大な航空機施設、そしてそれが都市中枢とアクセスがよいこと、などと発想するなら、それは皇居のお膝もと、東京湾の洋上にしかない。そしてこの航空機用施設は、同時の国情を鑑みれば、そのまま軍事施設でもあったはずだ。当時の日本庶民は、生涯飛行機になど乗ることはなかった。
そして当時の日本は、大東亜共栄圏の長という壮大な自負心を持っていたのであるから、政府内務省が、来たるべき宇宙時代においては、ここを日本のケープケネディにしようと考えていなかったとは言えない。

近代日本が、黒船開国によってスタートしたとすれば、帝都東京の近代都市化は、これに対抗せんとする江戸湾のお台場から始まった、と言うことは可能だ。
翌年の再来訪を告げ、黒船がいったん帰国すると、老中安部正弘は、即刻大砲50門の製造を命令。品川砲台の突貫工事を命じる。さらに7つのお台場、砲台を造りはじめ、結局これらの砲は、一度も火を噴くことなく開国となったが、この建設費用は莫大で、幕府が3回倒産したほどの額だと聞く。
東京湾の守りという危機意識は、その後の新政府にも引き継がれて、昭和にいたる頃には、対黒船というならば、鉄壁とも言い得る湾内防備を完成するまでにいたった。千葉県側と神奈川県側に強力な砲台を造り、さらには湾内に複数の人工島を造ってこれに砲台を置く。侵入する敵戦艦には、これらによって十字砲火を浴びせる。十字砲火とは、正面方向からと、横方向からの同時に砲撃をする、上から見れば十字のかたちなって、理想的な攻撃の形態となる。
昭和20年、敗戦直前の新聞には、「潜水要塞」というSFめいた記事が現れている。これは普段は潜水して姿を隠しているが、敵機や敵艦が来襲するとやおら浮上して砲撃を加えるという、稼動砲台の構想である。
しかしこれらは、黒船が再び東京湾内に侵入する際のことばかりを愚直に想定したもので、時が二次大戦にいたると、現実はそうならず、東京湾上の砲台群は、まったく火を噴く用事がなく終戦となる。しかしこのように都市の機能を、相応の予算を組んで計画的に整備するという発想を、日本人は黒船によって教えられた。

 そして現在、月島はまたしても劇的に変わろうとしている。もともとこの人工島は、江戸の頃から隅田川の河口にあった佃島が、出現の芯となっている。徳川家康が江戸に開府した際、三河の佃村の漁師をここに大挙して強制移住させ、漁業を行わせた。だから佃島である。
江戸湾は、開拓地江戸に人が集まるにつれ、海に排出される米のとぎ汁や、大量の野菜くずなどに呼び寄せられて、各種の魚が集まった。鯨までが入ってきた。かくして江戸は、こうした江戸湾の魚に支えられて百万消費都市となり、やむを得ず出る住民のゴミは、この島の西南側に集めて捨てたから、結果として埋め立てになった。近代に入ってこの埋め立ては加速し、小さな佃島は、現在のような長大な月島にと成長した。
ここは帝都東京の喉元にあたったから、海防の重要拠点となり、さまざまな海浜施設が構想された。そして同時に、どこかで空想科学物語を支えもした。飛行船やロケットが発着し、南からは台風の化身、ゴジラが上陸した。月島がなければ、あれらのSF物語はあまりに荒唐無稽となってしまうから、少々構想がしづらかった。

しかし戦争の危機が去った現在はまるで違い、月島は21世紀型新東京の、重要拠点ともなりつつある。かつて江戸の中心地は、お江戸八百八町の日本橋界隈であり、これがそのまま近代化した銀座は、帝都の中心地となり得た。高度経済成期の東京は、これは明らかに新宿新都心に象徴される。この街の高層化が、戦後日本の輝かしい発展のシンボルだった。
そして、21世紀の東京はと言えば、「ゆとりの水べり都市」ということになるらしい。国防の要が消滅した江戸湾は、砲台とはまた別の需要から、次々に人工島の面積を増やし、新しい水上街を作りつつある。フジテレビはこの流れを読み、いち早くお台場に社屋を移した。
宇宙基地が構想された月島に、今東京タワーズという58階のツインビルが建つことになった。これの大部分は分譲と賃貸しのマンションだが、さまざまな商店やレストラン、文化施設が入リ、2000人規模の空中新町をいきなり現出せしめる。ショウルームを見学に行ってみたら、見事なツインタワーの模型が、何種類もできていた。
現在の月島は、某宗教団体のグループ経営とも噂される、お好み焼き屋群が雑然と街を埋める。こののどかな庶民の領域が、ツインタワーを核として、新たな都の中心軸ともなりそうな気配が出てきた。思えばこの月島は、銀座四丁目からタクシー・ワンメーターの距離であり、勝鬨橋を渡れば、徒歩でも銀座に出られる通勤圏、散歩圏内にある。これまでひっそりとしてきたのが不思議でもある。
東京タワーズが完成したのちは、「ゆりかもめ」が路線を延ばして月島に乗り入れ、首都高もそばをかすめて走る。水上バスは付近から発着して、ここを含めた無限の湾岸線は、昆虫や水鳥の遊ぶ自然公園や、各種遊興施設の景観になるらしい。緑を廃した厳しい高層ビルの時代を過去にして、東京は水と緑の江戸的なるものに、ゆっくりと回帰する。かつてSFを載せてきた月島は、やはり未来を背負っていた。

東京タワーズ建設予定地のすぐ足もとに、「東海道中膝栗毛」の著者、十返舎一九の墓があった。案内板によれば、彼の墓はもともと浅草永住町の東陽院にあったが、関東大震災でこれがつぶれたので、月島に移されたのだという。彼の有名な辞世の句も、かたわらに示されている。
「この世をば、どりゃお暇に、線香の、煙とともに、灰左様なら」
激動の変遷を載せ続けた月島を、彼は今、草葉の陰からどう見ているのであろう。
 
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