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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第240回
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8−9(火)、総社宮と吉備路
われわれが金枠で昼食をとっている間に、ツアーコンダクターのA井さんが、総社駅前の観光組合のタクシーが、吉備路を巡る「タクシー貸切プラン」というものをやっていると聞き込んできた。これは、運転手が観光ガイドも勤めてくれるという便利なシステムで、料金はリーズナブルな固定制になっている。1時間コース、2時間コース,3時間コールと3プランがある。これはよいというわけで、お願いすることにした。今日1日はすっかり総社探訪にあてているから、時間は充分ある。そこで最長の3時間コースにした。これなら総社の史跡を、大半巡れるであろう。
食事を終え、金枠から目と鼻の先のタクシー会社に行き、人柄のよさそうな熟年の運転手と挨拶を交わしてから、4人でタクシーおさまる。総社駅前発の貸切タクシー3時間プランの出発で,まずは手近なところから、「備中国、総社宮」を観てくださいと、運転手氏は言う。

個人的な事情を少し言うと、ぼくにとってはこの神社が、最も重要であり、観たかった場所であった。小説の内容をちょっと言うと、総社市内のとある神社に、町内の氏子たちの料理の会とか、踊りの会などに貸し出されている離れがある。「雪舟祭」という夏祭りの日、町内の主婦たちが、ここを借りて日舞とすき焼きの会をやっていたのだが、どこかで異臭がして、妙だなと思っていたら、なんと床下に腐乱死体があった。匂いはまだあったが、死体は黒く変色して、時間もかなり経っていた。
彼女たちはパニックになり、離れを飛び出して警官を呼びにいく。というのもちょうどこの日、神社の境内では雪舟祭が行われていたから人出が多く、その警備のため、総社署の警官も境内に来ていたからだ。主婦たちに呼ばれ、警官はほんの五分で現場に駈けつける。ところが、いったいどうしたことか、腐乱死体は忽然と消え失せていた。
死体発見の現場となった離れは、境内のすみ、塀ぎわにあって、祭の人出からは多少離れていた。しかし警官とともに、たくさんの人々もいっせいに、ほんの5分ほどで現場に駈けつけているのだが、死体はない。発見した主婦たちは、みなわけが解らない。現場は塀ぎわで、塀の1枚外の通りには、祭の人出が大勢歩いていた。死体を持って逃亡するような、不審な人物を観た者はいない。
集まった警官たちは、その後現場の離れ周辺の地面の、掘り返したような形跡をまず調べ、続いて大勢で境内の池に入って、底を徹底してさらい、離れの建物の軒下、屋根裏、屋根の上、周囲の松の木々の上も確かめるが、死体などどこにもない。のみならず、離れの付近には樹など、背の高いものもいっさいない。積みあげた石だの、丸太だのも付近にはない。さらには駐車している自動車、屋台の出店、そのほか体積を持つものはまったくない。離れはだだっ広い広場の端に位置しているという、これまでに、まずミステリーに現れたことがないような、消失現象にはむずかしい条件下にある。
この総社宮を、ぼくはこういった不可解現象の現場に想定していた。けれど実際に見るまでは、考えた条件にかなうものか否か、いささか不安であった。もっとも、別に現場が実在の神社である必要はない。架空のもので充分であり、むしろその方が安全である。実際、名前も少し違えてあるし、雪舟祭というものは、雪舟フェスタという名で実在するが、この神社で行われているということではない。だからどのあたりの神社にすべきかを迷ってもいたが、町内の商店街の集まりというなら、駅からそう離れていない方がよいし、実在する神社が条件にかなうならば、それはそれに越したことはない。
ところが総社宮に来てみて驚いたことには、あまりにイメージがぴたりだった。まるであつらえたか、それともこちらの妄想の中に、現実の光景が飛来してくれたようで、これならこの総社宮を舞台に設定してよさそうである。総社駅前にもほど近く、場所もすこぶる具合いがよい。境内の敷地も広々として、見事な池もあり、屋根を持つ長い回廊もある。これは三島式という、古代の庭園様式そのままに造られているのだそうだ。出店の屋台が並ぶスペースも充分で、大きめの祭の舞台としても、充分に行けそうである。町内のイヴェントに開放する離れらしきものも、これはイメージにびたりとはいかないが、なんとかありそうだ。
吉備の国には神社が多く、その昔国司は、このそれぞれを巡って祭儀を行っていたが、平安時代、国府に近い一箇所に、国中324社の神をまとめた一社を造らせて、ここで合祀を行うようにした。「総社」の名はここから来ており、現在でもこの総社宮は、広大な吉備路の神域を代表している。総社の街は、この神社の門前町として発展した。市名の総社も、この神社名に由来する。

タクシーの運転手は、神社の裏手に「まちかど郷土館」というものがあり、自分はそこで待っているので、神社の見学が終わったらそっちに来て欲しいと言って、車を発進させて廻っていった。そこでぼくらも、総社宮を見終わったらそっちに向かっていった。というより、お参りして見物を終え、回廊を進んでいけば自然に郷土館に出る。
まちかど郷土館は、板張りの2階家に、白ペンキ塗りの、非常に瀟洒なアメリカン・ハウスであった。この様式は、ロスアンジェルスにももう少なくなった。エリザベシアン・スタイルと呼ばれて、アメリカでも珍重され、保存の対象になっている。総社のこれは、明治43年に建築されたもので、もとは警察署であったそうだ。女性好みのこの可愛いスタイルと、威圧と暴行の明治警察という組み合わせは、なにやら皮肉でぴんと来ない。総社市でも、これが現存する唯一の明治建築物なのだそうである。
ところが館内に入ると、非常に性格のよい案内の方がわれわれを案内してくれたので、感激した。予算の具合があってちょっと暑いんですがと言い、1階、2階とくまなく案内してくださる。1階は市の歴史、2階は市の特産物が展示されている。確かにエアコンがないから暑い。
総社の特産品で有名なものは、意外だったが「備中売薬」と、これは意外でない「鋳物」であった。売薬というのは、昔各家庭を訪問して常備薬を置いて歩き、翌年にまた来て、使用した分だけの料金を受け取るというあれで、福山で育ったぼくなどには、子供時分のおぼろな記憶がある。しかし、富山の名物なのだとばかり思っていた。では福山のあれは、この総社あたりから来ていたものだろうか。
鋳物の方は、これは伝承通りの「阿曽(あぞ)の鋳物業」で、温羅(うら)がこの地に伝えたとされる製鉄の流れを汲むものであろう。温羅時代の製鉄とは、間違いなく鋳物であったはずだ。面白かったのは、戦時中鋳物で手りゅう弾も造られたことで、しかしこれは試作で終わり、生産される前に終戦になった。館内の壁には、横溝正史氏もこの館内を見学した、という往年の新聞記事の切抜きが貼られていた。
総社宮の次には、郊外の緑を縫って備中の国分寺を見学、ここには県下では唯一という五重塔がある。塔は江戸時代末期の建築物だが、20年もの歳月をかけて再建されたものだそうだ。

次はなかなかのハイライトで、造山古墳というものである。これは5世紀前半の建設。長さ360メートル、幅230メートル、高さ24メートルという巨大なもので、岡山県下では第1位、国内全体でも第4位という巨大なものである。にもかかわらず、これのエポックは自由に入れ、頂きまで登ることができるという点で、一般が自由に登れる古墳としては文句なく日本一の大きさだ。
タクシーが水田の間をひた走り、広々とした平野の彼方、まだ穂を付けない緑色の稲越しに、こんもりとした造山古墳の姿が見えてきた時には、さすがに伝説の吉備王国のただ中に自分がいるという実感が来た。自然の山としか見えず、5世紀の当時にここを訪れたなら、さぞ土地の王の権威を見せつけられる気がして、威圧も感じたろう。
この地の古墳としてはこの造山がもっとも大きいが、吉備路の古墳はこのほかにもたくさんにある。こういう事実から見ても、「空白の5世紀」中に君臨した吉備王国の支配階層は、伝承が伝えるような、百済からの渡来人温羅が1人などではなく、相応の年月と、かなりの世襲を重ねた複数の支配層であったと考えなくてはならない。また大和朝廷に滅ぼされるまでのその権威は、並大抵のものではなかったろう。この古墳事業の費用を考えたら、蓄積されていた富の量、すなわち国家予算も、相当のものであったはずだ。
あがってみると、造山古墳の頂きは鬱蒼とした緑の中になっていて、小さな古い社がぽつんとある。石段があり、隣には鐘突き堂があり、意外に仏教的な様子だ。これは当然後世の改竄だろう。あがってみればあまりに普通で、少々拍子抜けがする。と言っても、では何を期待していたのかと問われると、確かに何もない。しかし木々の隙間からの眺めはなかなか素晴らしい。のどかな田園風景が広がり、甍が連なる。この光景は、間違いなく5世紀当時のものでもあるだろう。これに加える鋳物業者の煙、それが伝説の吉備王国の姿であったはずだ。
ここはいわゆる典型的な前方後円墳で、過去の調査時、埋葬されていた円筒埴輪が数千体も見つかった。そしてこの巨大古墳の周囲には倍塚と言う、配下の者たちの小古墳がいくつもしたがっているらしい。

古墳の次には、いわゆる鳴釜神事の伝わる吉備津神社を訪れる。ここも屋根つきの回廊を持っていて、規模では総社宮を上廻るような規模と、風情がある。
続いて「高松城水攻め」の史跡。これがまた、吉備路歴史探訪のハイライトである。時代はずっと下って戦国の世。天下人となる豊臣秀吉のターニングポイントであり、実質上、ここが彼の最重要戦であったかもしれない。備中のこの地で、彼は天下人となる決意をした。
天下人を目前していた織田信長の、西国最強のライヴァルが、この備中を拠点とする毛利氏であった。秀吉は、信長の命を受けて毛利の守りの要、高松城の攻略に向かったが、高松の城は、茫漠たる沼地のただ中に建つ天然の要塞で、ぬかるみに足を取られて容易に近づけない。現地に立ち、こういう事情を知った時、秀吉に一世一代の知略が閃く。広大な沼の平野なら、いっそ付近の足守川を堰き止め、人工の湖を造りだして、城を水のただ中に孤立させ、兵糧攻めにしようという雄大な計略である。天下取り最後の難関、小田原城攻めの「一夜城」と並んで、歴史に名高い秀吉の奇想天外である。
秀吉軍は、長さ3キロに及ぶ土堰をわずか半月で築き、梅雨で増水した足守川を、大岩を積んだ30隻もの小舟を沈めることで堰き止める。この知略を示して作戦を助けたのが、秀吉の名参謀とうたわれた黒田官兵衛だった。
ところが首尾よく水面に孤立し、兵糧も絶えはじめた高松城を前にした時、主君信長、本能寺討ち死の報が秀吉陣営に届く。秀吉は取り乱し、前後不覚になるが、この時も官兵衛が冷静に作戦を立案、秀吉に天下人になるよう勧めたと言われる。
この時の黒田の謀略の冴えは驚異的で、信長死の報が高松城内に届く前に和睦を果たすため、毛利への領地要求は大幅に割譲、後は高松城主の切腹のみとする破格の要求を即刻発し、その代わりに毛利の旗を無数に借り受ける。翌朝、高松城主が白装束で人工湖に漕ぎ出し、舟上で辞世の舞を1曲舞って腹を斬るのを秀吉に見届けさせておき、官兵衛自身は毛利の旗を持って西に奔走し、兵糧の確保と、謀反人明智追討のための兵を集めた。
この時の黒田の謀略の冴えは驚異的で、信長死の報が高松城内に届く前に和睦を果たすため、毛利への領地要求は大幅に割譲、後は高松城主の切腹のみとする破格の要求を即刻発し、その代わりに毛利の旗を無数に借り受ける。翌朝、高松城主が白装束で人工湖に漕ぎ出し、舟上で辞世の舞を1曲舞って腹を斬るのを秀吉に見届けさせておき、官兵衛自身は毛利の旗を持って西に奔走し、兵糧の確保と、謀反人明智追討のための兵を集めた。
吉備路平野のただ中に立ち、日本史に高名な「高松城水攻め」の史跡に立つと、この平野一面を埋めた水面に、小舟を浮かべて舞を舞い、切腹して果てる高松城主の姿が見えるような心地がする。

続いて最上稲荷を見学、ここでは祈願の細札があったから、これに「犬坊里美の冒険」と、新連載小説のタイトルを書いて祈願奉納をしておいた。そうしておいて、最後の見どころ、温羅の「鬼ノ城」に向かう。
この道行、車中では、二井岡さんの夫落としの首尾について、A井さんが熱心にインタヴューを敢行していた。いわく、意中の彼がいる店に、「カープ・ソース」という独特のソースの、それも小瓶をひと瓶のみ買いに、連日通ったのだそうである。ところがまずいことに、このソースには大瓶があり、「大瓶にしたますか?」とか、「ダースで買っていく?」などと問われて大変困ったらしい。しかしそこを「いえ、いいんです」と切り抜け、ひたすら小瓶を買い続けた。
困ったのは増えすぎた小瓶ソースの処理で、当時の友人に、会うたびに1本ずつプレゼントした。店の彼には、この娘は、食べるものすべてにカープソースをかけているのだろうかと不審がられもした。しかし、無事に彼を亭主としたのであるからめでたしめでたし、大願成就である。男性攻略の、この黒田官兵衛ぱりの知略に(というほどでもないが)、A井氏も小川さんも、感心することしきりであった。もっともA井さんも似たような経験をしており、その首尾は以前に北海道の旅で、やはり車中で聞いた気がするが、もうすっかり忘れてしまった。まあこれはただ顔を出し続けただけで、二井岡さんのもののような知略はなかったと思う。

鬼城山の上にある史跡、「鬼ノ城」に着く。これはかなり急な山の上にあって、道はアップダウンがかなりきついから、徒歩や自転車であれば、さぞ時間がかかったであろう。駐車場からさらに山道を行き、ようやく着いてみたら立派な山城が再建中であった。近くの展望コーナーに立つと、わずかだが瀬戸内海までが望める。
鬼ノ城というのは、城ばかりではなく、付近に天然の岩場を利用した洞窟めいた付属施設もあるからで、確かに人というよりは「鬼の棲み処」という名がふさわしく、獣の巣のような荒々しさがある。
城は、展望台か休憩所のようで、温羅の築いたものも実際にこのようだったのか、と首をひねった。観光客のため、という感じがしないでもなく、デザインは毛利の時代のものとはずいぶん違う。まずは石垣ではなく、施設全体は、突き固めた土の土台に載っている。これは本当であろう。城も機密性はあまり高そうではなく、冬は寒そうだ。それでやはり、毛皮を持った動物のもののような印象が来る。また狭いし、弓矢をよく防ぎ、攻めにくそうな気配はあまりない。
さらには、これもそれなりに根拠があるものか、あちこちに置かれた、矢を防ぐためらしい木製の楯に描かれた図柄が、南方ポリネシアふうで、朝鮮由来という感じがあまりしない。鬼ノ城という言葉からの連想であるようにも思われる。まあこのあたりはあまり詳しくないので、なんとも評論ができない。あるいは温羅の時代、このような軍デザインが主流であったのだろうか。
しかし、伝説の吉備王国を一望にできる城からの眺めは見事で、これは平城の高松城などにはない強みである。じっと眺めていたら風が涼しくなり、陽が落ちてきた。山道を引き返し、駐車場近くにある「鬼城山ヴィジターセンター」に寄って、展示を見学してから駅に向かって下山した。
この頃、ちょうどヴィジター・センターは閉館の時刻となった。3時間コースのはずだったが、運転手氏が時間を延長してくれたようだ。
 
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