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島田荘司のデジカメ日記
第239回
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8−9(火)、幻想の吉備王国
岡山地方というと、すぐに浮かぶものが「桃太郎の鬼退治」伝説だが、これには実のところ、深い裏の意味がひそんでいる。岡山の北方の田園地帯には、かつて東の大和朝廷に匹敵するような一大文化・軍事勢力があった。その勢力の大きさは、田園に散在する巨大古墳群の姿からもうかがい知れる。これを拓き、築いた者は、4〜5世紀頃朝鮮半島の戦乱を逃れてきた、1人の百済の王子であったという言い伝えがある。
当時の吉備地方は、現在よりもずっと海岸線が総社市や岡山市に向かって切り込んでいて、倉敷などは海中だった。よってこの地の者たちは早くから百済など、海外と海上交易を成しており、そういう縁で、百済の王子も日本のこの地に渡海、避難してきた。
土地の者たちは外国の王子に誠実に接し、かくまったので、王子は謝礼として大陸の進んだ製鉄技術や、造船の技術を土地に伝えた。この鉄が優れた農具となり、同時に強力な武器ともなったから、吉備地方には一大軍事勢力が発生し、拡大した。王子は、朝鮮半島からの追っ手に対処するため、標高400メートルの山地に、朝鮮式の古代山城を建設、周囲には城壁を巡らせ、付近の岩屋山には盾を配して、祖国からの侵攻に備えた。渡来人一行は、この砦を「ウル」と呼んだので、王子は土地で、だんだんに「温羅(うら)」と呼ばれるようになった。
「空白の五世紀」という言葉が日本史にはあるが、これは文献と文献のはざまで、いっさいの記録がない、状況不明の一時期を言う。具体的には3世紀の「魏志倭人伝」から、8世紀になって「古事記」、「日本書紀」が現れるまでの500年間を指す。温羅はまさにこの「空白の五世紀」に、忽然と西日本に現れている。
古事記の「武烈記」に現れる武烈天皇は、臨月の女の腹を裂いたり、囚人を樹上に追いあげ、下から矢を射かけさせて処刑したり、囚人の両手の生爪を剥いで、血まみれの手で芋を掘らせる刑罰を楽しんだ、というような記載があって、これは戦乱期を体験した軍事統率者にしばしば見られる加虐傾向だから、彼に先行した「空白五世紀」が、強烈な流血と殺戮の乱世であったことを物語る証と考えられる。すなわち、戦乱の狂気の内で記録を遺している余裕がなかったか、それとも記録が次々に戦火に焼かれて消失した時期であったと考えられる。
そしてこの争いをついに決着させたものは、「鉄」であったと考えられる。そもそもこの戦乱自体が、鉄を巡る攻防であった。進んだ軍事テクノロジーであるところの、「製鉄」を制した者が覇者となる、当時の戦乱はこうした構造を持っていて、ゆえに大陸から伝来した「たたら製鉄」の技法を持つ者は、発展の前にその芽を摘むべき、危険で重大な軍事要因だった。今日でいえば、中東の石油にも匹敵する。
謎の五世紀、この重大技術が入り、定着発展して勢力を拡大していた古代軍事勢力のひとつが、この岡山北方に興った吉備王国であったと考えられる。

この史実は、勝者、敗者の二方向から語られて、各々民話となって遺っている。吉備地方に遺る伝承は、この歴史を以下のように伝える。
吉備の中山は、南の山裾まで吉備穴海が入り込み、瀬戸内航路の中継地点にあたって、都に上がる船などが常時往来していた。吉備に来航した温羅は、製鉄、農耕のみでなく、製塩の技法も土地に伝授したから、これら特産物を用いて吉備人は交易を発展させ、国は徐々に繁栄を極めるようになっていく。
吉備高原や中国山地では砂鉄がふんだんに採れたので、これはウルの城の真下(千引かなくろ谷遺跡)まで運ばれ、精錬炉4基、炭釜3基を使って、さかんに製鉄作業が行われた。これによって造られた鉄製農耕具は、頑丈であったから吉備の沖積平野をまたたく間に農地に変え、鉄製武具は以前の銅製に較べて遥かに強靭で、吉備王国を一大軍事大国に変貌させた。
こうしてウルの城下に広がる阿曽郷(あぞのごう)は、鋳物師の里として一帯に知られるようになり、政治勢力も増した。温羅は吉備王国の首領となり、阿曽郷の神職の娘、阿曽媛(あぞひめ)を妻に娶った。そして吉備の民衆からは「吉備の冠者」と呼ばれ、親しまれるようになった。
しかし吉備独立国の誕生とその勢力、何より製鉄の自給生産能力は、全国統一を至上命題とした大和朝廷には危険なものであった。さらに勢いを拡大する前に、危険因子は摘み取る必要がある。大和朝廷は、その勢力拡大のため、北陸、東海、丹波、西道(山陽)の主要4地域に、それぞれ征伐将軍を派遣し、西道の担当将軍が、吉備津彦命(きぴつひこのみこと)であった。
全国平定のための吉備津彦命の征伐軍は、大群を率いて進軍してきて、片岡山(倉敷市矢部)に前線基地を築く。そして闘いは始まり、兵員の数と経験に勝る侵攻軍は、かさにかかって吉備攻撃を開始するが、王国の首領温羅は、山城ウルに立て篭もり、民を指揮して果敢に防戦する。兵員の数では劣っても、吉備軍の鉄製武具には圧倒的強度があり、大和軍の銅製武器を次々に破壊して撃退する。闘いは長引き、戦闘は互角であったが、ついに大将温羅が左目に矢を受け、重傷を負って山中に逃亡する。しかし吉備津彦命の追討軍に捕らえられ、処刑される。
大衆への見せしめのため、刎ねた温羅の首は長く晒される。かくして吉備王国は、大和朝廷軍に侵略、平定され、温羅が伝えた製鉄の技術も、砂鉄の産地も、数々の最新技術とともに没収される。しかし温羅の生首は、その後も長く唸り声を立て続け、征服者吉備津彦命を悩ませる。これは平定された吉備王国庶民の、怨嗟の声であった。

一方大和朝廷側からの視線は、次のようである。
西方吉備の国に、温羅という鬼がいて、身の丈4・2メートル、髪や髯はぼうぼうで、目はらんらんと輝き、性格は凶暴を極めた。備中国新山(総社市奥山)に「鬼ノ城(きのじょう)」を築き、通りかかる婦女子をさらい、都への貢物も略奪、逆らう者は捕らえて釜で煮て食べてしまうというまでの悪辣ぶり。たまりかねた吉備の人々は、温羅退治を大和朝廷に願い出る。
朝廷は武将を送り込むが、温羅は手強く、しかも地の利を読んでの神出鬼没で、東の武将たちはことごとく敗れ去る。そこで朝廷は、討伐の切り札として、武勇に優れた五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を吉備征伐に送り込む。命は大軍を率いて吉備王国に進軍すると、片岡山(倉敷市矢部)に石楯を築いて前進基地とした。
始まった闘いは互角だったが、ついに命の放った矢が温羅の左目を貫き、あふれ出た血が血吸川(ちすいがわ)に流れて、下流には赤浜を造った。
命は手負いの温羅を捕らえて首を刎ね、その首を首村(こうべむら、岡山市首部)に晒したが、生首はそれから何年もの間、大声で唸り続ける。そこで命はこの首を犬に食わせたが、どくろとなっても首は唸ることをやめない。つづいて命は吉備津神社の御釜殿の土中深くに首を埋めたが、それでもなお13年もの間、唸り声はやまない。
ある夜、命の夢枕に温羅が立ち、「わが妻、阿曽媛(あぞひめ)に神(み)けを炊かしめよ、そうすればこれまでの悪行の償いとして、釜を唸らせて吉凶を告げよう」と言う。その通りにしたら、ようやく唸り声はおさまった。これが今に伝えられている吉備津神社の鳴釜神事となった。
五十狭芹彦命は名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)と改め、吉備の地に住み着いて、281歳で没した。

いわゆる「桃太郎鬼退治」の民話は、この後者がもとになっている。民衆を苦しめる凶暴な鬼のアジトに、勇者桃太郎が手下をしたがえて攻め込み、ついに一網打尽にする、といった勧善懲悪の話に姿を変えている。温羅の伝承と桃太郎伝説とは、多くの共通項があるが、さらに言えばこれらは、この地に現存する古代遺跡の多くとも呼応する。まずは鬼のアジトである山城「鬼ノ城」、これは吉備の里の北方、血吸川の上に現在もある。長く荒れていたが、最近復元、再興が進んでいると聞く。
鳴釜の神事が行われる吉備津神社も、これは里の東方に実際にある。これとは別の地に、温羅が人を捕らえて煮たという「鬼の釜」なるものも遺っている。もっともこれは賢僧が、地元の民に入浴させたものともいう。
さらには、桃太郎伝説にも、土地に伝わるものには、もっとリアルなヴァージョンがあるらしい。リアルとは、大和朝廷の政治的な思惑をも控え目に語り込み、土地の恩人温羅に対し、吉備人たちが、より感傷的に思い入れた物語である。今日よく世に流布した素朴な桃太郎民話と、温羅伝承との中間的なもので、以下のようである。
温羅は吉備の国にまだなかった製鉄技術を伝え、土地を繁栄に導いた。しかし吉備国の繁栄を脅威と見た大和朝廷は、「吉備の国には鬼がいる、魔力を使い、人々を獣に変え、大和に攻め入るために、鉄製の武具を造って準備している」、とみなして、桃太郎に鬼退治を命じた。
家来を引き連れ、吉備の中山に桃太郎が陣を張ると、その噂を聞きつけた吉備人たちがいくさに備えて鬼ノ城に集結しする。不安と緊張の中、鬼ノ城の櫓に立った温羅は、民に語りはじめる。
「父母を殺され、この地に流れきた。そうしていつしか長い歳月がすぎ、私はこの吉備の地に、今はふるさとと同じ匂いを感じている。吉備こそはわが故郷だ。いつかは亡き父母の恨みを晴らさんものと考え、私はひそかに武器を造り、山奥に隠し持っている」
聞いて吉備人は、それさえあれば、大和の桃太郎軍も恐るるに足りないと考える。しかし温羅は続ける。
「だが、私はもう闘う気はない。いくさは新たな恨みを生むばかりだ。彼らが求めるものは、鉄製の武器と、私の首だ。これらを大和の王に捧げ、代わりに吉備の人々の知恵と勇気と、優しい心を守ってもらう」
温羅の温情に心を打たれた桃太郎は、いったん闘いの中止を決断するが、血気にはやった若者の放った矢に、温羅は倒れる。
すると温羅は雉に姿を変え、吉備の国を戦場にしないため、できるだけ遠くにと飛び去る。桃太郎も鷹に姿を変えてこれを追い、力尽きた温羅は川に落ちて鯉に変身する。
それを見た桃太郎は、「温羅は滅びた」と大和に使いを出し、温羅の亡骸を吉備の中山に葬り、吉備の国を大切にして、温羅の思いを守った。
のちに吉備津彦命と呼ばれる者が、この桃太郎である。

幻の吉備王国、そのかつての中心地が、今はひっそりと佇むような風情の総社市である。そして吉備王国のまほろばは、総社駅の東に広がる、青々とした田園地帯だ。
ゆえにぼくは、今度の連載小説「犬坊里美の冒険」で、中心を成す奇怪な事件発生の舞台に、この伝説の都を選んだ。しかし吉備の国のまほろばは、ぼくの脳裏に空想の翼を広げ、さまざまな光景を運んできてはくれても、未だ1度も足を踏み入れていないから、現実の描写がむずかしい。だからこうして、ぼくは実際に足を運んできた。
8月9日、よく晴れて、夏の陽射しがまばゆい真昼、われわれ一行4人は、JR伯備線、総社駅に降り立った。階段を降りると、駅前はひっそりとして、人の姿も、車の姿もない。なによりタクシーの姿がない。駅前の道やロータリーのコンクリートが、夏の陽を白々と照り返すばかりで、伝説の吉備王国の首府も、今はただの田舎町で、訪れる人もまれらしい。
いったいどのような駅前風景なのか、描写の要があるのでずっと気になっていたが、こうして実際に眼前にすると、ひどく田舎というふうではなく、4、5階建てのマンションとか、雑居ビルらしいものもちらほらとある。しかしこうした高い建物は、みな新しい。駅舎の横には、「雪舟さんは、総社市の赤浜で生まれました」と書かれた石碑と、雪舟さんの子供時代らしい石像がある。総社市は、画聖雪舟の故郷でもある。
さてどうしようか、足がなければ旧跡を巡ることもできない。レンタカーを借りるかとも考えたが、そのレンタカー屋が見当たらない。
ともかく、駅前に見えたお食事処「金枠」で、昼食をとりながら考えることにした。
つづく
 
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