島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第238回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
8−8(月)、倉敷散策
翌朝、ホテル・グランヴィアのロビーで、覚醒してきたA井さんに再会、「いやあ、夕べのカラオケ合衆国はあわただしかったですね」、と言うと、「カラオケ合衆国って何です?」と言う。「え? いや、閉店間際に、店員の制止を振り切って無理に押し入って、タコヤキ、焼きソバ、生ビールって頼んでおいて、あわただく歌ってたじゃないですか」とぼくが言うと、「え、そうですか?」とA井氏、やっぱり憶えていない。のみならず、自分に記憶がないと思って、ぼくが話を作っていると疑う目でこちらを見るのである。
岡山は美しい街だ。市の中央、駅に近いあたりに、西川という疎水が流れている。そしてこの沿岸は西川緑道公園というものになっている。この疎水沿いの公園は、日暮れ時が特によい。が、午前中もまたよい。京都の高瀬川をちょっと思い出す。
岡山とは、こんなに綺麗な街であったかと認識をあらためた。タクシーで街中を走ると、東により大きな旭川というものがあって、これを新京橋で渡る。すると川向こう、東側には綺麗な並木道が続く。
川の中央には、こんもりとした緑を載せた大きな中州があり、この緑の中に、県立博物園や、後楽園などがある。昨夕観た岡山城も、この川沿いに建つ。水は非常に綺麗で、風に立つさざなみも清潔そうだ。駅前の中心街に川があれば、発展にはたぶん阻害要因なのであろうが、外から訪れる者には風情がある。岡山はいい街だ。
やってきた小川さんと合流し、岡山駅から電車で倉敷に向かう。「A井さんは疑っているんだけど、夕べはカラオケ合衆国に行きましたよね?」と彼女に同意を求めると、A井さんをちらと見た小川さんは、素早く事態を察し、「あ、はい……」と申し訳なさそうに小声で言う。A井氏、「あ、そうですか」とだけ言って、それ以上はもう何も言わない。無駄な抵抗はあきらめたふうである。
しかしA井さんのアルコール性の健忘症は、最近とみに進んでいる。やがてとある取材旅行の朝、起きだしてきてぼくの顔を見て、「あの、どちら様で……」などと言いだすのであろうか。そうなると、もはや岩波先生に任せるほかはない。

倉敷駅構内で、福山からやってきた二井岡さんと合流、4人で倉敷散策に出る。
二井岡さんとは久しぶりなので、なかなか話がはずむ。彼女は毎朝、お子さんを自転車で学校に送って行く際、義弟がやっている福山電業というぼくの実家の電気会社の横を通るのだそうが、するとたいていビル横の掃き掃除をしている会長、つまりぼくの父親に出遭うのだそうである。時間がないから立ち話などはしないが、手を上げてくれ、「気をつけてね」と言ってくれるのだそうだ。父親も元気でやっているらしくて安心する。
久し振りに訪れる倉敷も、ずいぶんと変わっている。駅前は、衝立のように背の高いビルに囲まれた。駅ビルに、三越ビル、倉敷ターミナルホテルなどだ。しかし、倉敷に来たらアイヴィ・スクエアに泊まりたいと以前から考えており、A井さんにはそう頼んでいたから、まずは荷物を置きに、アイヴィ・スクエア・ホテルに向かう。
アイヴィ・スクエアは、いわゆる「倉敷美観地区」に隣接してある。倉敷川という掘割、これに沿って建つ古い建物群の背中あたりでタクシーを降り、強い夏の陽射しのもと、荷物を引きずって路地を行く。美観地区の裏町を観たかったのだ。そんなふうにして、アイヴィ・スクエアに向かった。
アイヴィ・スクエアとは、その名が示す通り、広大な敷地に、つたが壁面に絡む建物が点在するモールの総称で、ホテルはその建物の中のメインの一館なのだが、そのほかにもオルゴール館、美術館、土産物を売る店々、レストランなどがある。歴史背景を少し述べると、もともとこの敷地は、倉敷の代官屋敷であった。それが明治維新後の明治21年、倉敷紡績という紡績工場になる。土地の先覚者たちによる発案で、これは大いに成功する。そしてクラボウは、日本有数の紡績会社に成長した。
倉敷という土地は、昨日の津山と同様に、徳川幕府の直領であったが、そういうことも、この大転換には関係している。慶応2(1866)年、長州の奇兵隊を脱走した長州藩士約百名が、この代官屋敷と、浅尾藩邸を焼き討ちにした。ここが徳川直系であったからである。これが世に言う「倉敷浅尾騒動」というもので、更地と化した代官所跡に、維新政府は倉敷県庁を設置いたが、倉敷県が廃止されてからは放置された。ために、クラボウが興し得た。
アイヴィ・スクエアには、代官屋敷時代の井戸も残っている。しかしこの紡績工場も、太平洋戦争の終結とともに機能を停止し、昭和49年に倉敷アイヴィ・スクエアとして再生した。
あれは1971年か72年頃になるか、昭和で言うと46〜7年頃、ここに来た記憶がある。記憶がもうはっきりしないが、大阪の万博が閉会してすぐの頃だった。当時のここは、クラボウ跡地の広大な空き地で、イヴェント・スペースになっていて、万博に出品されていた横尾忠則さんの作品群が展示されていた。作品は山高帽をかぶった恰幅の良い中年紳士たちの人形群で、ルネ・マグリットふうのシュールリアリズムを志向した作品だった。当時のぼくは美大を出たばかりで、横尾さんの仕事に注目していたから、万博の会場でもこれを観ている。別に何の期待もなくここに来たら、作品群がここに移動していたから、なんだか嬉しかった。
そう、それでまた思い出すが、当時は「2001年宇宙の旅」というやや難解なアメリカ映画も話題になっていて、映画のクライマックスの、白一色の大空間が印象的だった。クラボウ跡地に置かれた横尾作品は、まったくあのような、広大な白一色の巨大空間の、白い床に人形が点在していた。北極の大洞窟でフリーズした人物の群れのようで、とてもよかった。たぶんクラボウが関係した展示だったのであろう。横尾作品の、万博展示の際の演出は忘れてしまったが、ここクラボウ跡地で観た光景は、今もよく憶えている。
ホテル・アイヴィ・スクエアには、中庭広場があって、ここの隅の池に亀がたくさんいた。その数は異様なほどで、中央に露出した岩には、岩の肌が見えないほどにぎっしり、亀が取りついている。二井岡さんは大の亀好きで、小川さんは死ぬほど嫌い。二井岡さんはしゃがみ込んで亀たちに見入り、小川さんははるか彼方に待避していた。
ホテルはもうかなり古くなっている。アイヴィ・スクエアが話題になり、吉敷竹史の旅先にちょうどよいと思って、以前から来たいと思っていたのだが、念願かなって来てみたら、もうクラシカルなホテルになっていた。チェックイン、部屋に入ってみるといささか狭いし、内壁の様子も蒼然としている。しかし窓からはさっきの中庭や、その向こうの、つたに覆われた煉瓦の壁が見えた。

身軽になって倉敷の街に出る。まずは定番であるが、ホテルからほど近い美観地区に出る。ここは子供の頃から変わらない。石垣、その上に枝を垂れる柳、沿道に並ぶ江戸ふうの家々、そして喫茶エメ・グレコに、大原美術館。水にかかる石のアーチ橋。しかし、水が綺麗になった。
この倉敷川は、江戸から明治にかけての頃は、実際に荷物の積み出しに使われる水路だった。その頃は、前神川とか汐入川と言ったが、荷の積み出しは満潮の時に限られていて、倉敷の海は干満の差が三メートル、倉敷川の水位も干満で大きく差があったから、干潮時は積み出しには具合が悪かった。
この川は、もともとは川ではなく、この一帯を埋め立てた際、舟便の水路として埋めずに残した人工の堀である。したがって川上はどこともつながっていず、エル・グレコの前でぷつんと途切れている。突き当たりは亀遊亭という料亭だ。だから原則として流れはなく、瀬戸内海の干満時に、ここにも入水、排水の動きが起こるのみである。だから汐入川だった。
しかし今はもう海と遮断されたから、干満による水位の変化はない。そのため、昔は生活排水で大いに汚れ、流れがないのでごみが淀み、臭気も出たという。今は倉敷用水から水を分けてもらい、ヒューム管で導いているから水はきれいだ。いわゆる観せる川、観光川である。
このあたり一帯は埋め立て地だから、土地には大いに塩水が含まれ、作物が育たない。そこで倉敷の人々は塩に強い綿花を植えることにして、この政策が功を奏して、以降この地は綿花や綿製品の取引で大いに栄えることになる。これが明治21年の、倉敷紡績設立発想にもつながっていく。
綿製品の取引は、次第に商取引一般にまで拡大していき、汐入川流域は一大商業地域、物品集積地に成長して、年貢米も集まってきたから、これを収納する蔵もたくさん建って、それが現在の地名、「倉敷」の名の興りである。
炎天下のもと、倉敷川の岸辺をあちこちと歩き、「備中そば、やぶ」という蕎麦屋に入って昼食をとる。それから、若い女性たちに人気の喫茶店を知りたいと、現役の2人組にその種の店を紹介してもらう。まずは街はずれにある「小田珈琲店」という珈琲屋。広めの店内に人形やドライフラワーが置かれており、非常に瀟洒、ハイセンスな印象であった。
次にケーキのおいしい「T’S ALLEY」というお店、しかしこちらはお休みであった。
この「T’S ALLEY」の隣に、不思議な雑貨屋を見つけた。中には入らなかったのだが、屋根の上にびっしりと、ヴィクターの白い犬の置物が載っている。何十匹もいそうだ。1階アンティーク・モール、2階は貯金箱博物館、などと書かれている。ちょっと入ってみようかと声をかけようとしたら、小綺麗なものにしか興味がないA井さんたち御一行は、もう遥かな彼方になってしまっている。結局入りそこねた。

それから、これもお定まりだが、大原美術館に入った。喫茶店エル・グレコにも入りたかったのだが、本日はお休みであった。
大原美術館というものは、この地で財を成した実業家、大原孫三郎の美術収集品をもとにしている。しかし彼のこのコレクションは、大原の友人であった画家、児島虎次郎に負うところが大きい。大原は芸術が解る男であったから、画家児島の欧州留学を援助し、同時にかの地から名作絵画を買い集めて、倉敷に持ち帰るよう要請した。こうして児島が持ち帰った名画群をもとにして、大原は昭和5年、1930年に大原美術館を私設開館した。これは西洋近代美術館の、日本における嚆矢となる。
児島は画家としての力量もあったが、明治人らしい気骨もあり、日本人の伝統的な感性をもって西洋文明と対峙し、信念をもって逸品を選出した。時が経つにつれて彼の先見の明は評価されていき、地方に建った大原美術館は、こうして次第に立場を獲得した。成功した大原美術館は、その後本館のほかに分館、東洋館、工芸館、児島虎次郎館も次々に増設、展示を充実して今日にいたっている。
本館は、1930年建設の姿のままであるらしい。ここに展示されている代表的な名品、エル・グレコの「受胎告知」、モディリアーニ、ゴーギャン、モネ、ロートレック、これらは相変わらず美しくて、子供の頃観た印象がそのままである。しかしピカソの鳥駕籠の前に立った時に、おやと思った。
もうずいぶん昔だが、このピカソのある部屋に入った際、駕籠の背後のブルーが鮮烈で、一挙にピカソに惹きつけられたことを憶えている。ところが今回、同じピカソの部屋に入った時、そうしたことが起こらなかった。そのすぐ脇にはキリコがあるのだが、これもそうだ。
しばらく考えていて、だんだんにこう思った。色がくすんできているのではないか。これらの名画の表面に、骨董品にあるような古色が浮きはじめている。特にキリコなどそうだ。表現主義的な木製骨格に解体されたふうの人物たちが、夜の暗がりに佇むようになった。キリコはそれでよいが、またグレコもゴーギャンも何も思わなかったが、ピカソにはちょっとした抵抗感、というより一種の危機感が来た。
以前、中野にある絵画修復所の仕事風景をヴィデオで見たことがあるが、大原美術館の名画群も、1部はもうこういうリフレッシュ作業の必要域に入りつつあるのかもしれないと、個人的にではあるが、感想を持った。しかし例外もあって、同じく当美術館の代表作のひとつ、セガンティーニの「アルプスの真昼」は、実に鮮やかな色彩のままである。この違いはどこから来るものであろう。
A井さんが、大原美術館、全館閲覧可のティケットを奮発してくれたので、われわれ4人は、続いて立体も含めた最近の名作を展示する別館、もっともここには、有名な岸田劉生の古典、「童女舞姿」などもあるのだが、さらには東洋館の棟方志功、さらには少し位置が離れた児島虎次郎館まで、くまなく見学をした。
虎次郎館には、今話題のイラク周辺の美術工芸、古代オリエントや、エジプト工芸の数々も展示されてあって、感慨深かった。中国地方にやってきて、中東の砂漠の美術を鑑賞するというのも、一種の違和感、意外感があって楽しい。
この館で児島虎次郎の作品群を、これはほとんどはじめてという感覚で鑑賞でき、実に楽しかった。以前に観たとは思うのだが、もうすっかり忘れている。学生時代のデッサンから順次観ていったが、その腕の確かさに感心もしたし、別の意味でも面白かった。というのは、裸婦のデッサンなどがあるのだが、なにしろ明治期のことだから、画家の前で裸になれる女性たちというと、たぶんか限られていたのであろう。モデルという職業もなかったのではないか。体つきがまったく今ふうでなく、ごくごく普通で、なんとなくビゴーのスケッチに現れる幕末庶民の女性たちのようで、風俗史的に楽しめた。
彼の油彩は、画学生らしい努力型の、生真面目な印象のもので、好感が持てる。児島は47歳で夭折したそうだから、中央の画壇に華々しく記憶されることはなかった。現在は、なかば忘れられかけているが、倉敷のこの地で、彼の名前は永遠に遺っている。よいことだと思う。
それから、アイヴィ・スクエア内にあるオルゴール館を見学、ここではオルゴールのショウがあった。小劇場の異様なまでの静寂の中、古今の貴重なオルゴールのたてるささやかな調べの内で、女性がテレビカメラなど駆使しながら真剣に解説してくれているのに、A井さんが豪快にいびきをたて始めるのではらはらした。しかも観客はわれわれのほか、あとはアヴックが1組、計たったの6名である。しかもA井さん、眠っているのならそのまま熟睡してくれていればよいのに、生真面目にも時おり、「え?」とか「あ?」と声をあげて目を覚ますから肝を冷やす。解説の女性が、いつ腹を立てて退場しないかと、気が気ではなかった。わずかに30分程度のショウが、3時間にも感じた。

続いて、倉敷にできたデンマーク、チボリ公園も散策した。ここは雄大なテーマパークで、池のほとりには、有名なコペンハーゲンの人魚姫像のコピーもある。ちょうど「名車交遊録」に収録する短編、「人魚兵器」というものを書いてきていたので、なんだか嬉しかった。これにもこの人魚姫像が登場する。
さらにはパーク内の劇場で、子供向けの人形劇、「マッチ売りの少女」、「人魚姫」、「裸の王様」などを上演しており、子供たちに混じって並び、これも観劇した。子供の頃からなじんだおとぎ話群だが、自分も作家になってみて、これらの話をアンデルセンが1人ですべて書いたのかと思うと驚く。3大バレエ音楽を1人で書いてしまったチャイコフスキーもそうだが、これは脅威的だ。最近になって、こういうことが解った。
チボリ公園は、夜が美しい。陽が落ちると、園内の池に各パヴィリオンのイルミネーションが映る。園内に再現されたコペンハーゲンの街角も美しい。
これらを眺めてのち、ホテルに戻るタクシーの中で、和食のおいしい店はどこか、お勧めはないかとA井さんが運転手氏に尋ねると、「東千」という店を教えられた。ではと行ってもらうと、美観地区にもほど近い和風のしもた屋で、いかにも倉敷という風情がある。
東千の座敷にあがり、今宵は倉敷の魚と、生ビールに舌づつみを打った。確かにおいしかった。ここではA井さん、二井岡さんのご主人の話を熱心にインタヴューしていた。そんなふうにしながら、その夜は暮れた。
明日は取材旅行最終日で、総社市に向かう。A井さんはしきりに岡山だ、倉敷だと騒いでいたが、ぼくとしては、実はここがもっとも観たかった土地である。ぼく自身、一度も訪れていないからだ。この地のとある神社の境内で、奇怪な事件は起こる。総社が観たくて旅に出たのだから、明日はいよいよクライマックスである。
付言すると、この夜はA井さんは、正気を失うことはなかった。まあ毎晩失われてはこちらもかなわない。
 
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved