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島田荘司のデジカメ日記
第237回
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8−7(日)、津山散策から岡山へ
津山国際ホテルをチェックアウト、まずはタクシーに乗り、午前中は「衆楽園」を見学する。ここは昔、津山の殿様、二代目藩主の森長継(ながつぐ)公が、来賓をもてなすために造った。名人の庭師を京都から招き、仙洞御所というものを模して造らせたいわゆる大名庭園で、池泉回遊式の庭園というものだそうだ。後楽園もこれと同じ形式なのだが、それよりも古く、国の名勝にも指定されている。なるほどこういうところにも、「津山には何でもある」と言わせるゆえんがある。池があり、橋があり、小舟が浮かび、灰色の体をした鶴が遊ぶ、なかなか見事な風情である。
津山藩では、国防の見地から来賓は城の内に入れず、代々外でもてなすことを慣習とした。ゆえにここは、長く「御対面所」とも呼ばれた。開園当時は現在の三倍もの敷地面積があり、森家が絶えた後は、替わってこの地に入った松平氏に引き継がれて、饗応施設として使われ続けた。「衆楽園」の名称は、廃藩置県ののちの明治三年になり、ここが一般に開放される際に名付けられたものだそうだ。
衆楽園の見物を終え、津山城に向かう。津山のこの城に入ってきた森家は、ちょっと意味深に見える家系なので、あまり詳しく語ると具合が悪いかもしれないが、少しだけ述べると、もともと津山の城は、1441年、美作の守護山名一族が、平野の中央、鶴山と呼ばれる丘の上に山城を築いていたのが起源となる。その後はしばらく廃城となっていたが、慶長9(1604)年、家康江戸幕府開府の翌年に、初代藩主として森忠政がこの地に入り、12年の歳月をかけて城を整備再建し、数々の櫓に天守閣も築いた。元和2(1616)年にそれらすべてが完成し、入封してくる。
完成の当時、津山城は五層の天守閣を持ち、この天守閣は弓狭間、鉄砲狭間、また石落としの装備などを持つ、当時としては非常に近代的、実戦的な城で、戦国乱世を経た当時、戦闘と築城の技術がピークを迎えた時代だったから、津山の城は、それらすべてのノウハウを採り入れた実戦性と巧妙な縄張りで、近隣に恐れられ、近世平山城の名作といわれた。
ところで初代藩主、森忠政は、織田信長とともに本能寺で壮絶な討ち死にを遂げる、かの有名な森蘭丸の末弟にあたる。蘭丸は槍の名手で鳴らし、信長の側近中の側近だったが、絶世の美形で、信長の性のお相手だったといわれる。いわばニューハーフのはしりのような人物で、寵愛のあまり信長は、死の直前まで彼を傍に置いて離さなかった。森家の津山支配は4代で終わるが、これは四代藩主長成(ながなり)に世継ぎができなかったためで、そのため徳川直系の松平宣富(のぶとみ)が、替わって美作十万石のこの地に入ることになる。蘭丸のことを思えば、子種が絶えたことも、なんとはなく、それらしく見えてしまう。
津山の城は、見た目にも美しいもので、石垣に夏の陽が照り映える様は、水彩画の写生対象に感じられて、絵筆を執りたい誘惑にかられる。特に正面玄関、石垣の間を抜けて城址公園に登る石段のあたりの風情が見事で、頭上の木々の葉が石畳に落とす、くっきりとした夏の影とあいまって、作州というこの土地の魅力を訴える。
城山に登れば、別名鶴山公園という名の由来を示すものか、檻の中に鶴が飼われている。石垣の縁付近に散在する木々は、これは多く桜らしい。この城址には、桜の木が一説には5千本もあるといい、夏もよいが、春も見事であろう。
城のふもとには、津山観光センターという大型の建物があった。ここではみやげ物を売り、蕎麦を食べさせるレストランもある。観光センターの向かいには、津山歴史民俗館というものがあって、もしもここに「津山三十人殺し」の資料が展示されてあるなら見学したいと思って受付で尋ねてみたら、そんなものはないと言う。やはりあの事件は土地の恥なのであろうか。もっともあれは、正確には津山市で起こった事件ではないから、こことは無関係ということか。そうなら「津山三十人殺し」という名称は、津山人にとっては迷惑なものであろう。千葉市にあるが、「東京ディズニーランド」と言うようなもので──、もっともあれは逆に、千葉市にとって嬉しくない名称かもしれないが。
観光センターには、レンタサイクルが用意されていた。これはよいと、さっそく借りて、A井氏と2人、津山の街にらふらと走りだした。非常な好天で、風を切って走れば夏でも涼しい。日射しも苦にならず、快適である。しかもごった返していた昨夕の人出はどこに去ったものか、夏の陽を白く照り返す舗装路に人の姿はなく、車の姿もごく少ない。人口の少ない山間の小京都、これが津山市本来の姿なのであろう。
東に向かえば、すぐに宮川にぶつかる。これは南で、昨夜祭をやっていた吉井川に合流する。観光センターでくれたイラスト・マップによれば、大橋という橋で宮川を渡り、東に向かって出雲街道を行くのが、津山サイクリング散策の定石らしい。大橋は、えぼしを持った欄干が京都ふうの、なかなか小綺麗な橋である。この橋を境に、いわゆる町並み保存地区というものが東側に始まる。自転車で乗り入れれば、作洲の典型的な商家が、道の左右に軒を連ねて続く。
出雲街道の沿道に、「香葉」という、なかなか瀟洒な喫茶店を見つけたので、自転車を停めて入った。これがまた、大き目の民家を訪ねるように玄関で靴を脱ぎ、あがってスリッパを履き、縁側を行く。すると突き当たりのガラス戸脇の廊下にテーブルと椅子が置かれて、席は室内にもあるのだが、ガラス越しに庭が望めるここが気に入って、A井氏と2人、廊下のテーブルに席を占めた。
白い小砂利を敷いた庭に、岩が置かれ、石灯篭が立ち、竹を並べて造った蓋が塞ぐ井戸が見え、潅木や松の木が一面に植わっている。夏の陽のもとでも、どこか湿った気配を感じさせるこうした庭の風情は、カリフォルニアなどにはない、日本に独特のものだ。それがすぐ鼻先に望める。
メニューにはミルクセーキがあり、フルーツサンドがある。懐かしくてこれらをオーダーした。中国地方のミルクセーキは、氷をミキサーにかけてみぞれ状にする。これが好物だった子供の頃、東京に出てきてミルクセーキを頼んだら、ただ氷が浮かんでいるだけだったから、ひどくがっかりしたものだった。
これを昼食にし、食べ終えて出ようとしたら、2階に津山の風景写真の展示があると書いた貼り紙が目に入ったので、見物させてもらう。非常に人柄のよいご主人が一緒にきて、あれこれと解説してくれた。明治期の津山城の写真がある。天守閣は現在失われているが、これは廃藩置県後、津山は松平が殿様だったから、天守閣が残っていては薩長系の新政府の反感を買うと考え、津山の住人たちが自主的に、石垣上のすべての建物を破壊したのだそうだ。ずいぶんともったいないことをした。のちに一部再建したのだが、今度は太平洋戦争となり、城があれば空襲の目標になるからということで、また壊した。山間の平地に屹立する城ということで、そのような苦労があったものらしい。ここには、周囲に高い建物がない。これは今でもさしてない。現在の大阪城などはビルの谷間で、時代劇に用いる時など、周囲の高層ビルを消すのに苦労している。
この家は昔、先祖が土地の分限者であったため、街道筋ではひときわ目立つ、石の柱の上にはテラスを持つ、洋風の構えであったらしい。2階展示室はその時代の名残で、土地では他に先駆けた洋間造りであった。以前にはテラスであった部分を、現在は室内側に取り込み、板間にしている。そして引き戸の家々ばかりであった時代、隣室との境には洋風のドアを付けた。
しかし面白いことに、このドアの鴨居は、ぼくの額のあたりまでしかない。頭をかがめないと隣室に行けない。アメリカから戻ってきた自分などには、むしろ子供の国に来たような、楽しい趣向に感じる。津山にはハイカラな人が住んでいたもので、先取の気質に富んだ、なかなか面白い空気の街だったのであろう。
香葉を出て、出雲街道をさらに東に向かうと、寅さん映画、「男はつらいよ」の48作目、「紅の花」のロケ地になったという作州城東屋敷というものがある。この作の中では、寅さんは津山市にやってきて、津山祭に露店を出すらしい。寅さん映画は割と観ているが、この作は知らない。通り沿いには火の見櫓がそびえていて、町屋の集落にあってここは、消防署のような存在だったのであろうか。建物脇、路地の奥にはだんじり館というものがあり、祭の山車が何台も収められていた。そしてこれらは、常時無料で公開されている。
この付近には、さらにNHKの朝ドラ、「あぐり」のロケ地もある。津山の保存地区、意外に中央の文化とよくつながっていた。
幕末の洋学者で、医師でもあった箕作玩甫氏の旧宅も、出雲街道沿いにあった。この箕作さんは、駅前に銅像も立っていた。どうやら、津山市の名誉市民といった立場の人らしい。これらの建物、いずれも入り口にヴォランティアらしい女性や老人がすわっているのだが、みな人柄がよくて気持ちがよい。
走っていて、面白いことに気づいた。保存地区、時計が多い。時計台のある家というものは、かつて世間に割合あったが、みな金持ちの家であった。ここにもその感覚なのか、ごく普通ふうの家の軒下、あるいはプレハブ小屋の壁にも、時計が貼りついている。見栄とは無縁に、ただ街の仲間に時刻を知らせてやろうという公共心であろう。このような発想は、現在の日本人からはなかなか失われた。
だいたいこのようなことで津山散策は切りあげ、自転車は観光センターに戻して駅に出、15時52分発の急行「津山」に乗った。

岡山には16時52分に着いた。岡山もまた夏祭りの最中らしく、駅前では若い娘たちの群舞がにぎやかに行われていた。
駅に隣接したホテル・グランヴィア岡山にチェックイン、荷物を部屋に置き、少し休んでから岡山合同法律事務所を訪ねる。これは友人の山下弁護士が、岡山や倉敷が舞台の、女性司法修習生の小説を書くと聞いて、それなら岡山在住の女性弁護士に会ってみてはと、友人の女性弁護士を紹介してくれのだ。それでお言葉にあまえて訪ね、あれこれ話を聞かせてもらった。
会見は大変参考になったが、愕然とするような事実にもぶつかつた。岡山で仕事をしている弁護士は、刑事事件に遭遇しても、津山の拘置所など訪ねるこ機会はないのだという。だから彼女は、津山に拘置所が存在することさえ知らなかった。岡山の刑事被告は、刑の確定まで、警察署内の留置所か、刑務所内に特設された拘置施設に入れられているのだという。したがって弁護士も面会はそこに行く。そしてこの地の弁護士は、被告から特に異議の申し立てがない限り、現状に問題意識は感じていない。こうしたなかば慣例化した状況を容認しているのだという。
刑務所はともかく、留置所というのは問題ではないかと思った。被告にとって、入れられる場所が拘置所と、代用監獄たる警察署内の留置所とでは、居心地に天と地ほどの差が出る。社会にいるわれわれにはピンと来ない話だが、逮捕された刑事被告を最も恐れさせるものが再逮捕である。再逮捕とは、取調べを終えて拘置所に送られていた被告が、また警察署内の留置所に呼び戻され、再び峻烈な取調べに晒されることを意味する。自白強要を避けるため、逮捕した被告を、一定期間以上署内留置所に留め置くことは、法的に許されていない。
ところが岡山には拘置所がないため、刑務所や警察の留置所を、拘置所の代用として使用せざるを得ないという現実があるらしい。一般人にとっては、犯罪者の境遇など基本的に他人事だから、悪いことをした者は理不尽なくらいに厳しい環境に置かれて当然だ、それが嫌なら犯罪など為すべきではない、ですませてしまう。犯罪者への「怯え」が、そういう報応心性を産む。むろん被告が正しく犯人である場合ばそれでも問題は出ないが、もしも犯人でない者が、間違えられて拘束されていたなら、これは冤罪の引き金である。被疑者を同じ建物内に長く置いておけるなら、眠らせない方法などいくらでもある。弱らせたその上で、裁判で本当のことを言えばよいのだとだまし、自白をしたと見せる作文証書に署名をさせる方法など、いくらでも思いつく。

法律事務所を出て、岡山地方裁判所の建物を見た。これは里美ちゃんたち司法修習生の、研修開始式が行われるはずの場所だ。
それから旭川に沿って歩き、岡山城址公園までぶらぶら行った。岡山という地名は、この城が建っている場所の名に由来する。
次に、坂出小次郎の住まいを地図的に特定するため、おおよそ決めていたあたりに行ってみた。これは旭川のそば、岡山県庁の裏手付近と決めてある。2階の窓から旭川の水面がわずかに望め、そばには京橋という橋がある。もう地図でこのあたりと定め、里美と坂出老人が会う回の原稿も書いている。大きな矛盾が出ては困るので、今回は一応確認にきた。
現場は、おおよそ想定していた通りで、格別の問題はなかった。路地裏を縫ってあちこち歩き、それから旭川べりの、京橋が見えるあたりまで行ったら、面白いものを発見した。「表具師幸吉の碑」というものだ。碑文を読むと、天明5(1785)年、この地に住み暮らしていた幸吉という表具師が、大きな翼を自作して体にくくりつけ、京橋の欄干の上から旭川の水面に向けて飛び降りて、しばしの滑空に成功したと伝えるものだった。幸吉29歳時、ライト兄弟の飛行に先駆けること110年で、これは世界初の人類の飛行になると訴える。いくぶん信じがたいが、あるいはあり得ることかとも思う。ゼロ戦乗りの住まいの特定に来て、こんな碑文と出遭うのも何かの暗合だという気がした。

それからタクシーでホテル・グランヴィアにとって帰し、福山での勤めを終え、岡山に戻ってくるふくやま文学館の学芸員、小川由美さんをホテルのロビーで待つ。彼女と落ち合うと、彼女の案内で、岡山の疎水のほとり、彼女お勧めの「魚市」という魚料理の店に行く。
このたび彼女は、大学院の修士課程を無事終了、見事文学博士となっていたので、そのお祝いの乾杯をする。この日記を愛読してくださっている読者には、今更断るまでもないであろうが、久方ぶりの小川さんとの再会に、A井さんは見る見る気を失ない、文学館の定期的な企画展示の大工仕事が、常に小川さん1人の肩にかかって、頼りになる男手がないと聞くや、血相を変え、休暇を取って新幹線で文学館に駈けつけると言いはじめた。光文社への愛社精神では人後に落ちない男の言うこととも思われず、耳を疑った。その後もまるでふくやま文学館に再就職でもしかねない勢いの、さまざまな迷セリフがA井さんの口から飛び出した気がするのだが、旅の疲れでビールの酔いも進み、大半忘れてしまった。
A井氏、どんどん気持ちよく酩酊し、魚市を出ると、「カラオケに行きましょう、カラオケ!」、と例によって叫びはじめた。そうして深夜の岡山の街を、われわれをさんざん引っ張り廻した挙句、「カラオケ合衆国」なるボックスに連れ込むのであった。
店の人が、「お客さん、終業まであと20分なんですけど、いいですか?」と尋ねるのも耳に入らず、部屋に入り込むや、「たこ焼き、焼きソバ、生ビール!」と注文しておいて、プカプカやモーニング娘など、いつものレパートリーを気持ちよく歌いはじめるのであった。
こうして昨夜までのしっとりとした旅情はどこへやらで、岡山の夜は、新宿のように騒々しく更けていくのであった。
 
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