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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第230回
島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
2−15(火)、356でうみほたるを走る
「名車交遊録」を原書房で復刊するにあたって、立風書房の旧本の文章に、時間を見つけては朱を入れてきていただが、いざ商品化するとなれば、それだけでは充分ではない。やはり短編小説を冒頭に加えなくては、読者に新たに触手を延ばしてはもらえない。そして商品性ということなら、手硬いところは御手洗もの、どうしてもこのように出版社からは乞われる。
この発想には抵抗しがたいところで、以前から「島田のものは御手洗だけ読んでやってりゃいいんだろ」といった2ちゃんねる型言辞をたびたび耳にしている。もちろん作者の目からはこれは不当な評価で、吉敷のものに手が抜かれているということはまったくないし、ノンシリーズも同様である。そうかと思うと、文芸趣味の人からは、「島田の最高作は、『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』、『夏、19歳の肖像』、『都市のトパーズ』、『秋好英明事件』だと言いきる人もいる。シリーズのものは、ベストセラー目当ての量産品だから評価外、というこの考え方も、作者からすれば全然正しくないのだが、理解はできる。面白いと思うことは、高度に目利きの人が集まるほどに、玄人的言辞が象を触るようになっていくことだ。ここにある法則性は、どうやら否定をするために評価部分を探しているらしいこと、それが言いすぎなら、評価したもの以外は否定し去らなければならないとする、ある種民族的、封建+平等主義の習い性が存在するらしいことだ。
しかしさまざまな雑音は承知の上で、つまり、「島田は御手洗ものばかり書いて商売をしている」というストーリーが毎度現れることは百も承知の上で、この出版社の要求には抵抗しないことにしている。というのは、最近の御手洗の周辺には学者としての、あるいは外国が舞台としての、さまざまに特殊な条件が現れるようになっていて、むしろ百枚以内、時には50枚の原稿量に書きたいような情報が、溜まってきているからだ。彼の暮らすごく身の周りのことを書いても、日本列島に終始いる人からすれば、少々変わった情報である。
もちろん自分としては、こういうテーマを500枚にもしてみたいが、そうすれば殺人があって、犯人がいて、これの洞察推理が行われて、といった探偵小説のパターンから大きくはずれてしまい、読者が離れて出版社に迷惑をかけるという心配があるからだ。定型から離れるのは、短編くらいならば、なんとか許容されるであろうという判断をしている。
そこで、御手洗潔のスウェーデンの友人、ハインリッヒが、ポルシェの356を駆って、スウェーデンからオーレスンド大橋を渡ってデンマークに行く。そしてコペンハーゲンの有名な人魚像を観るのだが、その道行きで、御手洗から聞いた不思議な人魚の話を回想する、という短編を書いた。これは「人魚兵器」というタイトルで、かなり以前から頭にあったものである。しかしこの本は写真集なので、小説だけではまずく、356の写真も必要である。それで実際に356を借り、どこかの長い橋を渡りながら撮影をしよう、オーレスンドに見立てられるような海にかかる橋が東京の近くにないものだろうか。ただし40年前の車だから、瀬戸内海の大橋まで走るようなことはできない、そんな相談を旧友のカメラマン田中氏にもちかけたら、それならうみほたるだろうということになった。
で、これも旧友、カーアンドドライバーの松澤秀治編集長に頼んで、356を貸してくれる人を探してもらった。するとカードラ誌とおつき合いのあるJMM−CAR’Sの代表、宮下実さんという人を紹介してくださり、この日、市ヶ谷のカードラ編集部が入ったビルの地下で、田中氏、松澤氏、宮下氏、I毛氏の集合となった。宮下氏は、撮影用にベレー帽や革のジャンパーまで用意してくださっていて、これに身を包み、幌ははずしてスタートとなった。

駐車場のスロープをあがって市ヶ谷の街に走り出せば、晴天の非常に気持ちのよい日で、まずは宮下氏の運転で、風に吹かれながら迎賓館前まで行く。そしてここの金属細工の門扉の前に356を止め、撮影。北欧のどこかの土地に見立てたわけである。われわれが車から離れたら、カメラ片手の田中氏の大活躍が始まって、これが十数年前、ルボランでさんざんやっていた様子の再現なので、眺めていれば懐かしく、また楽しかった。
これがすんだら、ぼくが356のハンドルを握り、首都高速に乗るべく霞ヶ関の入路に向かう。356は62年型と聞いたが、非常に程度がよく、70年代後半の、ワーゲン・ビートルくらいの感じでは使える。実際背中で鳴る空冷の音も、各種の操作フィールも、おおよそそんな感じである。さすがにローは停まらないと入らないし、セカンドもギア鳴りなしで入れられる領域は狭い。そしてエンジンは古くてもろいから、終始止まりそうなプレッシャーとの闘いだが、62年型のしかもスポーツカーで、これほどに綺麗で安定した車はまずない。宮下さんは整備士経験者だそうだから、日夜の整備のたまものないのであろう。1〜2キロも走れば操作に馴れ、小ぶりなドイツ車、当時としては卓越したハンドリングを誇った車での、オープンエア走行を楽しめるようになった。
首都高速に乗り、風に吹かれながら横浜方面に向けて南下。比較的道がすいていたので、少しアクセルを踏んでみる。911のような、拳骨を振り出すような猛加速ではないが、右足の踏みしろとの反応はリニアな範疇で、静かに、しかも頭つき感を感じさせない、息の長い加速を見せてくれる。
しかも70年代の911のような、下に空気が入ってきて、直進のハンドルが頼りなくなるような、あの感じはない。911はやはりウロング・エンドで、古くなるとボディが長く、室内と鼻とが後で接着させられたような感覚が、たまに来ることがある。しかし356は、なんだかホーローの丸いヤカンにでもおさまっているようで、ボディ一体プレス感が絶えずこっちに戻ってきて、その理由は、鼻が力強く沈み続けているゆえだ。この安心感を得るには、この手ごろでまんまるななりが、ちょうどよいサイズのように感じられて嬉しい。911に較べればずいぶん穏やかなものではあるが、気づけばそれでもずいぶん速度が出ていて、ホンダのSUVで追走してくるI毛氏を、遥か後方に振り切ってしまった。

この356は、あの伝説のポルシェ911の兄貴分で、いうなればすべてのポルシェの原点である。ポルシェ社は、この356によって自動車メイカーとしてのスタートを切る。1948年、オーストリア、グミュントの小村でのことで、これはぼくの生まれと同い年である。しかしこの356の時点で、すでに伝説の科学者、フェルディナンド・ポルシェとはもう関係がない。彼の手で直接設計図が引かれたのは、この一代前のフォルクスワーゲン・ビートルまでである。356は、父の作ったこのビートルのパーツを使って、息子のフェリーが作った。そしてその後継車、栄光の911は、孫ブッツィの手になる。だからワーゲン・ビートル、ポルシェ356、ポルシェ911は、親・子・孫、三代の手によって世に出た。そしてどれもがライヴァルたちに後塵を浴びせ、歴史を作った。そしてどんな天才家族にも作り得ない、不滅のポルシェ神話は生まれた。
トンネルを抜けて、道がうみほたるにかかると、そろそろ撮影が始まる。しかしこの時点ではまだ宮下氏が横に乗っているから小手調べである。小説ではハインリッヒが1人でドライヴしているわけだから、運転者は1人の方がよい。
うみほたるのレストランに入り、軽く昼食をとってから千葉に向かい、いよいよ本格的な撮影を始める。ぼくの方はベレー帽を目深にかぶり、革のジャンパーを着込んで、ミッレミリアにでも参戦しているような本格装備である。こちらはただ定速で走っており、カメラをかまえてI毛氏のSUVから身を乗り出した田中カメラマンが、真横、前方、後方と、走っているこちらの姿を撮影する。しかし公道の上だから、他にも車はいる。後続車が追いつくたび、田中氏の意図をこちらが察知して、すばやく位置を変えなくてはならない。追い抜けと田中氏が大きく腕をあおると、素早くアクセルを踏んで、ホンダ車の前に飛び出す。こういう時、ポルシェ車はどれもピックアップがよいから楽である。
十数年前、さんざんやって体が憶えていたから、田中氏とは阿吽の呼吸である。しかしI毛氏は経験がないものだから、実働に入って気合が入ってしまった田中氏に、前だ、もっと前、早く! などとどやされて汗をかいたそうである。

千葉に着いてから、小さな埠頭を見つけて先端近くまで2台を乗り入れ、仕上げの置き撮影をした。沖の東京湾を、巨大タンカーがゆっくりと走っていて、撮影が一段落したら、これを眺めながら田中氏と思い出話をした。ルボランの連載をしていた頃、よく行ったのは箱根、大磯、富士五湖方面、西ばかりで、東のこちらには来た記憶がない。うみほたるも、レインボゥブリッジもなかったからだ。もしもあったら、わが名車交遊の背景には、房総、千葉方面の景観が増えていたろう。またお台場など、湾岸の景観も増えたはずだ。
あれから東京は大きく変わった。新宿高層ビルの街から、水辺の環境都市に、シフトしつつある。いわば江戸的なるものに回帰する。自動車も、それを取り巻く環境も様変わりして、低公害車など、運転下手用の年寄り車、などといった例の罵声もやっと影をひそめた。未来車も足が地について、LAでもスーパーカー・ブームは遠い過去のものとなり、EV熱中ももはや消滅、プリウス、シビック、インサイトの日本製ハイブリットカー3車は、1人乗車でもカープール・レーンに入れるようになる。少しだけ自慢を許してもらえれば、カードラ連載や、「アメリカからのEV報告」でしきりに予測していた通りの展開になった。
かつてフェラーリの中古を買い、カップラーメンをすすっていたお仲間の若者たちも、今やどこかに消えた。たぶんみなひとかどの人になって、この宮下氏のように憧れ抜いたスーパーカーをビジネスにしているか、小会社の社長にでもなって、ジャガーを乗り廻しているのであろう。しかしいずれにしてもみな、スーパーカーを前にしても冷静になった。日本人も成熟した。
楽しい一日であった。翌日は雨になったから、この日でよかったと後日I毛氏と話した。田中氏は、寄る年波でよく目が見えない、などと頼りないことを言っていたが、上がってきた356の写真は、往年のもの以上にぴしりとピントが合って、見事な出来であった。要するにみな、依然健在である。田中氏の力は衰えていず、ぼくもまた元気で車を愛している。
 
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